第2話 澱んだ職員室、歪んだ破滅の始まり
職員室の重苦しい空気は、外の春の陽気とはまったく無縁の、冷え切ったコンクリートの中を思わせるものだった。
無機質なスチール机が並び、教師たちがそれぞれの書類仕事を黙々とこなすその空間のなかで、中央に位置する長机の周辺だけが、まるで異様な磁場を発生させているかのようにピリついた緊張感に包まれていた。
そこには、眉間に深い皺を寄せた教頭と、厳しい視線を向ける生徒指導の教師が腕を組んで座っている。
そして、その少し離れた場所には、先ほどまで教室で痛々しい涙を流していたはずの赤羽架純が、すっかり落ち着いた冷ややかな目で佇んでいた。
彼女の傍らには、厳めしい面持ちで腕を組む藤嶺徹の姿もある。
「遠坂君、君、自分がしでかしたことの重大さが本当に分かっているのかね?」
教頭が低く、ねっとりとした声でそう切り出した。
その言葉の端々には、事実関係を究明しようという公正さのかけらもなく、ただ厄介事を一刻も早く片付けたいという苛立ちと保身の色がむき出しになって滲み出ている。
俺は、教頭の冷酷な視線を真っ向から受け止めながら、必死の思いで声を絞り出した。
「教頭先生、待ってください! 俺は本当に何もしていないんです! 昨日の放課後、赤羽さんが言っているような時間、俺は校舎裏で絵を描いていたんです! 視聴覚室になんて行っていないし、赤羽さんに近づいた事実すらありません! これは、俺をハメようとする陰謀であって完全な誤解なんです!」
叫ぶような俺の弁明に対し、教頭は鼻でフンと冷ややかに笑ってみせた。その表情には、露骨な軽蔑の色が浮かんでいる。
「陰謀、だと? 誤解、だと? 遠坂君、よくそんな見え透いた嘘が平然と口に出せるものだな。赤羽さんが、自分の尊厳を傷つけてまで、そんな出鱈目な告発をする必要があるとでも思っているのかね?」
「それは……」
「いいかね、君。赤羽家が我が学園の財政基盤や施設拡充に、どれほどの多額の寄付を行っているか、君のような一般生徒が理解しているとは思えないがね……。彼女は学園の誇るべき功労者の御令嬢だ。その赤羽さんが、自分の名誉を汚してまで君を陥れる動機など、どこにも存在しない。今回の件は、君の歪んだ欲望が引き起こした不祥事と見るのが一番自然ではないかね」
正義や真実を重んじるべき教育者が、権力や金銭の力に屈し、あからさまに加害者と被害者の立場をねじ曲げている。その事実に、俺の胸のなかで激しい怒りと絶望の炎が燃え上がった。
「ふざけないでください! それが教師の言うことですか!? まともに証拠も調べずに罪を犯したと決めつけるなんて! 警察に連絡して指紋採取なんかの捜査をお願いするべきだ! そうすれば俺の無実なんてすぐに証明できる!」
「警察、だと……?」
その言葉を聞いた瞬間、教頭の顔色がさらに険しくなり、カチリと万年筆を机に叩きつけた。
「我が学園のブランドイメージに泥を塗り、大口寄付者のメンツを潰して、世間にスキャンダルを大々的にバラまく気か! 馬鹿を言うな! 事件をこれ以上大きくすることなど、学園としても絶対に許容できん!」
それが、この男の、そしてこの学校の本音だった。
未遂に終わったという証言が、彼らにとっては警察沙汰にせず、内々に処理できる都合の良い材料でしかなかったのだ。
面倒な調査を省き、目障りな加害者とされている俺を即座に学校から排除することで、この不祥事を闇に葬り去ろうとしている。
「そうだぞ、空。お前の言い訳なんて誰も信じないっていい加減気づけよ」
横から藤嶺が冷ややかな笑みを浮かべながら割って入ってきた。
「架純のようなお嬢様が、お前みたいな薄汚い欲望にまみれた奴のせいでどれだけ傷ついたと思っているんだ。これ以上見苦しい悪あがきをするなよ。見ていて虫酸が走るぜ」
さらに、担任の教師までもが、俺の肩に重々しく手を置き、諦めたような、それでいて厄介払いでもするような疲れた溜息をついた。
「……遠坂、もういい。これ以上騒ぎ立てても、お前の立場が悪くなるだけだ。赤羽のご両親も、今回は穏便に済ませるなら大事にはしないと言ってくださっている。お前の将来のためにも、これ以上事を荒立てるな。おとなしく学校側の処分を受け入れろ」
担任のその言葉は、俺を救うためのものではなく、学校の平和を守るための生贄として俺を切り捨てるための宣告に他ならなかった。
誰も俺の言葉に耳を貸さない。
誰も真実を見ようとしない。
権力と金、そして多数決の暴力の前に、個人の尊厳などあまりにも無力に踏みにじられていく。
「……ふっ」
あまりの理不尽さに、俺は乾いた笑いを漏らすしかなかった。
どれだけ叫んでも、どれだけ無実を訴えても、この腐った構造のなかでは、俺の声は届かない。
「……処分ってのは、どうせ謹慎だろ? 勝手にすればいいさ」
俺が投げやりな口調でそう吐き捨てると、生徒指導の教師が険しい顔で眉間を吊り上げたが、教頭は「結構だ」と冷たく言い放った。
「本日より二週間、自宅謹慎とする。その間、一歩も外を出歩くことを禁じる」
それ以上、教師たちと話す言葉はなかった。
俺は背筋をピンと伸ばし、二度と振り返ることなく職員室の扉を乱暴に開けて外へと飛び出した。
背後から聞こえる「まったく、反省の色すらない不良め」という吐き捨てるような教師の呟きを聞き流しながら。
§
二週間の停学処分。
その事実を背負いながら、俺は荷物をまとめた鞄を肩にかけ、味方が一人もいない校舎を後にした。
帰り道、西日に染まりかけた商店街の通りを一人で歩く。
すれ違う人々や、下校途中の他校の生徒たちまでも、自分の陰口を叩いているような錯覚に陥り、俺は顔を俯かせながら足早に帰路を急いだ。
やがて、自宅の一軒家の前にたどり着いた。
ガチャリと鍵を開けて中に入る。
「……ただいま」
誰もいない、しんとした静寂が広がるリビング。
我が家は父子家庭だ。
父親は企業に勤めていて、朝早くから夜遅くまで働き詰めで、今日もまだ帰ってきていない。
そして、一つ下の妹の萌絵は、まだうちの学校に残っている時間帯だった。
誰もいないガランとした家の中で、一人きり。
俺は重い足取りで階段を上がり、二階の自分の部屋へと滑り込んだ。
ガチャリとドアを閉め、鍵をかける。
制服のジャケットを脱ぎ捨て、そのままの勢いでベッドの上へと倒れ込んだ。
ふかふかとしたマットレスの感触が背中に伝わるが、心の底から湧き上がる寒気と疲労感は一向に消え去ることはない。
天井の木目をぼんやりと見つめながら、俺は今日起きた理不尽な出来事の断片を、頭の中で冷徹に組み立て直していった。
赤羽は、なぜあんな嘘をついてまで、俺に冤罪を着せようとしたのか?
最初はその悪意の理由が全く分からず、ただパニックになりかけていた。
けれど、これまでの学校生活における彼女の言動や、自分との接点を一つひとつ丁寧に紐解いていくと、思い当たる節がないわけではないという現実に行き着く。
脳裏に蘇るのは、一ヶ月前の記憶だ。
二年生になったばかりの当時、すぐに形成されたクラスの上位カーストに属し、男子からも女子からもチヤホヤされていた赤羽架純が、誰もいない放課後の廊下の曲がり角で、ふいに俺に声をかけてきた日のこと。
──『ねえ、遠坂君。今度の日曜日、一緒に街で遊ばない? 二人きりでさ』
そう言って、彼女はこれ以上ないほど甘ったるい、男性を勘違いさせるような上目遣いの笑顔を向けてきた。
だけど、当時の俺にとって、赤羽という人間の本質はすでに透けて見えていた。
彼女は確かに顔立ちは整っていて、モデル並みのスタイルを誇るカースト上位の女の子だ。学園のどこにいても周囲には常に人が群がり、彼女はいつでも誰に対しても優しく、愛想を振り撒いていた。
でも、その笑顔の裏側にあるものを、俺は知っていた。
彼女の優しさは、純粋な善意からくるものではない。それはすべて『自分をグループの主役として良く見せるため』『周囲の人間を自分の意のままにコントロールするため』の巧妙な計算に基づいた演技だった。
クラスのヒエラルキーを維持し、自分が常に注目を集める中心でいるために、気に入らない人間を陰湿にハブり、利用できる人間はとことん利用する──そんな冷酷な利己主義が、あの完璧な笑顔の仮面の下には隠されていたのだ。
その内面を、俺は誰よりも鋭く見抜いていた。
だからこそ、当時、彼女から向けられた好意のアプローチに対して、俺は一刀両断にそれを拒絶したのだ。
──『悪いけど、俺はそういうの興味ないし、好きな人もいるから。他を当たってくれ』
確か、そんな風に冷たく言い放ったはずだ。
自分の気持ちに嘘をつきたくなかったし、あんな計算高い女に関わると碌なことにならないという直感しかなかったからだ。
しかも、俺の心にはずっと、幼馴染みの遥への純粋な想いがあった。他の女に靡く理由など微塵もなかった。
けれど、それが、彼女のプライドを決定的に傷つけたのだとしたら?
学園に大きな影響力を持つ有力者の令嬢としてカーストの頂点に立ち、誰もが自分の思い通りになると信じ切っていた赤羽架純にとって、俺みたいな一般人に冷たく振られたという事実そのものが、耐え難い屈辱だったのだろう。
自分の魅力を全否定されたことへの逆恨み。
そして、一度手に入らなかったものを、今度は徹底的に叩き潰し、自分の足元に這いつくばらせたいという歪んだリベンジ願望。
その私怨が、藤嶺という別の駒を巻き込み、あの陰湿で緻密な『レイプ未遂事件』という巨大な冤罪劇へと結実した──。
「……なるほどな。すべて、あの女の自己愛と復讐心から始まったってわけか」
天井に向かって呟いた自分の声は、自分でも驚くほど冷たく、そして乾いていた。
怒りはとうに鎮まり、不思議と今は、あまりのバカバカしさに氷のように冷めた感情しか残っていなかった。
あんなプライドの高い見栄っ張りのために、俺の平穏な高校生活はズタズタに引き裂かれ、周囲の信頼も、日常の居場所もすべて奪われたのだ。
許せるわけがない。
なんとかしてやつらの悪巧みを暴き、無実を証明したい。
だけど、あの不条理な学園で、権力者である赤羽に個人で太刀打ちできるはずもない。
警察に駆け込んだところで、学校のブランドイメージと保身しか頭にない教師たちによって事実をもみ消され、逆に俺の社会的立場がさらに泥を塗られるのが関の山だ。
身動きの取れない絶望感と、無力感。
すべてを一人で背負い込んだ脳髄に、今日一日で蓄積された過酷な疲労が一気に押し寄せてくる。
張り詰めていた神経の糸がプツリと音を立てて切れ、俺は重くなった目蓋をそのまま閉じた。




