第48話 暴かれた悪意
Side:純丘遥
秋が深く進んだ十月の下旬。
放課後の冷たい風が街路樹の葉を揺らし、下校途中の学生たちの制服の裾を翻していた。
碧陵学園から少し離れた駅前の大通りに面した、ガラス張りの綺麗な大型書店。
その明るい店内で、私は平積みにされた新刊の小説コーナーの陰から、じっとその姿を窺っていた。
そこにいたのは、逢沢玲那だった。
ブラウンのミディアムヘアを上品に揺らし、制服の上にカーディガンを羽織った彼女は、真剣な眼差しで棚の背表紙を指先でなぞっている。
その横顔を見ているだけで、胸の奥がドロドロとした黒い熱で焼かれるように疼いた。
今でもいい気分でいるつもりなのだろうか。
きっと、あの学園祭のミスコンや体育祭のときの『公開告白』じみた出来事を思い出して、一人で優越感に浸っているに違いなかった。周囲の視線を独り占めにして、空君の隣を我が物顔で歩いているあの女の姿を思い出すだけで、吐き気がするほど憎らしかった。
空君の隣にいるべきなのは、幼馴染みの私なのに。そこにはずっと私がいたはずなのに、すべてあの女が台無しにしたのだ。
許さない……。絶対に、許してあげないから……!
昨日の放課後、夕暮れの教室で藤嶺君と結んだ『共犯関係』。
空君を自分から奪い去った逢沢玲那を地獄に落とし、社会的信用を徹底的に踏みにじってやるという復讐心。
その第一歩として、藤嶺君から教えられた確実な手段が、今、目の前で実行に移されようとしていた。
『あいつはきっと、今日も書店や文房具屋に寄り道する。そこで、万引きの濡れ衣を着せるんだよ。一番手っ取り早く、あいつのプライドと周囲の信頼をズタズタにするにはそれが一番だ』
藤嶺君の嘲笑うような声が脳裏に蘇る。
私は手に持っていた、適当な厚みのある一冊の文庫本をぎゅっと握りしめた。
空君を私から奪ったあの女が、世間からどんな目で見られるか。万引き犯の濡れ衣を着せられて警察や学校で大スキャンダルになり、プライドがズタズタに引き裂かれるところを想像するだけで、ぞっとするような甘い快感が背筋を駆け抜けた。そうなれば、空君もきっとあの女の本性に気づき、愛想を尽かすはずだ。
そして、傷ついた空君を慰め、包み込めるのは、幼馴染みの私しかいなくなる──!
その光景を想像して一人酔いしれながら、私は息を殺し、足音を完全に消して玲那の背後へと忍び寄った。
玲那は目の前の美術書の内容にすっかり気を取られており、背後から迫る足音に全く気づいていない。背筋を伸ばし、真剣にページをめくっている。
今……!
すっと、玲那の背後にピタリと密着する距離まで近づく。
玲那が左肩から提げている、キャンバス地の大きめなトートバッグ。その口が、ほんの少しだけ開いていた。
周囲の客たちは少し離れた別の棚にいて、店員の視線もレジのほうを向いており、死角になっている。
まさに神様が与えてくれたような絶好のチャンスだった。
私は震える手で文庫本の角を突き出し、玲那のトートバッグの隙間へと、こっそりとそれを滑り込ませた。
音もなく文庫本がバッグの底に落ちる。
ふふっ……入った……!
達成感が私の胸を駆け巡る。これで、この女は万引き犯だ。
そう確信して、私はそっとその場から後ろへ一歩下がろうとした。
その時だった。
「──ねえ、何してるの?」
冷たく冷え切った少女の声が、背後の空間を鋭く切り裂いた。
「……っ!?」
心臓が凍りつくような衝撃を受け、私はビクッと全身を跳ねさせた。
慌てて振り返ると、そこには、いつの間にか背後に立っていた一人の少女がいた。
ツインテールにした髪を揺らし、その大きな瞳に怒りと冷たい光を宿した少女──知っている、以前レイプ未遂事件のことで話を聞きに来た逢沢玲那の妹、凛だった。
(どうして……このガキがここにいるの……ッ!?)
血の気が一気に引き、私の顔面からサーッと色が消えていく。
「今、玲那お姉ちゃんのバッグに、勝手に商品を入れたよね?」
凛の声は大きくはなかったが、店名の静かな通路に響き渡るには十分すぎるほどクリアで、容赦のないものだった。
その声に反応して、玲那がハッとして振り返った。
彼女は自分の肩に提げたトートバッグの口を覗き込み、そこに見覚えのない一冊の文庫本が無造作に入れられているのを発見して、目を見開く。
周囲にいた数人の客たちが、ざわめきながらこちらに視線を向け始めた。レジの近くにいた店員の一人も、異変に気づいて足早にこちらへ歩み寄ってくる。
「ち、違うっ……! 違いますっ……!」
反射的に、私は甲高い声で叫び声を上げていた。
脳裏にあるのは破滅への恐怖と、絶対に罪を認めまいとする保身のみだった。
「ち、違う! この女が……この逢沢玲那が、自分でその本を隠そうとしたのを見たの! 私は、それを止めようとして……!」
「嘘つき」
私の言い訳を、凛は冷え切った声で一刀両断した。その瞳には、嘘をつく人間に対する明確な軽蔑の色が浮かんでいた。
「私、最初からずっと見てたもん。アンタが後ろからコソコソ近づいて、自分の持ってた本を勝手に玲那お姉ちゃんのバッグに突っ込んで、すぐに知らんぷりしようとしたところを、この目でバッチリ見たんだよ」
「なっ……なにを……ガキのくせに勝手なこと言わないでよ……っ! 証拠はあるの!? あんたの思い込みでしょ……!」
私は半狂乱になりながら、叫び声を上げた。
「証拠なら、いくらでもあるよ」
そこに、店員が冷静な足取りで割って入ってきた。名札をつけた男性店員は、険しい表情で私たちを見据える。
「お客様、少々よろしいでしょうか。ただいまの状況、こちらの防犯カメラがすべて捉えておりますので」
「──っ……!」
その一言に、私の全身の血が凍りついた。
本屋の天井の隅。そこに、ドーム型の防犯カメラが設置されているのを今になって知った。
「店員さん、お願いします。防犯カメラの映像をチェックしてください。そうすれば、誰が本当に何をしたのか、すぐにはっきりするから」
凛が毅然とした態度で店員に告げると、店員は深く頷いた。
「かしこまりました。それでは、事務所のモニターで映像を確認させていただきますので、お二人ともご同行願えますか?」
「いっ……嫌よ……っ! 私は何もしてない! なんで私が……っ!」
私はガタガタと全身を震わせ、その場から逃げ出そうと一歩を踏み出した。
だけど、もう逃げ場などどこにもなかった。
書店のバックヤードにある事務所。
その無機質な蛍光灯の下で再生された防犯カメラの映像は、あまりにも残酷なまでの真実を映し出していた。
画面の中には、周囲を窺いながら玲那の背後に忍び寄り、手にした文庫本をトートバッグの隙間へと滑り込ませる私の姿が、鮮明なカラー映像で克明に記録されていた。その直後に凛が声をかけ、私が慌てて否定して取り繕う一連の一部始終も、音声こそないものの、完璧に収められていた。
「……これでも、まだ『自分はやっていない』とおっしゃいますか?」
店員が冷ややかな視線を向けながら、証拠の文庫本をデスクの上に置いた。
「あ……あ……これは……その……」
事務所の椅子に座り込んだ私は、もはや言葉を失い、喉からカラカラと絞り出すような音を漏らすだけだった。
顔面は土気色に変色し、瞳からは大粒の涙がとめどなく溢れ出て、制服の膝の上にポタポタと落ちていく。
「万引き、および他者への冤罪工作未遂と営業妨害になります。未成年とはいえ、警察に通報するか、あるいは在籍している学校へ連絡して厳正な処分を仰ぐことになりますが……」
店員のその言葉を聞いた瞬間、私のなかの最後の防衛線が完全に崩壊した。
「やめて……警察だけは……っ! 学校にだけは連絡しないで……! お願い、何でもするから……っ!」
事務所の床に膝をつき、両手をついて泣き叫ぶ私。
けれど、被害者である玲那の尊厳を守るため、そして店舗の信用を守るため、店員の意志は固かった。事態は厳正に処理されることとなった。
碧陵学園への連絡は、その日の夜のうちに学校の教務主任へと入れられることになった。
数日後、私は以前空君が受けたように、二週間という重い停学処分を言い渡された。




