第3話 家族の断絶と追放
ガチャリ、と乱暴に自室のドアが開け放たれる音で目が覚めた。
上体を起こし、開いた目に映ったのは、部屋の入口に立つ、見慣れた制服姿の萌絵だった。
しかし、いつもなら「お兄ちゃん、ただいま!」と明るい笑顔を向け、今日の学校での出来事を嬉しそうに話してくれるはずの彼女の顔には、そんな温かさは欠片も残っていなかった。
そこにあったのは、まるでこの世で最も汚らわしい害虫でも見るような、凍てつくように冷たく、底意地の悪い蔑みの眼差しだった。
「……萌絵」
乾いた喉を無理やり動かし、俺は名前を呼んだ。
だが、その声はあまりにか細く、少女の冷たい空気にかき消されていく。
萌絵は一歩も部屋の中に踏み込もうとせず、ドアノブに手をかけたまま、拒絶を絵に描いたような冷たい声音で言い放った。
「聞いたよ。お兄ちゃんが、学校で、赤羽さんを強姦しようとしたって」
「っ……! 待ってくれ、萌絵。それは──」
「最悪」
弁解を遮るように、萌絵の口から吐き捨てられた言葉は、鋭い刃のように俺の胸を抉った。
「本当に、最低のクズだね。私、ずっとお兄ちゃんのこと、優しくて自慢のできる良いお兄ちゃんだと思ってたのに……。そんな裏の顔があるなんて知らなかった。完全に騙されてたんだね。虫酸が走るし、心底軽蔑するよ」
「違うんだ、萌絵! 俺はハメられたんだよ! 誰に何を聞かされたのか知らないけど、あんなの全部赤羽の嘘の──」
「やめて!」
萌絵は両耳を塞ぐように手を挙げ、まるで汚いものを見るような怯えと嫌悪を剥き出しにした。
「もう二度と、私に話しかけないで。そんな汚い声で私の名前を呼ばないでよ。お兄ちゃんと同じ屋根の下にいるだけで、吐き気がしてくる……」
その言葉を最後に、萌絵はバタンと激しい音を立ててドアを閉め、自分の部屋へと駆け込んでいった。
ガチャン、と鍵の締まる音が、静まり返った二階の廊下に冷たく響き渡る。
あれほどまでに、幼い頃から何かにつけて「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と懐き、後をついて回っていた萌絵。
どんな時でも味方でいてくれると、どこかで信じきっていたたった一人の妹。
その絆が、赤の他人の悪意と、たった一度の根拠のない噂話によって、あまりにも簡単に、一瞬で踏みにじられた。
胸の奥がギュッと締め付けられ、息ができなくなるほどの窒息感が襲う。
学校という社会から完全に断絶され、孤立無援となった。
そして今、最後の砦であるはずの家庭という場所すらも、音を立てて崩れ去っていく。
ベッドの縁に頭を抱え、床の木目をただぼんやりと見つめていると、階下の玄関の扉が再び乱暴に開閉する音が聞こえた。
「空、いるか!?」
普段よりもはるかに荒々しい低い声が響いた。
父さんだ。
普段なら、夜遅くまで企業でデスクワークや接待に追われ、夜遅くに疲れ果てた様子で帰ってくるはずの父さんが、今日はまだ夕暮れ時にも満たない時間帯に帰宅していた。
一体、何があったのか。考えるまでもない。学校側からの連絡が入り、父さんの耳にもすでにあの忌まわしい事件の話が届いていたのだ。
「萌絵……そんなことが……おい、空! いるなら返事しろ!」
階段をドスドスと荒々しい足音を立てて上がってくる気配がする。その足音だけで、父さんがどれほどの怒りと興奮に満ちているのかが痛いほど伝わってきた。
ノックをする余裕すらない様子で、俺の部屋のドアが外側から勢いよく蹴破られるように開けられた。
「お前……っ、本当なのか!」
顔を真っ赤に怒りで染め上げた父さんが叫ぶ。
「父さん……」
「ふざけやがって……!」
俺が言葉を発するよりも早く、父さんの大きな体が猛然と踏み込んできた。
バシッ、と乾いた重い音が、狭い自室の空気を切り裂く。
父さんの振るった平手打ちが、俺の頬を真っ向から捉えていた。
衝撃で俺の顔が大きく横へと傾き、口の端から生臭い血の匂いが広がる。
「父さん、いきなりなんなんだよ! 話も聞かずに……!」
「話を聞くだと? 何をいまさら聞き出す必要があるんだ!」
父さんは怒りのあまり全身を小刻みに震わせ、握りしめた拳でさらに俺の胸元を力任せに突き飛ばした。
バランスを崩し、背後にあるベッドのフレームに身体を強く打ちつける。
「俺はな、取引先に向かう途中で、学校の教頭から直接連絡を受けたんだよ! お前が、よりによって大口の寄付者である赤羽家の令嬢に対して、あんな卑劣で外道な犯罪未遂をしでかしたとな! おかげで俺の顔は泥だらけ、会社での立場は一瞬で地に落ちたんだ!」
「違うんだ! あれは俺がやったんじゃない! 赤羽が俺をハメるために仕組んだ嘘の──」
「黙れ、この嘘吐きがっ!」
俺の言葉を遮り、父さんの怒号が、部屋の窓ガラスを震わせる。
「萌絵からも聞いたぞ! あいつはな、お前が普段からどんなに隠れて不気味な目をしていたか、お前がどれほど信用ならない人間だったか泣きながら俺に話してくれたんだ! 自分の妹にまでそんな恐怖心を抱かせるような外道に育てた覚えはない!」
「萌絵まで……そんなことを……」
「言い訳するな! お前のせいで、我が家は地域社会でも、学校でも、完全に信用を失ったんだぞ! 誇り高い我が家の名前に、お前は消えない泥を塗りたくったんだ!」
「俺のせい……? 俺が嵌められたって言ってるだろ!? なんで父親なら、少しは俺を信じようとしてくれないんだよ!」
喉の奥から絞り出すような、怒りと絶望が入り混じった叫びが漏れる。
しかし、父親はその瞳に憐れみですらなく、ただ冷酷な拒絶の光を宿したまま、冷たく言い放った。
「信じる? お前のような人間のクズを、どうやって信じろと言うんだ。お前みたいな犯罪者予備軍を、これ以上この家においておくわけにはいかない」
「……は?」
俺は自分の耳を疑った。今、父親が口にした言葉の意味が、一瞬脳内で処理できなかったのだ。
「今日限りで、お前をこの家から勘当する。荷物をまとめて、今すぐこの家から出ていけ」
「ちょっ、ちょっと待てよ父さん! 本気で言ってるのか!? 俺はまだ未成年だぞ! 行き場所なんてどこにも──」
「知ったことか! お前がしでかした不始末のツケだ! これ以上、お前の顔を我が家で見たくはない! 警察沙汰にされなかっただけでも感謝しろ!」
父親はそれ以上俺の顔を見るのも耐えられないと言わんばかりに背中を向けたが、ふと足を止め、振り返ることなく冷たく言い捨てた。
「そうそう、お前の口座にある貯金は、今回の賠償金の一部として全額預からせてもらう。それとお前の私物は、明日まとめてゴミ袋に入れて家の外に出しておく。二度とこの家に戻ってくるな」
ガチャン、と扉が勢いよく閉まり、再び家の中には重苦しい沈黙が戻ってきた。
終わった。
すべてが、音を立てて崩れ去った。
学校での居場所を奪われ、友人たちの信頼を失い、幼馴染みには化け物を見るような目を向けられ、そしてたった一人の家族である妹に軽蔑され、父親には勘当されて家を追い出された。
空っぽになった部屋の中で、俺はただ一人、床に膝をついたまま立ち上がることができなかった。
怒りも、悲しみも、すでに通り越して、胸のなかにはただ冷たい風が吹き抜けていくような、圧倒的な虚無感だけが広がっている。
「……ふっ、はは……はははは……」
乾いた笑い声が、自室の床に向かって零れ落ちる。
こんな世界、こんな理不尽に満ちた社会、そしてこんなにも簡単に人間の心を疑い、切り捨てる家族や友人たち。すべてが馬鹿馬鹿しくて、笑えてくるほどだった。
もういい。これ以上、この家にいても意味はない。望みどおり出て行ってやるよ。
俺はよろめく足取りで立ち上がり、クローゼットの中から最低限の着替えだけを詰め込んだ小さなボストンバッグを掴み取った。
振り返ることもなく、自室のドアを開け、階段を降りて玄関へと向かう。
ガチャリ。
家の鍵を内側から外し、外の冷たい夜気を孕んだ風の中へと一歩を踏み出した。
ガチャン、と背後で自宅の扉が固く閉ざされる。
もう二度と開くことのない、拒絶の扉だった。




