第5話 差し伸べられた温かな手
案内されたのは、街の一角にひっそりと佇む、隠れ家風の高級イタリアンレストランだった。
外観からして上品なレンガ造りで、大きなガラス窓からは温かみのあるアンティーク調の灯りが漏れている。
庶民の今の俺が足を踏み入れるにはあまりにも敷居が高い場所だったが、逢沢家の四姉妹に連れられて、俺は遠慮がちにその重厚な木の扉をくぐった。
通されたのは、プライベートが完全に守られた広々とした個室だった。
部屋の中には上質な革張りのソファと、ピカピカに磨き上げられたマホガニーのテーブルが据えられている。壁にはモダンな絵画が飾られ、ほのかにアロマの香りが漂う空間は、先ほどまで街頭で感じていた凍えるような孤独感や現実の過酷さを、少しだけ忘れさせてくれるような落ち着きがあった。
ふかふかのソファに腰を下ろし、注文を済ませた料理が運ばれてくるまでの穏やかな時間が流れる。
個室という閉ざされた空間は、彼女たちとの距離が近く、思わず緊張で身が引き締まる。
テーブルの中央に置かれた冷えたミネラルウォーターのグラスを軽く手に取り、視線を上げると、長女である桐乃さんが真っ直ぐに俺を見つめていた。その凛とした美しい瞳には、深い感謝の光が宿っている。
「まずは、改めてしっかりとお礼を言わせてもらうわね。さっきは本当に、私たち姉妹を助けてくれてありがとう」
桐乃さんのその言葉を皮切りに、次いで他の姉妹たちが次々に頭を下げた。
「「「本当に、ありがとうございました!」」」
四人からの揃った謝意を受け、俺は慌てて首を横に振った。
「いえ……そんな、頭を上げてください。あんな状況を見たら、誰だって反射的に体が動いていたはずですし……当然のことをしたまでです」
照れくささと、過分な感謝に対する居心地の悪さから、俺は視線をテーブルの木目に落としながら小さく呟いた。
だが、桐乃さんは首をゆっくりと横に振り、大人の落ち着きを湛えた柔らかな笑みを浮かべる。
「ふふ、謙遜しなくてもいいのよ。君にとっては当然のことだったかもしれないけれど、いざあんな危険な状況に直面したとき、自分の身を顧みずに他人のために飛び込める人間なんて、そうそういるものじゃないわ。普通の人は、恐怖で足がすくむか、見て見ぬふりをするのが関の山よ。君はとても勇敢だったわ」
「そうそう! 本当にカッコよかったよ、お兄ちゃん!」
凛ちゃんが目を輝かせながら賛同し、小さくガッツポーズを作ってみせる。その無邪気な笑顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「それじゃあ、まずは」
と、桐乃さんが話題を切り替えるように、優雅な手つきでティーカップに口をつけ、一息ついてから続ける。
「こうして落ち着いて話すのも初めてだし、自己紹介からよね。私は逢沢家の長女、桐乃よ。一応、これでも弁護士をしているわ」
弁護士。その言葉を聞いた瞬間、俺はわずかに息を呑んだ。
法律のプロフェッショナルである彼女が、今の俺の絶望的な状況を知ったらどう思うだろうか。そんな不安が脳裏をよぎるが、彼女の纏う雰囲気があまりにも頼もしく、不思議と安心感に繋がっていく。
「私は次女の爽花です。職業は……うーん、プログラマー、ですかね?」
爽花さんは少しだけ言葉を詰まらせ、困ったような笑みを浮かべた。
その一瞬の間について、俺は心の中でそっと首を傾げる。一言では言い表し難い職業とはいったい何だろうか。
それにしても、目の前に座る爽花は、丁寧な口調といい、楚々とした物腰といい、まさに絵に描いたような深窓の令嬢といった佇まいだ。そんな彼女がバリバリのプログラマーだというのは、見た目とのギャップが大きすぎて驚かされる。
「私は三女の玲那。遠阪君とは、同じ碧陵学園の同級生だね。えっと、それでこれは学校の皆には内緒にしているんだけど、私、実は顔出しNGのネットシンガーをやっているの。主に自宅からの配信で、キーボードの弾き語りなんだけどさ」
玲那が少し照れくさそうに頬を掻きながら打ち明ける。
学園では『近寄り難い孤高のクールビューティー』『高嶺の花』として知られている彼女が、まさかネットの向こうで歌を届けるシンガーだとは。先ほど見せたあどけない少女の一面といい、彼女の持つ多面的な魅力に、俺はただただ圧倒されるばかりだった。
「そして私は四女の凛です! 碧陵学園の中等部に通っていて、学校では新聞部で活動してます! 特ダネを狙うのが得意なんだよ!」
凛ちゃんが元気いっぱいに胸を張り、紹介を締めくくった。
「俺は遠阪空です。玲那さんと同じ、碧陵学園の二年生です」
自分の番になり、俺はかすれかけた声でぽつりと答えた。
「空君ね。私たちは普段、週末になるとこうして四人で外食に出かけるのが定番のルーティンなの。その前に、何気なく立ち寄ったディスカウントストアの前であんな大事故に巻き込まれてしまって……本当に、空君が通りがかってくれて助かったわ。ところで、空君……さっきから気になっていたんだけど、その、大きなバッグひとつで、あんな時間にあの一帯で何をしてたの? 」
桐乃さんの何気ない問いかけに、俺の喉がキュッと締め付けられる。
答えにくかった。せっかくこうして温かく迎えてくれた人たちに、自分の醜聞や、犯罪者のような濡れ衣の話を打ち明けるのは気が引けた。
けれど、これだけの恩を受けながら嘘をつくことなど、到底できるものではなかった。偽るくらいなら、すべてをさらけ出して嫌われた方がマシだ。
「俺は……その……」
俺は俯き、両手を固く握りしめた。震える声を必死に抑え込みながら、絞り出すように真実を語り始める。
「実は俺……今日の昼、学園で停学処分を言い渡されて、そのまま家を追い出されたんです……」
その言葉に、個室の空気がピタリと静まり返った。
四姉妹の表情が、一瞬にして驚愕の色に染まる。
「「「え……?」」」
重い沈黙の中、俺はさらに言葉を継いだ。もう引き返せないところまで来てしまったという自暴自棄な感情と、誰かにこの苦しみをわかってほしいという切実な思いが入り交じっていた。
「俺、学園で……クラスメイトの女の子を強姦しようとしたっていう、身に覚えのない濡れ衣を着せられて……もちろん、俺はそんなこと絶対にしていません。完全な冤罪なんです。だけど、相手の女の子の家は学園に大きな影響力を持っていて……教師たちはまともに取り合わず、俺を一方的な犯罪者だと決めつけました。家族も……俺の言い分を一切聞いてくれず、父親には勘当されて、家から叩き出されたんです……」
語り終えると、自分の声が情けなく震えているのがわかった。目頭が熱くなり、こらえきれなくなった涙が溢れそうになるのを、必死に天井を見上げてこらえた。
「そんな……まさか……」
玲那さんが絶句したように目を見開き、両手で口を抑えた。
「今日、学園中で噂になっていたのって……もしかして、空君のことだったの……?」
「うん……そうだよ。だから……玲那さんも、俺にはこれ以上関わらない方がいい。俺は世間から見れば、そんな極悪非道な犯罪者として処理されているんだから……。俺に関わっていたら、君まで学園での立場が悪くなるし、噂の標的にされてしまうかもしれないんだ」
自嘲気味に笑いながらそう告げた俺に対し、返ってきたのは、想像もしない反応だった。
静まり返っていた個室の空気を切り裂くように、逢沢姉妹の表情がみるみるうちに怒りと義憤の色へと変わっていく。
「ふざけないでっ!」
最初に声を荒げたのは、長女の桐乃さんだった。冷静で理知的な彼女の瞳から、鋭い怒りの光が放たれている。その美しき弁護士の顔は、冷徹なまでの正義感に満ちていた。
「そんなの、あまりにも理不尽じゃないっ! 権力に屈した学校側が、何の証拠もなしに生徒を切り捨てるなんて、プロの法律家としても、人道的な観点からも絶対に許されない外道な行為よ!」
「そうです!」
次いで、爽花さんが、先程までの清楚な佇まいからは想像もつかないほど険しい表情でテーブルを叩いた。
「私たちが誰よりもよく知っています。さっき、自分の命を投げ出してまで凛ちゃんを助けてくれたような誠実で勇敢な子が、そんな卑劣な犯罪を犯すわけがないです! 状況証拠すらないのに、一方の証言だけで決めつけるなんて愚劣の極みですよ!」
「お兄ちゃんは悪くない! 私たちを命がけで守ってくれた優しいお兄ちゃんが、そんな酷いことするわけないもん!」
凛ちゃんが涙を浮かべながら、俺の腕にしがみついて訴えかけてくる。その小さな体から伝わってくる温もりが、凍りついていた俺の心を優しく溶かしていくようだった。
そして、同級生である玲那さんは、席から立ち上がると、まっすぐに俺の目の前まで歩いてきて、その綺麗な瞳に涙を湛えながら強く言い放った。
「空君、顔を上げて。私たちはね、あなたのその言葉を心から信じているよ」
「え……?」
俺が驚いて顔を上げると、玲那さんは力強く頷いた。
「あんなに勇敢に私たちを救ってくれた人が、そんな卑劣な犯罪を犯すわけがない。赤羽という子が嘘のストーリーを作っているに違いない。絶対に、何か裏があるんだよ」
次女の爽花さんも優しい笑みを浮かべながら、俺の肩にそっと手を置いた。
「安心してください、空君。怖がらなくていいんですよ」
続けて長女の桐乃さんが、心強い弁護士としての笑みを浮かべ、胸を張って宣言する。
「私たちが、その冤罪を綺麗に晴らしてあげるわ。権力や保身で真実をねじ曲げた連中に、プロの法と私たちの全力で、正義の鉄槌を下してやろうじゃないの」
「うんうんっ! 私たち姉妹の力を全部合わせて、お兄ちゃんの潔白を必ず証明してあげようね!」
凛ちゃんが元気よく両手を上げて賛同し、四人全員が力強い笑顔と決意の宿った瞳で俺を見つめていた。
あまりの展開の急さに、俺の頭はしばらくついていかなかった。
たった数時間前まで、すべてを奪われ世界中から見放された孤独の底にいたはずの自分が、いまやこんなにも心強い、眩しすぎる女性たちに丸ごと肯定され、守られようとしている。
あふれ出そうな感情を抑えきれず、俺は唇を震わせた。
「……信じてくれるんですか……? 俺の言葉を、そんなに簡単に……」
「簡単にじゃないわ。あなたのこれまでの誠実な態度や、さっき見せてくれた勇気が、何よりも雄弁にあなたの人間性を物語っているもの」
桐乃さんが優しく微笑みながらそう言い切ると、さらに彼女は、まるで当然の提案をするかのようにこう続けた。
「それでね、空君は今、家を追い出されて行くあてがないのよね? それなら、今夜から私たちの家で一緒に暮らしましょう」
「え……?」
予想の斜め上を行くその言葉に、俺は間抜けな声を漏らした。
「えっ、家で……? いっしょにって、あの、俺は赤の他人ですし、男ですよ? そんなの迷惑なんじゃ……」
「桐乃姉さん、それナイスアイデアだよ! 部屋も余っているし、何より今の空君を一人で放っておくなんて絶対にできないもの!」
玲那さんが両手を叩いて大賛成の声をあげる。
「私も大歓迎です。誠実な男の人がいてくれたら頼もしいですしね」
爽花さんも穏やかに微笑みながらうなずく。
「うん! 私もお兄ちゃんと家で一緒にお喋りしたいな! 決まりだね!」
凛ちゃんまで満面の笑みで飛び跳ねるように言った。
あまりの展開の大きさに、俺は動揺を隠せないまま、四人の顔を順番に見つめた。
見知らぬ、しかも恵まれた境遇の美しき四姉妹の家に、身寄りのない男が転がり込んで共同生活を送るなど、常識的に考えてあり得ない話だ。
迷惑をかけるわけにはいかない。
そう思って辞退しようと口を開きかけたが、彼女たちの真剣で、どこか温かい眼差しを見ていると、その言葉は飲み込まれてしまった。
「……いいんですか? 俺なんかといたら、迷惑しかかけないかもしれないのに……」
俺が不安そうにそう尋ねると、桐乃さんはふっと綺麗に微笑み、ワイングラスを軽く傾けた。
「迷惑なんて冗談じゃないわ。命の恩人を路頭に迷わせるような真似をしたら、それこそ人間として恥ずかしいもの。それで──」
桐乃さんは少しだけ声を落とし、慈愛に満ちた瞳で俺を見据えた。
「これからは、私たち姉妹があなたの家族代わりになってあげる。だから、もう一人で抱え込まないで。いいわね?」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れたように、俺の目から止めどなく涙が溢れ出した。
父親に冷たく「出ていけ」と言われたあの時の絶望が、この温かな家族の絆によって、ゆっくりと洗い流されていくような気がした。
夕暮れの冷たい風が街を包み込む中、この温かな個室の中だけは、まるで新しい人生の始まりを祝福するかのように、優しい光と笑顔に満ち溢れていたのだった。




