第4話 夕暮れの街角、救出と救済
五月半ばの夕暮れ時の風は、昼間の温かさが嘘のように肌寒く、空の薄着の背中を冷たく撫で付けていく。
あてどなく足を進め、俺は見慣れた商店街の通りへと出ていた。
週末である今日のこの時間、街を行き交う人々はそれぞれの帰路を急ぎ、あるいは楽しげに繁華街の飲食店へと消えていく。
誰もが当たり前の日常を謳歌し、明日が来ることを疑っていない。
だが、その世界のどこにも、もう俺の居場所は残されていなかった。
所持金は、財布の中に残っていた数千円の紙幣と小銭だけ。
銀行口座は父親が管理していたので、引き落としたりするための通帳やカードは持っていないし、言われた通り、残高はおそらくすべて父親のものになるのだろう。
今日の寝る場所すらない。どうやって生きていけばいいのか、先の見通しなど何一つ立っていなかった。
「……どこへ行けばいいんだよ……」
呟いた声は、雑踏のノイズにかき消されて消えていく。
学校は停学になり、家族には勘当され、世間からは犯罪者予備軍として唾棄される。
自分の足で立っているはずなのに、世界から完全に切り離されたような、底知れぬ孤独感が全身を蝕んでいた。
その時だった。
通りの先に見えるディスカウントストアの看板。店舗の壁の高い場所に掲げられているそれが、吹く風に煽られて固定具が外れかかっているのが見えた。
その丁度真下には、店先で楽しそうに会話する四人のスーツや学校の制服などを着た若い女性たちの姿がある。
マズい……!
あのまま看板が外れでもしたら、その女性たちの上に落下して、彼女たちは大怪我を負ってしまう。
思考するよりも先に、身体が反射的に動いていた。
「──っ! 危ない! 上の看板が落ちてきそうになってるぞ!」
「「「え……?」」」
四人の女性たちは、その突然の叫び声に驚き、一斉に足を止め、全員が頭上を仰ぎ見た。
「本当だわ! 皆すぐに逃げて!」
年長者と思われるスーツ姿の女性が、他三人に呼びかけ、急いでその場から離れようとする。
けれど、その内の一人──ツインテールのセーラー服を着た少女が動揺したせいか、足をもつれさせてその場に盛大につまずいて転んでしまった。
「凛!」
少し離れた位置にいた制服姿の少女が振り返り、必死に手を伸ばすが、間に合わない。
その頭上では、強烈な風圧に耐えかねた巨大な看板が、ギギギと不気味な金属音を立てながら、まさに落下しようとしていた。
けれど、俺は危険を察知した時から既に走り始めていて、そのツインテールの少女の元へと全速力で駆け寄ると、恐怖で身を縮こまらせてうずくまる彼女を力強く抱き抱え、その場から一目散に跳び退いた。
刹那──。
ガシャアアアアン!!
凄まじい金属音と破裂音が響き渡り、看板が俺たちがいたまさにその地面へと激突した。
周囲に飛び散る無数の破片と、巻き起こる砂埃。一歩でも遅れていれば、間違いなく大惨事になっていたほどの衝撃だった。
「凛っ……!」
少し離れた場所で難を逃れた制服姿の少女が、青ざめた顔でこちらへ駆け寄ってきて、涙ぐみながら、俺が抱き締めて保護していたツインテールの少女をその腕の中に引き取り、しっかりと抱き締めた。
「ああ、無事でよかった……。どこも怪我してない? 痛いところはない!?」
「うっ……うん……。玲那お姉ちゃん、平気、だよ……怖かったぁ……」
「そう……ホントによかった……本当によかったぁ……!」
制服姿の少女──玲那と呼ばれた彼女は、妹らしき少女をなだめるようにその背中を優しくさすり、安堵の涙を拭いながら、俺の方へとゆっくりと顔を向けた。
「ありがとう……! あなたのおかげで、凛が……妹が救われたよ……! ……って、あれ?」
彼女の美しい切れ長の瞳が、目の前に立つ俺の姿を捉えて大きく見開かれる。
「……あなた、Cクラスの遠坂空君じゃない!」
そう。
彼女は俺と同じ碧陵学園の二年A組に在籍する、逢沢玲那さんだった。
艶やかな黒髪ロングに黒いニーハイソックスがトレードマークの彼女は、周囲が息を呑むほどの整った美貌の持ち主で、スラリとしたモデル体型のクールビューティーとして学園でも一目置かれている存在だ。
普段の彼女は、どこか隙がなく、近寄り難い孤高の雰囲気を纏っている。
けれど、今の彼女はその完璧な仮面を剥ぎ取り、大好きな肉親を危機から救われた安堵から、年相応のあどけない少女としての素直な表情を覗かせていた。
「私たちの危機を救ってくれて本当にありがとう……。空君は、私たちの命の恩人だよ」
そう言って、玲那さんは深々と頭を下げた。
それに続くように、先ほどから周囲で事態の収拾を見守っていた他の女性たちも駆け寄ってくる。
眼鏡をかけたシニョンヘアの知的なお姉さんが、カチッとしたスーツの袖口を正しながら近寄ってきた。その凛とした佇まいは、いかにもやり手のバリキャリといった印象を与える。
「驚いたわ……。君、ものすごく勇敢ね。一歩間違えば君自身が大怪我をしていたかもしれないのに……お姉さん、すっかり感動しちゃったわ」
知的でクールな雰囲気を漂わせるその女性に続き、今度はライトブルーのワンピースを着たミディアムボブの清楚なお姉さんが、心配そうに俺の衣服の埃を軽く払いながら声をかけてくれた。
「本当によかったです。お兄さん、本当にありがとうございます。怪我はないですか? どこか痛いところとかないですか?」
「お兄ちゃん、助けてくれて……ありがとう。怖かったけど、お兄ちゃんが守ってくれたから……」
さきほどまで怯えていたツインテールの少女が、お姉さんの背中からひょっこりと顔を出し、潤んだ大きな瞳で恥ずかしそうに礼を言った。
「なにか、お礼をさせてください。 命を救ってもらったのに、このままじゃ私たちの気が済まないです」
清楚なお姉さんがそう提案すると、シニョンヘアの女性も深くうなずき、スーツのポケットから名刺入れを取り出そうとする。
「そうよ。何か欲しいものでも、現金でも……遠慮しないで言ってちょうだい。私たち、あなたに感謝してもしきれないんだから」
矢継ぎ早に投げかけられる感謝の言葉と、向けられる真っ直ぐな善意の眼差し。
今の俺にとって、その温かさはあまりにも眩しすぎて、どこか現実離れして感じられた。
学校や家族から『犯罪者』『人間のクズ』と罵られ、泥水をすすらされるように追い出されたばかりの身に、あまりにも過分すぎるストレートな優しさだった。
「いえ……そんな、大げさなものじゃありません。怪我もありませんし……皆さんが無事だったなら、それで十分です。お礼なんていらないですから」
俺は慌てて手を横に振り、作り笑いすらうまく作れない顔でそう答えた。
自分が今、学校でどんな噂を流され、どんな目で 見られている人間なのかを思い出す。
こんな綺麗な人たちとこれ以上関わって、万が一にも『あのレイプ未遂の遠坂だ』と知られたら、彼女たちの善意すらも汚してしまうのではないかと恐怖心が湧いた。
「そういうわけにはいかないわ。命を救ってもらって、はいさようならなんて、そんな薄情な真似、私たちにはできないもの」
シニョンヘアの女性が、温かい笑みを浮かべて首を横に振る。
「そうだわ、桐乃姉さん!」
と、玲那さんがポンと手を叩き、明るい声を上げた。
「それなら、今夜は私たちが夕食をご馳走するっていうのはどう? ちょうど、これから皆で行く予定だったお気に入りのレストランがあるの。そこに案内するから、ぜひ一緒に行こうよ!」
玲那さんのその提案に、清楚なお姉さんも目を輝かせる。
「それ、すごくいいアイデアですね! お兄さんの名前もまだちゃんと聞いていなかったし、ゆっくりお礼を言いたいです」
「うんうん! お兄ちゃん、行こうよ! 美味しいご飯、いっぱいご馳走するからさ!」
凛ちゃんまで嬉しそうに俺の袖をトントンと引っ張る。
拒絶することなんて、到底できる空気ではなかった。
何より、所持金も少なく、今夜の寝るあてすらなく、お腹の底から冷え切っていた俺にとって、その誘いは酷く魅力的な救いの手に思えてしまったのも事実だった。
「……わかりました。そこまで言ってくれるなら、お言葉に甘えます……」
俺が小さな声でそう答えると、玲那さんはぱっと満面の笑みを咲かせた。普段の学園で見せる、あの近寄り難いクールビューティーとは違う、純粋で華やかな少女の笑顔があった。
そのあまりの可愛らしさに、俺は思わず息を呑み、視線を逸らしてしまった。
「決まりだね! じゃあ、さっそく行こうか。歩いてすぐのところにある、すっごく美味しいイタリアンのお店なんだから!」
こうして、絶望の底に突き落とされていた俺は、思いがけない出会いから、美女、美少女揃いの四姉妹によって、優しく温かな夕食の席へと連れ出されていくのだった。




