第43話 秋晴れのグラウンド、秘密の絆
色鮮やかな熱気と、どこか気怠い祭りの後の静けさを残した碧陵祭から、早くも一週間が過ぎようとしていた。
次に催されるイベントといえば、十月末に控える『碧陵学園体育祭』。
その種目決めと係分担を話し合うためのロングホームルームが、金曜日の午後、2年C組の教室で開かれようとしていた。
先週の文化祭で『シンデレラ』の主役を務めた藤嶺徹と赤羽架純は、相変わらずクラスの中心──カーストの頂点に君臨し、文化祭での一般からの評価の低さなどどこ吹く風といった様子で、取り巻きたちと談笑していた。彼らの周囲だけは、いまだにまばゆいスポットライトが当たっているかのような錯覚を覚える。
だが、その華やかさの裏で、クラスの空気はどこか澱んでいた。
文化祭の特設ギャラリーで圧倒的な絶賛を浴びた『シエル』のイラストが、実はあの『レイプ未遂の冤罪事件』の当事者である遠坂空のものであるという噂は、もはや学内では隠しきれない公然の秘密となっていた。
「あの絵を描いたのは空らしい」「あんなすごい才能がある奴が、本当にそんなことするのか?」──そんな囁きが、クラスのあちこちでひそひそと交わされている。
そんなクラスメイトたちだが、空の存在を相変わらず腫れ物に触るかのように避け、徹底的な『空気』として扱うのは変わらなかった。
教壇の上では、学級委員長の女子生徒が、少し緊張した面持ちでホワイトボードに種目名を書き殴っている。
「えーっと、それじゃあ来月末の体育祭の種目決めを始めます! クラス対抗の団体競技と個人競技があるから、みんな希望を言ってね!」
その声を聞きながら、俺は、自分の席で静かに腕を組んでいた。
体育祭、か……。
文化祭の栄光や、玲那がミスコンでグランプリを獲得した熱狂から現実に戻れば、学校という名の閉ざされた社会は相変わらず冷酷で、不条理に満ちている。
ここで自ら積極的に種目に立候補するなど愚の骨頂だった。
どうせ目立つ個人競技に立候補すれば「犯罪者が何調子に乗ってんだ」という冷ややかな視線を浴びるだけだし、誰かと組むようなグループ競技でも、誰もが嫌そうな顔をして距離を取るのが目に見えている。
ここは余り物を引き受けるに限る。
そう心の中で決めて、俺はあえて手を挙げず、クラス全体がワイワイと人気競技の椅子取りゲームのように盛り上がっていく様子を、どこか冷めた目で眺めていた。
リレーの選手や、大玉転がし、騎馬戦といった華やかな競技の枠が次々と埋まっていく。陽キャグループの連中が「俺がアンカーやるよ!」「私、チアの衣装も着たい!」と楽しそうにはしゃぐ声が、耳障りなノイズのように響く。
やがて、誰もが敬遠する地味な競技や、組み合わせの決まっていない余り物の種目がぽつりぽつりと残っていった。
「ええっと、残りは……二人三脚が、あと一組……男子一名と、女子一名分だけ残ってますね。誰か、立候補する人……いませんか?」
学級委員長が困ったように教室全体を見回した。
その瞬間、教室の空気がスッと冷えた。誰もが視線を自分の机の木目に落とし、我先にと存在感を消し始める。自分がその余り物の罰ゲームに引っかからないようにするための、クラス全員の暗黙の了解だった。
「……誰もいないよね? じゃあ、出席番号順であぶれた人を……」
委員長が仕方がなさそうに名簿に手を伸ばした、その時だった。
「あの……」
か細く、それでいて教室のざわめきの中に埋もれてしまいそうなほど小さな声が、教室の隅の席から響いた。
声の主の方へ、クラスの視線が一瞬だけ集まる。そこに座っていたのは、クラスでもめったに喋ることのない、影の薄い女子生徒だった。
萩原桜。
長い黒髪を後ろでラフに束ね、大きめの眼鏡の奥の瞳はいつもおどおどと怯えたように揺れている。目立つことを極端に嫌い、休み時間はいつも自分の席で文庫本を読んでいるような、クラスの最底辺に位置する地味で大人しい女子だった。
「えっと、萩原さん? どうしたの?」
「その……二人三脚、まだ空いてるなら……私、その……」
萩原は小さく震える声で言いながら、ちらりと、本当に申し訳なさそうに俺の席のほうへと視線を向けた。
クラスの視線が一斉に俺に突き刺さる。
『あいつと組むのかよ』『よりによって犯罪者候補の空と……』『まあ、あいつらお似合いの余り物同士か』──そんな値踏みするような、あるいは嘲笑うような空気が、一瞬で教室を支配した。
けれど、学級委員長は「あ、じゃあ、二人三脚は萩原さんと……遠坂君のペアでいいかな?」と、厄介払いが済んだと言わんばかりに素早くホワイトボードに名前を書き込んだ。
こうして、俺と萩原桜の『二人三脚』という、誰からも祝福されない、最も地味で奇妙なペアが強制的に結成されたのだった。
§
それから数日後の午後。
秋晴れの心地よい青空の下、グラウンドでは体育祭に向けた各学年の練習が本格的に始まっていた。
中央のトラックやメインフィールドでは、リレーのバトンパスの練習に汗を流す運動部の生徒たちや、楽しげに声を掛け合う陽キャグループがまぶしいほどの青春を謳歌している。
そんな賑やかな喧噪から遠く離れ、グラウンドの最も端っこ、古びたバックネット裏のコンクリートの陰に、俺と萩原の姿があった。
「えっと……よ、よろしくね、遠坂君」
萩原はジャージの袖を少し指先で隠しながら、おどおどとした仕草で俺に向かって頭を下げた。彼女の額には、緊張からか薄っすらと汗が滲んでいる。
近くで見ると、彼女はどこか儚げで、風が吹けば折れてしまいそうなほど細い体をしており、クラスという大きな歯車のなかで必死に息を潜めて生きているのがありありと伝わってきた。
「ああ、こちらこそよろしく。足並み揃えるの、大変かもしれないけど頼むよ」
俺がいつものように柔らかで落ち着いた笑みを返すと、萩原はホッとしたように小さく息をついた。
意外だったのは、彼女が俺と一緒にペアを組むことに対して、露骨な嫌悪感や恐怖心を抱いている様子が全くなかったことだ。周囲の生徒たちが俺を見るような、汚物を見るような冷たい目や、怯えた視線はそこにはなかった。ただ、極度の人見知りと気まずさから、どう接していいか戸惑っているだけのように見えた。
「じゃあ、さっそく紐を結んで、軽く歩くところからやってみようか」
「うん……!」
俺たちは互いの右足と左足を、白い布製のロープでしっかりと結び合わせた。
グラウンドのざわざわとした喧噪を背に、俺たちは並んで立ち上がる。
「それじゃあ……せーの、右、左……っと!」
歩幅を合わせようと踏み出した瞬間、バランスが崩れ、俺たちはあわやというところでバランスを崩しかけた。
「わっ……!」
「っとと……大丈夫か?」
支え合うように肩を掴み合った拍子に、萩原の顔が間近にあった。彼女はカッと耳のあたりまで真っ赤に染め上げ、慌てて視線を逸らした。
「ご、ごめんね、遠坂君……! 私、運動神経が本当になさすぎて、こういうの全然ダメで……足、引っ張っちゃって……」
涙目になりながら謝る彼女に、俺は思わず苦笑を漏らした。
「謝るなよ。俺だってもう何年も二人三脚なんてやってないんだから、お互い様だよ。ほら、もう一回、ゆっくり呼吸を合わせていこう」
それから、俺たちは何度も転びかけ、足を踏み踏まれしながら、地味な練習を繰り返した。
華やかな体育祭の花形競技とは程遠い、グラウンドの隅っこでの泥臭い特訓。
けれど、奇妙なことに、その静かな時間が今の俺にとっては案外居心地が悪くなかった。
やがて、練習の合間の小休憩。
バックネット裏の冷たいコンクリートのベンチに、俺たちは少し距離を空けて腰を下ろした。秋の乾いた風が、グラウンドの土埃を乗せて通り過ぎていく。
萩原は持ってきたペットボトルの水を小さく一口飲み、膝の上でぎゅっと両手を握りしめたまま、何度も何度も言い淀むように口を開けたり閉じたりしていた。
何か言いたげな、しかし言い出す勇気が出ないような、そんな複雑な揺らぎが彼女の背中から伝わってくる。
「どうかしたのか? どこか痛むか?」
俺が声をかけると、萩原はビクッと肩を震わせ、意を決したようにゆっくりと顔を上げた。彼女の眼鏡の奥の瞳が、潤んだようにまっすぐに俺をとらえていた。
「あのさ……遠坂君」
「ん?」
「……あのさ、私、ずっと……ずっと気になってたことがあって……」
彼女の声は微かに震えていたが、その響きにはこれまでにない強い決意が込められていた。
「あのね、学園祭の時……中央棟の特設ギャラリーに、ものすごく綺麗で、胸が締め付けられるような絵が飾られてたの。『シエル』っていう名前のイラストレーターさんの絵……」
その単語が出た瞬間、俺の体がわずかに硬直した。
『シエル』。
文化祭で嘉島会長や一部の生徒、そして一般の来場者たちを熱狂の渦に巻き込んだ、俺のもう一つの顔。
「あれ……あれって、噂されてる通り、遠坂君なんだよね……?」
萩原の問いかけは、確信に満ちていた。
俺は少しだけ目を丸くした後、否定も肯定もせず、ただ静かに彼女の横顔を見つめ返した。
「どうしてそう思ったんだ?」
「……絵を見れば、分かるよ。なんていうか……あの絵に描かれている光と影の感じとか、絶望の底から誰かを求めて手を伸ばす切なさとか……学校での遠坂君が纏ってる雰囲気と、どこか重なるところがあったから……。それに、ネットでシエルさんの過去の作品を遡って見ているうちに、確信したの。この絵を描いたのは、絶対に遠坂君だなって」
萩原はそこまで一気に喋ると、ふっと自嘲するような、それでいてどこか切なげな笑みを浮かべた。
「私みたいな、クラスの中でも一番影が薄くて、誰からも相手にされないような人間が言うのも、すごくおこがましいかもしれないけれど……」
彼女は自分の膝をぎゅっと掴み、声を詰まらせた。
「私、あの事件があった時……クラスの皆が『空がレイプしようとした』って噂して、面白半分で陰口を叩いて、遠坂君のことを化け物みたいに避けていた時……本当は、心の底から信じられなかったの」
「……萩原、それって……」
「だって、おかしいもん……!」
萩原の声が、少しだけ大きく、そして震えた。彼女の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、アスファルトの地面にシミを作っていく。
「遠坂君が普段どんなに優しくて、クラスの誰に対しても誠実で、理不尽なことなんてしない人か……近くで見ていれば、少し考えれば誰だって分かるはずなのに……! クラスの皆は、赤羽さんや藤嶺君の言うことを何の疑いもなく信じ込んで、自分たちにとって都合の良い『正義』に酔って……いじめの標的を作って安心していただけなんだもの……!」
彼女の言葉は、飾らない本音だった。
権力や多数派の暴力に逆らうことができず、ただ流されるだけの弱者としての自己嫌悪が、その涙には滲み出ていた。
「でも……私には怖かった。もし私が『遠坂君はそんなことしない』って言ったら、今度は私がクラス全員からハブられて、あのグループのターゲットにされて、この学校にいられなくなるって思ったら……怖くて、怖くて、何も言えなかったの……!」
萩原は両手で顔を覆い、肩を激しく震わせながら泣きじゃくった。
その姿は、あまりにも無力で、あまりにも傷つきやすい一人の少女の姿そのものだった。
クラスという名の閉ざされた密室で、同調圧力という名の怪物に脅え、自分の良心を押し殺して生き延びるしかなかった者の、一つの縮図だった。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……! 臆病で、ずるくて、何の役にも立たない私なんかで……ごめんなさい……っ!」
絞り出すような彼女の謝罪の言葉が、秋風の中に溶けていく。
誰も味方がいないと思っていたクラスの中で、こうして自分の本当の姿を見てくれていた人間がいたという事実。それが、胸の奥を重く締め付けると同時に、奇妙な温かさで満たしていくのを感じた。
俺は、泣きじゃくる萩原の背中にそっと手を伸ばし、優しくトントンと叩いた。
その不意の優しさに驚いたのか、彼女はビクッと体を震わせ、恐る恐る顔を上げた。真っ赤に腫れ上がった瞳が、濡れた子犬のようにこちらを見つめている。
「顔を上げろよ、萩原。そんなに自分を責めるなよ。あの状況で、クラスの空気や同調圧力に逆らうのがどれほど怖いことかなんて、俺が一番よく分かっているつもりだ」
「でも……私、何もできなかった……」
「いや、違うさ」
俺は静かに首を横に振った。
「お前は今、こうして俺の前に座って、俺の絵のことを分かってくれて、俺がそんなことする人間じゃないって、心の底から信じてくれた。それだけで十分すぎるほど救われるよ」
「……遠坂君……」
「クラスに一人でも……たとえどんなに声を潜めていようとも、そうやって真実を見て、信じてくれる人間がいるだけで、人間ってやつは案外簡単に救われるもんなんだよ。だから、謝る必要なんかない」
俺のその言葉を聞いた瞬間、萩原の瞳から再び涙があふれ出したが、今度は先ほどのような絶望の色ではなく、心の底から救われたような、安堵の涙だった。
「……ありがとう、遠坂君。本当に……ありがとう……っ!」
彼女はぐっと涙を拭い、少しだけ晴れやかな、そしてどこか恥ずかしそうに頬を染めた笑顔を浮かべた。
「さてと……泣き言はこれくらいにしておかないと、体育祭本番で転んじゃうぞ。もう一回、二人三脚の練習、付き合ってくれるか?」
「うんっ……! 今度は絶対に転ばないように頑張るから!」
萩原は力強くうなずくと、さっきまでの弱々しい雰囲気を脱ぎ捨てるように、シャンと背筋を伸ばした。
秋晴れの青空の下、グラウンドの隅っこで、俺たちは再び足首にロープを結び、不器用に、けれど確かな歩幅で前へと踏み出した。
クラスの誰も知らない、俺と萩原だけの秘密の絆が、この冷たい学校の片隅でひそやかに芽生え始めていた。




