第47話 歪んだ独占欲、交差する悪意
秋の夕暮れは足早にやってくる。
西の空を赤く染め上げた陽光が、碧陵学園2年C組の窓ガラスを斜めに突き抜け、静まり返った教室の床に長い影を落としていた。
ガリガリ、とペン先が紙を走る音だけが室内に響く。
「……やっと、終わった……」
俺は、大きく息を吐き出しながら、最後に書き上げた小論文の課題用紙をクリップでまとめた。
うっかり今週締め切りの提出課題を忘れていたせいで、放課後の貴重な時間をまるまる居残りに費やすはめになったのだ。
職員室で担当の教師に小論文を提出し、小言を言われた後、俺は教室へと戻った。
「にしても、疲れたな……」
呟きながら扉を開けて室内に入ろうとした時、視界にふと、見覚えのある後ろ姿が飛び込んできた。
夕闇がうっすらと漂い始めた教室の隅。
そこにあったのは、窓際の自分の席のすぐ近くに佇む、一人の女子生徒の姿だった。
幼馴染みの純丘遥。
なぜ彼女がこんな時間にまだ教室に残っているのか。一瞬の疑問が頭をよぎったが、すぐに面倒くさい感情がそれを塗りつぶす。
あの冤罪事件が持ち上がった当初、彼女はクラスの同調圧力に飲まれるように、俺からそっと距離を置いていたのだ。
クラス中が俺を見る冷ややかな目線の中で、彼女は終始傍観者に徹し、俺に一言の救いの言葉もかけてくれなかった。
「……空君」
遥の声音は、夕暮れの冷たい空気のなかで微かに震えていた。
彼女は一歩、また一歩と俺との距離を詰めてくる。その瞳に宿るのは、心配でも安堵でもなく、もっとドロドロとした感情だった。
「どういうことなの?」
「……何がだ」
「とぼけないでよ! 体育祭の時……あの借り物競争の時のことだよ!」
遥は拳を固く握りしめ、唇を噛み締めながら詰め寄ってきた。
「逢沢玲那……あの女と、どういう関係なの!? 体育祭のあんな大勢の前であんなことされて……あれ、実質的に告白されたようなものじゃない! なんであんなお高くとまった女と、空君がいつも親しげにしてるの!」
その言葉を聞いた瞬間、俺のなかで、乾いた冷たい風が吹き抜けたような感覚がした。呆れと、それを通り越した空虚感。
「……遥。俺と誰がどういう関係になろうと、お前には関係ないだろ?」
冷たく突き放すような俺の口調に、遥は信じられないものを見るような目を向けた。
「なんでそんなこと言うの!? 私たち幼馴染みでしょ!? 小さい頃からずっと一緒に育って、お互いのことだって一番よく分かってるはずなのに……!」
「お前は……」
俺は視線を冷たく落とし、彼女をまっすぐに見据えた。
「お前は、俺のことを信じてくれなかったじゃないか」
その一言に、遥の息がピタリと止まった。
「あのレイプ未遂の冤罪事件が起きて、クラス中が俺を化け物みたいに避けて、理不尽な陰口を叩いてた時……お前はどこにいた? 俺の幼馴染みだと公言していながら、お前は周囲の目が怖くて俺から逃げた。俺が犯人じゃないかって疑いの目を向けて、一言も庇ってくれなかっただろ」
「それは……っ! しかたないじゃない……!」
遥はうめくように声を絞り出した。
「あの時は、クラスの皆があんな空気だったし、先生たちも……それに、もし私が空君を庇って変な噂を立てられたら、私の立場だってどうなるかわからなかったんだから……!」
「自分の保身のために、俺を切り捨てたんだろ」
「違う! 違和感はあったの……! 空君がそんなことするはずないって、心のどこかでは分かってたの! だから……だからこうして、今になっておかしいって思い直して、ちゃんとこうして話に来てるんじゃない!」
必死に言い訳を重ねる遥の声は、今の俺の心には一切響かなかった。いや、むしろ見苦しく響くだけだった。
「もう遅いよ、遥」
俺はきっぱりと言い放った。
「え……?」
「一度壊れた信頼なんて、そう簡単に元に戻るもんじゃない。お前が俺を見捨てたあの瞬間に、俺たちの関係は終わったんだよ」
「そんなことない……! そんなの嘘だよ!」
遥は半狂乱になったかのように首を横に振ると、突然、信じられないようなセリフを口走った。
「私、知ってるんだから……! 空君は、ずっと私のことが好きだったんでしょ!? いつだって私を特別扱いしてくれて、私のことだけを見てくれてたじゃない!」
その身勝手な論理に、俺は思わず失笑してしまった。
「以前はな。ガキの頃の情もあったし、お前のことを大切に思っていた時期もあったさ。だけど、それは過去の話だ。今の俺は、お前のことなんて何とも思っちゃいない。ただのクラスメイト以下の、どうでもいい赤の他人だ」
「──っ!!」
遥の顔色から、一気に血の気が引いた。彼女は膝が折れそうになるのをこらえるように、両手で自分の胸元を押さえた。
「そんなはずない……そんなの認めないよ……! 空君は私じゃなきゃだめなの! 私以外の女に優しくするなんて許されないんだから……!」
「勝手に言ってろ。じゃあな」
これ以上、この狂気に満ちた空間に付き合う必要はない。
俺は彼女に背を向け、そのまま教室の出口へと歩き出した。
「待って、空君……! 待ちなさいよ……っ!」
背後から遥の泣き叫ぶような声が追いすがってきたが、俺は振り返ることなく、夕暮れの廊下へと足を踏み出したのだった。
§
Side:純丘遥
いなくなった……。
足音が遠ざかり、夕暮れの2年C組の教室には、再び重苦しい静寂が戻ってきた。
私は、誰もいなくなった窓際の席の近くで、ガタガタと震えながらその場に立ち尽くしていた。
「……うそ……うそだよ……」
頭の中で、空君の冷たい視線と、突き放すような低い声が何度も何度も木霊する。
私が見捨てた? 私がいつ、空君を見捨てたというの?
違う。私はただ、あの異常な空気の中で、身を守る仕草をしていただけ。少しの間だけ、距離を置いていただけなのに。なのにどうして、空君はあんなに冷たい目を私に向けるの?
すべては、すべてあの女のせいだ。
「逢沢玲那……あのクソ女のせいで……!」
私の脳裏に浮かび上がるのは、あの気高げに澄ましている逢沢家の三女の顔。
学園祭のミスコンでグランプリを獲り、全校生徒の視線を集め、そして体育祭の借り物競争では、あんな公衆の面前で空君の名前を呼び、自分の隣に引きずり込んだあの女。
空君が私に見向きもしなくなったのは、すべてあの女が空君を惑わせ、私の居場所を奪ったからだ。空君の隣にいるべきなのは、幼馴染みの私なのに。あの女さえいなければ、空君はいつだって私だけのものだったのに……!
「絶対に許さない……。絶対に、許してあげな
いから……!」
歯ぎしりが聞こえそうなほど奥歯を噛み締め、爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。
怒りと、どうしようもない嫉妬と、そして空君に拒絶された恐怖が混ざり合い、私の胸の内を真っ黒な泥水のように満たしていく。
その時だった。
「そんなに逢沢玲那のことが憎いのか?」
突然、背後からかけられた低くどこか湿った声に、私はビクッと肩を跳ねさせた。
慌てて振り返ると、夕闇の影からゆっくりと姿を現したのは、クラスメイトの藤嶺徹君だった。
「……藤嶺……君?」
私が警戒するように身構えると、藤嶺君は冷ややかな、どこか嘲笑うような笑みを浮かべながら、私との距離を詰めてきた。
「驚いたな。優等生ぶっていた純丘が、そんな醜い顔で一人でブツブツ呟いているなんてさ。……聞いていたぜ、空と、あの逢沢玲那のことで怒ってるんだろ?」
「……っ、関係ないでしょ。ほっといてよ」
「関係大ありさ」
藤嶺君は不気味に目を細め、私の目の前で足を止めた。
「俺も、あの空にはずっとイラついていたんだよ。文化祭でも、今回の体育祭でも、俺から主役の座を奪い、俺の築き上げてきたプライドをズタズタにしやがった。そして、あの逢沢玲那もだ……俺という存在を無視して、あんな犯罪者崩れの野郎に惚れ込みやがって……! 許せるわけがないだろ、あんな奴ら……!」
彼の声には、私と同じ、いやそれ以上にねっとりとした復讐心と劣等感が滲み出ていた。
同じ『奪われた者』同士。
同じ『逢沢玲那と遠坂空』に恨みを持ち、強く執着する者同士。
藤嶺君はゆっくりと口角を吊り上げ、まるで悪魔のささやきのような言葉を紡ぎ出した。
「なあ、純丘。お前も、あの空を取り戻したいんだろ? そして、あの調子に乗っている逢沢玲那の鼻をあかしてやりたいんだろ?」
「……そんなこと、できるわけ……」
「できるさ。俺の言う通りにやればな──」
私はその悪魔のような誘いに乗った。




