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第44話 『シエル』の新たなファン、家族の食卓


 秋の深まりとともに、碧陵学園の空気は徐々に引き締まっていき、十月末に迫った体育祭に向けた熱気は日に日に高まっていた。


 ある日の午後、グラウンドで行われた体育の授業は、2年C組と隣のDクラスによる合同授業だった。


 広大なグラウンドのあちこちで、クラスの枠を超えた生徒たちが大声を発しながらリレーのバトンパスや障害物競走の練習に汗を流している。秋晴れの抜けるような青空の下、砂塵を巻き上げながら疾走する生徒たちの姿は、青春そのものといった眩しさを放っていた。


 そんなメインの喧噪から少し離れた、バックネット裏のフェンス沿いに、俺と萩原桜の姿があった。


「えっと……せーのっ、いち、に、いち、に……!」


 萩原の小さな掛け声に合わせて、俺たちは右足と左足を結んだ白いロープを頼りに、息を合わせて前へと踏み出す。


 数日前の初練習の頃は、互いの足を踏み合ってバランスを崩し、砂まみれになりながら転がり回っていたのが嘘のように、今の俺たちの歩調は驚くほど滑らかになっていた。重心の移動のタイミング、踏み出す時の力の入れ具合、そして相手の息遣いの変化。それらが自然と体に馴染み、二人三脚でありながら、まるで一人の人間のように軽快にトラックの端を往復できるようになっていた。


「ふう……どう?  萩原、だいぶいい感じに歩けるようになったんじゃないか?」


 往復を終えてロープを緩め、俺がタオルで額の汗を拭いながら声をかけると、萩原は大きく息を弾ませながらも、ぱっと顔を輝かせた。彼女の頬は運動の心地よい疲労と緊張でほんのりと上気している。


「うんっ……!  遠坂君、すごく合わせ上手だから……私、全然転ばなくなったし、なんだか飛ぶように歩ける……!」


 萩原は嬉しそうに小さく両手を握りしめ、パタパタと足踏みをするようにしてその成果を噛み締めていた。


 クラスの隅っこで誰とも喋らず、いつもおどおどと存在を消すように生きていた彼女が、こうして少しずつ自信を取り戻していく姿を見るのは、俺にとってもどこか誇らしく、温かい気持ちにさせられるものだった。


 二人三脚という、誰もが嫌がる『罰ゲーム』のような余り物の組み合わせが、今や俺たちにとって静かな連帯感を育む大切な時間となっていた。



   §



 それは、「ちょっと一休みしようか」と、俺たちがグラウンド脇のコンクリートの縁石に腰を下ろして、持参したペットボトルのスポーツドリンクで喉を潤していた時のことだった。


「あの……遠坂君、だよね?」


 ふと、声をかけられて顔を上げる。


 そこに立っていたのは、見慣れない二人の女子生徒だった。おそらく隣のDクラスの生徒だろう。一人はショートカットで活発そうな印象の子、もう一人は少し恥ずかしそうに長い黒髪を揺らしている。


「……どうかした?」


 俺が少し身構えると、二人の女子生徒は顔を見合わせ、まるでファンが憧れの芸能人にでも対面したかのように、急に目を輝かせて一歩前に進み出た。


「あのっ!  私たち、先月の学園祭の時、中央棟の特設ギャラリーで『シエル』さんのイラストを見たの……! もう、本当に、言葉が出ないくらい感動して……!」


「そうなの!  あの絵の持つ切なさと美しさに心を奪われてから、ずっとシエルさんのファンで……。それであのイラストを描いたのが遠坂君だって噂で聞いて、どうしても直接伝えたくて……!」


 予想外すぎる言葉の連鎖に、俺の動きがピタリと止まった。


 誰もが俺を『レイプ未遂事件の加害者』として色眼鏡で見つめ、腫れ物のように避けて通るこの学園のなかで、他クラスの生徒たちが、純粋に俺の『絵』を求めてくれていた。


 しかも、それをわざわざ本人に直接伝えに来てくれるなんて、これまでの日常からは想像もつかない出来事だった。


「いろいろ……学校のなかで変な噂が流れてるみたいだけど、私たちは絶対に信じてないから!  ネットでの変な中傷とかも、全部デマだって思ってる。だから……これからも、素敵なイラストレーターとして、ずっとずっと描き続けてね!  私たち、心から応援してるから!」


 二人の少女たちは、勢いよく深々と頭を下げると、返事を聞くのももどかしそうに、顔を真っ赤に染めながらパタパタと走り去っていこうとした。


「……ありがとう。その言葉、すごく嬉しいよ」


 その声が聞こえたのか、走り去る二人の背中がぴたりと止まり、振り返って満面の笑みで大きく手を振ってくれた。


 その姿が遠ざかっていくのを見送りながら、俺は胸の奥が熱くなるのを覚えた。


 隣に座っていた萩原も、そのやり取りをじっと見つめていて、ふっと柔らかく優しい微笑みを浮かべた。


「よかったね、遠坂君……。遠坂君の描く絵のすごさは、ちゃんと、こういう風に伝わってるんだよ」


 萩原のその言葉は、何よりも優しく俺の心に染み入ってきた。



   §



 その日の夜。


 一日の騒がしさが嘘のように静まり返った逢沢家のダイニングキッチンには、美味しそうなハンバーグのデミグラスソースの香りと、温かい家族の話し声が満ちていた。


「へえ、そうなんだ。萩原さんって子だけじゃなくて、他クラスの子たちも空君の絵を見て信じてくれてたって……なんだか、少しずつ風向きが変わってきているみたいじゃない」


 大皿に盛られたサラダを取り分けながら、桐乃さんが感心したような、それでいてどこか誇らしげな笑みを浮かべて言った。


「そうだよ。ちゃんと空君の絵を心で受け止めて、信じてくれる子がいたなんて、すごく素敵な話じゃない。シエルの影響力、本当にすごごいよね」


 玲那さんが、自分のことのように嬉しそうに目を輝かせる。


「十一月の初めには、空君のお母さんが文章を手がけて、空君が『シエル』名義でイラストを描いたあの小説がいよいよ発売されもするでしょ?  表紙も空君の描いたあの美麗すぎるイラストが飾るんだし……そうなれば、学内だけでなく世間一般にも空君の圧倒的な才能と実績が証明されることになって、あの理不尽な噂や冤罪の疑いなんて、一気に吹き飛んじゃうはずだよ!」


 爽花さんの言葉に、食卓の全員が深く頷いた。


 あの事件以来、黒い雲のように空の頭上を覆っていた理不尽な陰口や偏見の霧が、確かな才能と、周囲の人々との繋ぎ止められた絆によって、少しずつ晴れ渡ろうとしている。その確かな手応えが、みんなの表情を笑顔に変えていた。


「空お兄ちゃん、すごいね!  学校の意地悪な人たちが何言ったって、お兄ちゃんには絵の才能があるし、世界中にファンだっているんだもん!」


 凛ちゃんが、自分のことのようにはしゃぎながら、俺の腕をギュッと掴んで嬉しそうに見上げてきた。


「うん、そうだね。皆、ありがとう」


 俺は、目の前に広がる温かな家族の光景を見渡し、胸が熱くなるのを隠しながら、穏やかに微笑んだ。


 かつては絶望の底に突き落とされ、すべてを諦めかけていた世界が、今、確かな温もりと光を取り戻し始めている。


 十月末の体育祭、そして十一月に控える小説の発売。


 新たな季節の足音が、俺たちの未来へと歩みを進めていた。






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― 新着の感想 ―
学内なんて噂を信じて流される方が楽なのに、敢えて味方になるとか本当のファンになってくれたんだなあ~ ともすれば無視あるいはイジメの標的になりかねないのに、本当に勇気出した意思表明だと思う
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