第49話 『シエル』の証明、逆転の狼煙
十一月二週目の火曜日。
秋の冷たい木枯らしが街路樹の街頭を揺らす頃、ひとつの『答え』が世に放たれ、静かに、けれど確実な動きとなって水面下から波及し始めていた。
ついに母親が執筆を手がけ、俺が『シエル』の名義で美しくも切ない表紙イラストを描き下ろした小説が、全国の書店の店頭にずらりと並んだのだ。
物語に込められたテーマは、理不尽なまでの悪意と、大人たちの保身によって作られた冤罪。そして、絶望の底から這い上がろうとする少年の魂の軌跡。
発売当初、世間の反応は決して爆発的なものではなかった。初速の売れ行きはどちらかといえばゆっくりとしたもので、静かな滑り出しだった。
だが、その静けさは長くは続かなかった。
ネットの書評サイトやSNS、そして読者たちの間から、一気に火ががついた。
『この小説の描写、あまりにもリアルすぎないか?』
『主人公が学校や同級生から受ける仕打ち、今の世間で一部のネットニュースや噂になっている某名門学園のレイプ未遂冤罪事件と完全に一致してないか……?』
『もしかしてこれ、実話のセミフィクションなんじゃ……?』
その口コミは、爆発的なスピードで拡散していった。
『シエル』という高い知名度と神格化されたイラストレーターの新作というブランド、そして母の持つ重厚で人間の黒い感情を抉り取るような筆致が融合したその作品は、現代の闇を鋭く抉る告発本として瞬く間に世間の注目を集めた。
そして、それと連動するように、リアルが動き出す。
小説の中に描かれている構造──権力を持つ生徒の親の圧力を恐れ、真実をねじ曲げ、学校側が保身のために無実の生徒を生け贄にして犯罪者に仕立て上げようとした卑劣な隠蔽工作。
それがフィクションではなく、現実の碧陵学園で行われた構造そのものであると世間に暴かれたのだ。
ネット上では、真相を嗅ぎつけた特定班や正義感の強いネットユーザーたちによって、学園側の隠蔽体質などに猛烈なバッシングの嵐が吹き荒れていた。
学校の公式ホームページや代表電話には全国から抗議のメールや電話が殺到し、経営陣や教職員たちは対応に追われてパニックに陥っているという噂だった。
§
その日の夜。
逢沢家のダイニングキッチンには、これまでにないほど明るく、弾むような空気が満ちていた。
テーブルの上には、重版が決定したという祝賀を兼ねて、俺が腕を振るった豪華なご馳走が所狭しと並べられている。
「すごいわ、空君。 発売からわずか一週間足らずで、早くも『大重版』が決定したんですってね」
大皿のローストビーフを取り分けながら、桐乃さんが誇らしげに笑みながら言った。
あの事件以来、黒い雲のように空の頭上を覆っていた世間の冷たい視線や偏見の霧が、一冊の小説によって見事に吹き飛ばされようとしている。
「本当にね! 翠さんの話だと、初速こそゆっくりだったけど、口コミの広がり方が尋常じゃないって編集部の人も驚いてたらしいよ。今やネットのトレンドはずっと『庵原翡翠とシエルのコラボ』と『碧陵学園の真実』で持ちきりだもの」
爽花さんも、グラスのオレンジジュースを傾けながら、穏やかな微笑みを向けてくれた。
「小説の中では、主人公が理不尽な罠に嵌められて絶望しながらも、最後には自分の力と絆で真実を掴み取っていく描かれ方をしているけれど……現実のほうも、まさにその通りになり始めているね」
隣に座った玲那さんが、嬉しそうに目を細めながら俺のグラスに飲み物を注いでくれる。
「あとは、あの小説みたいに、あいつらが仕組んだ罠だったってことの決定的な証拠を暴いて、空君の無罪を完全に証明するだけだね」
爽花さんがスプーンを置き、きりっと引き締まった表情でそう締めくくった。
世間の風向きが変わり、藤嶺らや学校側が完全に追い詰められているのは事実だった。
しかし、相手もこのまま黙って沈んでいくわけがない。
「そうね。世間の風向きが変わってあいつらは今、猛烈な逆風に晒されて追い詰められているわ。だからこそ、連中は焦ってまた何か汚い手を仕掛けてくるかもしれない。そこを上手く証拠におさめられれば、一網打尽にできるんだけど……」
桐乃さんが腕を組み、冷静に分析する。
「私だって、新聞部のネットワークを使って学内の動きをずっと監視しているんだから! あの藤嶺とか、停学になったあの女とかが変な動きをしたら、絶対にその決定的な証拠を掴んでやるんだから!」
凛ちゃんが、小さな胸を張りながら頼もしく宣言した。
「凛ちゃん、ありがとう。でも、無理だけはしないでくれよ」
俺が優しく頭を撫でると、凛ちゃんは照れくさそうにふにゃりと笑った。
「心配しないで、空お兄ちゃん。私は、お兄ちゃんの力になりたい……無実を証明するまで頑張りたいの」
そして、凛ちゃんだけでなく、玲那さんもまた、俺の手にそっと自分の手を重ね合わせ、揺れる瞳で真っ直ぐに見つめてきた。
「私も、ずっと空君を支えるからね。何があっても、もう二度と一人になんてさせたりしないから」
その温もりと言葉に、俺は胸が熱くなるのを覚えた。
今、自分の周りには、これほどまでに深く自分を信じ、愛し、支えてくれる家族と仲間がいる。
あとは、奴らの化けの皮を完全に剥ぎ取り、過去の冤罪を晴らすだけだ。
新たな決意を胸に、俺は温かな家族の笑顔の中心で、静かにうなずいた。
§
翌日。
碧陵学園の2年C組の教室には、これまでにない異様な緊張感が漂っていた。
昨日からネット上で爆発的に燃え広がっている『某名門学園の冤罪隠蔽告発小説』の話題は、生徒たちの間でも瞬く間に広がり、隠しきれない共通の認識となっていた。誰もがスマホを覗き込み、ひそひそと何かを囁き合っている。
「ねえ、昨日の夜のニュースやネット見た……? これ、絶対この学校のことだよね……?」
「うん……主人公のモデル、どう見ても遠坂空じゃん。それに、裏で隠蔽を主導した教頭や、保身に走った教師たちの特徴が生々しすぎて……」
教室のあちこちからそんな声が聞こえてくるが、かつて空に対して心ない言葉を浴びせたり、あからさまに避けていたりした生徒たちは、今や気まずそうに目を逸らし、誰一人として大きな声を上げようとはしなかった。
そして、その教室の中で、ひと際目を引く変化があった。
学校で、遥の席は、空席だった。
数日前、書店で玲那さんに対して万引きの濡れ衣を着せようとした悪事が防犯カメラによって完全に暴かれ、店員と凛ちゃんの鋭い追及の末に通報を受けた学校側から下された『二週間の停学処分』。
自分の保身のために俺を裏切り、さらに歪んだ独占欲から他者を陥れようとした純丘遥の姿は、今の教室にはどこにもなかった。彼女の机の上には冷たい空気が溜まっているかのようだった。
俺は自身の席に静かに座り、窓の外を流れる雲を眺めながら、淡々と授業の準備を進めていた。
周囲からの視線を感じるが、もはや以前のような居心地の悪さは微塵もない。
彼らの怯えたような、あるいは気まずそうな視線は、形勢が完全に逆転したことを雄弁に物語っていた。
§
放課後のホームルームが終わり、静まり返りかけた教室に、担任の乾いた声が響いた。
「ええっと……遠坂。この後、職員室に来るように。いいな」
クラスメイトたちが一斉に視線を向けてくる中、俺は静かにノートを閉じると、淡々と立ち上がった。
「はい、わかりました」
職員室へと続く廊下を歩きながら、俺は冷静に思考を巡らせていた。
突然の呼び出し。おそらく、今ネットと世間を賑わせている『告発小説』の件、そしてそれに伴う学園のパニックに関係しているに違いなかった。
職員室の奥にある来客用の休憩スペース。
そこに待っていたのは、普段は威厳ぶった態度を崩さない教頭だった。
しかし、その額にはうっすらと脂汗が滲み、目の下に深いクマが刻まれている。
「……遠坂君。座りなさい」
教頭はかすれた声でそう言うと、震える手で湯呑みを持ち上げ、一口お茶を飲んだ。
俺は言われるがままにパイプ椅子に腰掛け、落ち着いた瞳で教頭を見据えた。
「で、用件は何ですか?」
教頭はごくりと喉を鳴らし、取り繕うようにわざとらしく咳払いを一つしてから、声を潜めて切り出した。
「……遠坂君。君も知っているだろう、最近出版された、あの……小説のことだ。学内でも色々と、いわれのない噂や憶測が飛び交っているのは耳にしていると思う」
「さあ。世間の流行り本には疎いもので。何のことですか?」
俺がわざとぼけたような冷ややかなトーンで返すと、教頭の顔がわずかに引きつった。
だが、今は俺を怒らせている場合ではないと悟ったのか、教頭は必死に声を和らげようとしながら、信じられないような言葉を紡ぎ出した。
「……頼みがあるんだ。遠坂君」
「頼み、ですか」
「ああ……。今、ネットを中心に、我が学園が過去のトラブルに関して不当な隠蔽をしたのではないかという、全く事実無根の誹謗中傷が拡散している。学校の社会的信用に関わる重大な問題だ。そこでだな……」
教頭は前かがみになり、懇願するような、それでいてどこか命令じみた卑屈な笑みを浮かべた。
「世間に対して、そしてメディアやSNSに向けて……『我が碧陵学園は、一連の生徒間のトラブルや処分において、何ひとつ隠蔽などの不正な対応は一切とっていない。学校側の処置は適正なものであった』と、当事者である君から公式にコメントを出してくれないか? できれば声明文に署名してほしいんだ。そうすれば、世間の誤解もすぐに解ける。君にとっても、学校の名誉が守られれば、今後の学生生活や卒業後の進路において、これ以上の不利益が生じることはなくなるはずだ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の内で、冷たい嘲笑が沸き起こった。
何ひとつ間違った対応はとっていない、だと?
あの時、ろくに調査もせず、赤羽側の親の権力や学校の保身を最優先にして、無実の自分を犯人に仕立て上げ、退学に追い込もうとしたのは他ならぬこの男たちではないか。
都合が悪くなった途端、被害者である自分を利用して、世間の目を欺こうなどと、よくもまあそこまで厚顔無恥になれるものだ。
けれど、この展開はすでに予測されていた。
昨夜、逢沢家のダイニングで、桐乃さんが鋭い眼差しでこう言っていたのだ。
『あいつらは今、世間のバッシングと抗議の嵐で頭がおかしくなっているはずよ。きっと、自分たちの保身のために、あなたを言いくるめて「学校側は正しかった」という声明を出させようと圧力をかけてくるか、泣きついてくるかするでしょう。だから、もしそんな話が来たら、耳を貸す必要なんて一切ないからね』
脳裏に蘇った桐乃さんの的確な助言を思い出しながら、空はふっと息を吐き出した。
「断ります」
はっきりと、淀みのない声で俺は言った。
途端、教頭の表情が凍りつく。
「な……んだと……? 遠坂君、君のためを思って言っているんだぞ! このまま学校と対立するような真似をすれば、君のこれからの人生にどれだけの傷がつくか……っ!」
「俺のため? 笑わせないでください」
俺は椅子からスッと立ち上がり、冷めきった瞳で教頭を真正面から見下ろした。
「あなたが守りたいのは、学校の名誉でも生徒の未来でもなく、あなた自身の保身と、その椅子にしがみつきたいがための醜いプライドだけでしょう。そんなものに、俺が加担する理由がどこにあるんですか」
「き、君っ……! 教師に向かってその態度はなんだ……!」
「話はそれだけですか。じゃあ、失礼します」
俺は一切の未練を見せず、その場でクルリと背中を向けた。
「待ちなさい……! 待てと言っているんだ、遠坂空っ……!」
後ろから教頭の必死の怒号が浴びせられたが、俺は振り返ることもなく、ただ淡々と、力強い足取りで職員室の扉へと歩を進めた。
廊下を抜けながら、俺の胸中には、確かな手応えと、いよいよ追い詰められた敵の最後あがきに対する冷ややかな確信が満ちていた。
奴らの牙城は、音を立てて崩れ始めている。
あとは、本当の意味での完全な決着をつけるだけだ。
秋の冷たい風を浴びながら、俺は一歩一歩、確かな足取りで家路へと向かった。




