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第1話 崩れ去る日常、仕組まれた悪意


 五月半ばの穏やかな陽光が、私立碧陵(へきりょう)学園2年C組の教室を優しく包み込んでいた。


 窓の外からは新緑の香りを乗せた春風が吹き抜け、教室内には午前の授業が終わった開放感と、楽しげな生徒たちのざわめきが満ちている。


 黒板の脇に掲げられた時間割のボード、使い古された机の木目、そしてどこか退屈だけど心地よい日常の空気。

 周囲を見渡せば、女子グループが楽しそうにお弁当を広げながら昨日見たテレビの話題で盛り上がり、別の端では男子たちが連れだって学食に行こうと誘い合っている。


 すべてが、いつも通りの、あまりにも見慣れた風景だった。


「空、昨日の夜の新作ゲームの実況配信見たか? トップランカーのプレイングがすげぇ神がかってたぞ」


「ああ、見たよ。あの初見殺しのステージをノーミスでクリアするのは反則級だったよな」


 クラスメイトの男子たちが気さくに声をかけてくるのに、俺──遠坂空(とおさかそら)は、いつもの柔らかい笑みを返しながら、軽くうなずいて見せた。


「また今度一緒にプレイしような。じゃあ俺は購買の限定パン買ってくるわ」


 彼がそう言って教室の扉へと駆けていくと、入れ替わるように隣の席からクスリと愛らしい笑声が漏れた。


「相変わらず空君は人気者だね、クラスのムードメーカーなんだから」


 彼女は、幼馴染みの純丘遥(すみおか はるか)

 長い黒髪を上品に揺らし、ぱっちりとした瞳でこちらを見る彼女の表情には、幼馴染みとしての深い信頼と、どこかそれ以上の親密な好意が隠しきれないほどに滲み出している。

 毎朝一緒に登校し、放課後は図書室で一緒に勉強をしたり、他愛のない話で笑い合ったりする。そんな遥の存在は、俺にとって何よりも心安らぐ日常の核だった。


「そんなことないよ。ただみんなが話しやすいだけだって」


「ふふ、そういう謙遜するところがみんな好きなんだよ。……あ、ちょっと待って」


 その時、遥の手元のスマホがピコンと軽やかな電子音を奏でた。


「クラスのグループLINEだ──え……?」


「ん? どうしたんだ、青い顔して」


 ついさっきまで柔らかな笑顔を浮かべていた遥の表情が、一瞬にして血の気を失ったように真っ青に染まっていた。

 彼女の指先が細かく震え、画面を凝視する瞳にはみるみるうちに困惑の色が広がっていく。スマホの画面の光が、彼女の白い頬を冷たく照らし出していた。


「空君……これ、どういうこと……?」


 震える声で差し出されたスマホの画面。

 そこには、クラスの全員が参加している『2年C組グループLINE』のトーク画面が映し出されていた。


 送られてきたメッセージのアイコン、それはクラスの上位カースト──赤羽架純(あかばねかすみ)のものだった。


 その画面に表示されていたテキストを読んだ瞬間、俺の背筋に凍りつくような悪寒が走る。


 そこには、信じがたい言葉が冷酷に叩きつけられていた。


『──空君に放課後の空き教室でレイプされそうになった』


 その一文が投下された直後、教室の空気が音を立てて凍りついた。


 最初の数秒間は、誰もが何が起きたのか理解できず、ただ沈黙が支配した。


 けれど、スマホの通知音が連鎖的に鳴り響き、クラスメイトたちが次々とそのメッセージを開くにつれて、ざわめきは瞬く間に津波のような不穏なノイズへと変わっていった。


「え……? 嘘だろ……?」


「赤羽さんが……?」


「相手、空なのか……?  マジかよ……」


 教室のあちこちで、信じられないものを見るような、あるいは恐ろしいものから身を引くような視線が交差する。

 さっきまで和やかに話しかけてきていたクラスメイトたちの顔から笑顔が消え去り、代わりに浮かんだのは、冷ややかな猜疑心と、底知れぬ恐怖の色だった。


「ま、待ってくれ! これ、何かの間違いだろ!? 俺はこんなこと……!」


 俺は慌てて立ち上がり、必死に弁解した。

 だけど、皆俺に疑いの目を向けるばかりで信じてくれようとはしない。


「空君……本当なの?」


 遥が、まるで目の前の人間が別人にでも変わってしまったかのように、目を大きく見開いて俺を見ていた。その声は微かに震え、恐怖に満ちている。


「違うんだ、遥! 信じてくれ! 俺はそんなこと、絶対にやってない! 身に覚えがないんだよ!」


「でも……じゃあ、なんで架純ちゃんがそんな嘘をつく必要があるの……? 架純ちゃん、皆に優しくてそんなことするような子じゃないよ……?」


「それは……俺にも分からない! 何かの嫌がらせか、人違いか……!」


 俺が必死に繰り返し弁解しようとした、そのまさに矢先だった。

 教室の扉が勢いよく「バァン!」と荒々しく開け放たれた。


「空! お前、あんなことしておいて、よく平気な顔で学校に来れたな!」


 そこに立っていたのは、バスケ部のエースであり、長身の端正な顔立ちで女子生徒からの絶大な人気を誇る藤嶺徹(ふじみねとおる)だった。

 彼の顔は怒りに歪み、その瞳には激しい怨嗟が宿っている。後ろ盾を失った教室の空気は、完全に彼の一声に支配された。


「藤嶺……?」


「とぼけるなよ! 俺は昨日見たんだ!  放課後、校舎の隅から悲鳴が聞こえたから不審に思って視聴覚室のあたりに行ったら……お前が服を乱した架純に馬乗りになって覆いかぶさっていたのをな!」


 藤嶺のその大声は、教室中に響き渡るだけでなく、廊下を通りかかっていた他のクラスの生徒たちの耳にも届き、瞬く間に校舎全体に広がる勢いを見せた。


「はあ!?  なに言ってんだよ、藤嶺! 昨日の放課後、俺は中庭で絵を描いていたはずだし……そもそも視聴覚室になんて行ってない!」


「嘘をつくな! 俺が『おい、何をしてるんだ!』って声をかけたら、お前はものすごい形相で慌てて逃げて行っただろうが!!  あの時の怯えた架純の姿を思い出すだけでも、身の毛がよだつぜ……よくもあんな可愛くて良い子にあんな酷い真似ができたな!」


 藤嶺の剣幕に押され、教室の生徒たちは完全に俺が加害者であるという前提に飲み込まれていった。


「マジかよ……空って、いつも優しくていいやつだと思ってたのに……」


「信じられない。あんな爽やかな顔して、裏ではそんな鬼畜なことしてたの……」


「人間のやる事じゃねぇよ。吐き気がする」


「誠実で優しそうに見せて、私たちを騙してたんだ……最悪、サイコパスじゃん」


 向けられるのは、容赦ない軽蔑と、汚物を見るような冷たい眼差しだった。

 かつての友人たちが、サッと目をそらし、あるいはあからさまに嫌悪の表情を浮かべる。

 その誰もが、告発文や目の前の衝撃的な証言だけに飛びつき、真実を確かめようともしない。

 人間の群れが持つ残酷な集団心理が、一瞬にして俺を社会的に抹殺しにかかっていた。


 そのざわめきと罵声の中、藤嶺の後ろから、一人の少女がゆっくりと姿を現した。


 赤羽架純(あかばねかすみ)

 彼女の目は真っ赤に腫れ上がり、頬には涙が流れたあとがついていた。

 その痛々しい姿は、誰もが被害者のそれだと一目で確信させるのに十分すぎる演出が施されている。


「架純ちゃん……」


 遥が思わず席を立ち、震える足取りで架純に歩み寄る。赤羽は遥の姿を見ると、堰を切ったようにぽろぽろと涙をこぼし、か細い声で呟いた。


「遥ちゃん……私、怖かったの……。昨日の放課後、空君にいきなり引っ張られて、誰もいない視聴覚室に閉じ込められて……」


「そんな……、嘘……」


「声を上げたらもっと酷いことをするって言われて……抵抗したんだけど、力では敵わなくて……。服を破られそうになって、本当に、本当に絶望して……そしたら、そこに徹君が来てくれて、助けてくれたの……」


 赤羽はハンカチで顔を覆い、肩を激しく震わせながら泣きじゃくる。その演技はあまりにもリアルで、周囲にいるすべての人間たちの同情と義憤を煽り立てるには完璧すぎた。


「さっき、徹君に付き添ってもらって、職員室の先生に全部打ち明けてきたの……。本当は、怖くて、恥ずかしすぎて、このまま泣き寝入りすることも考えたんだ……。でも、徹君に相談したら、『あんなやつを野放しにしていたら、他にも被害者が出るかもしれない。お前だけの問題じゃないんだ』って励ましてくれて……勇気を出して、告発することにしたの……」


 赤羽のその言葉に、藤嶺は優しく彼女の肩に手を置き、正義のヒーローのように胸を張った。


「当然だろ。泣き寝入りなんてさせるかよ。こんなクズ、この学園にいさせちゃいけないんだ。空、お前、まだ言い逃れするつもりか?」


「待ってくれ……!  赤羽、お前、なんでそんな嘘をつくんだ!?  俺たちは昨日、そんなところで会ってすらいない!  全部、作り話だろ!?」


 俺は絶叫するように否定した。


 だけど、赤羽は怯えたような、そしてどこか冷たい侮蔑を湛えた目で俺を一瞥し、さらに深く藤嶺の背中に身を隠した。


「近づかないで……!  怖い、こないで……!」


「おい!  架純にこれ以上近づくなよ、この外道が!」


 藤嶺が俺の胸ぐらを掴みにかかったその瞬間──教室の壁際に設置されている校内放送用のスピーカーから、鋭い電子音が響き渡った。


『──遠坂空君。遠坂空君、すぐに職員室まで来るように。繰り返します。2年C組、遠坂空君は速やかに職員室へ来なさい』


 冷徹な教頭の声が、学園全体に響き渡る。

 その放送は、俺にとってこの世の終わりの宣告だった。


「……呼ばれたぞ、お前のお迎えだ。先生たちも全部知ってるんだよ、お前の汚い悪事をな」


 藤嶺が冷ややかに鼻で笑い、手を離した。


 教室中の視線が、針のように鋭く、一斉に俺に突き刺さる。

 誰もが犯人を見る目で、忌むべきものを見る目で俺を見据えていた。


「……違う……俺は……」


 言葉を失い、完全に孤立無援となった俺。


 幼馴染みであるはずの遥さえも、恐怖と混乱に満ちた目で口元を抑え、俺から一歩、また一歩と後ずさっていた。その瞳に映る俺への信頼は、もはや跡形もなく消え失せている。


 絶望という名の鉛の塊が、俺の心臓を重く押し潰す。


 俺はうなだれたまま、クラスメイトたちからの心無い誹謗中傷の言葉や、背中に浴びせられる冷ややかな冷笑を痛いほど感じながら、重い足取りで教室の扉へと向かった。


 一体……いつから、どこで、歯車が狂ってしまったんだ……?


 答えの出ない闇を抱えながら、俺は逃げ場のない職員室へと足を踏み出した。


 


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