第41話 秋色に染まる学園祭、恐怖に怯える玲那
秋晴れの澄み渡った青空が、碧陵学園の白い校舎を爽やかに包み込んでいた。
頬を撫でる風には心地よい冷たさが混じっている。
今日という日は、全校生徒が待ちに待った碧陵祭の校内関係者のみに公開される初日だった。
朝の凛とした冷気の中、正門をくぐった俺の胸の内には、これまでにない高揚感が満ちていた。
周囲の冷ややかな目を気にする必要はない。
昨夜までの準備期間を共に駆け抜け、互いの絆を確かめ合った大切な家族たちがいる。
そして何より、この文化祭に参加する者の一人として、胸を張って歩く理由があった。
校舎内に入ると、廊下や階段の至るところに色鮮やかなポスターや手作りの装飾が施され、普段の堅苦しい学園の空気が嘘のように華やいでいた。あちこちから生徒たちの弾むような笑い声や、準備に追われる慌ただしい足音が響いてきている。
午前九時。
全校生徒が体育館へと導かれ、いよいよ碧陵祭の幕開けを告げるオープニングセレモニーが盛大に開催された。
ステージの中央に立ったのは、全校生徒の視線を一身に集める生徒会長・嘉島愛莉先輩だった。
彼女は凜とした佇まいでマイクの前に立ち、今年の文化祭のテーマである『幾重の光、それぞれのキャンバス』というスローガンを朗々と発表した。
その言葉に合わせ、体育館の天井から無数の色とりどりのリボンがひらひらと舞い落ち、生徒たちの間から盛大な歓声と拍手が巻き起こる。
それに続いて、有志のダンス部によるキレのあるパフォーマンスや、吹奏楽部の華やかな演奏が次々と披露され、会場は熱気で溢れていた。
セレモニーが滞りなく終わり、全校生徒がそれぞれの目的に向かって動き出す。
午前中の時間は、俺は一人で校内を軽く回りながら、各クラスが出している模擬店や展示の様子を見て時間を潰した。廊下のすれ違いざまに、相変わらず冷ややかな目を向けてくる者や、わざとらしく距離を取るクラスメイトたちの姿もあったが、今の俺の心に波風を立てるほどの意味は持っていなかった。
どうせ奴らの世界と、俺たちの世界は違う。
そう心の中で呟きながら、俺は指定された待ち合わせ場所である中庭のベンチへと向かった。
時計の針はちょうど正午を指そうとしていた。
待ち合わせ時間より少し早く、遠くからこちらに向かって走ってくる見慣れた制服姿の少女の姿が見えた。クラスの出し物である『たこ焼き屋』のシフトを終えたばかりの玲那さんだ。
彼女は少し息を弾ませながら、俺の目の前でピタッと足を止めた。
「空君、お待たせ……っ! ごめん、最後の片付けで少しバタバタしちゃって」
「ううん、今来たところだよ。お疲れ様、シフト大変だったね」
俺がハンカチを差し出すと、玲那さんは「ありがとう」と小さく微笑み、額に浮かんだ薄っすらとした汗を拭い取った。
「それじゃあ約束通り、ここから一緒に校内を回ろっか!」
玲那さんはパッと表情を輝かせ、自然な動きで俺の袖をキュッと掴んだ。その近い距離感が、胸の奥を心地よくくすぐる。
並んで校舎の中へと足を踏み入れ、まず最初に向かったのは、中央棟の三階にある空き教室を改装して作られた『特設ギャラリー』だった。
そこは、生徒会が主催する自由参加枠の作品展示スペースであり、個人の情熱が詰まった絵画や写真が並ぶ、今回の文化祭の目玉の一つだ。
教室の扉をくぐると、教室内にはすでに多くの生徒たちが訪れており、それぞれの作品の前で足を止めて感嘆の声を上げていた。
「すごいね、空君! なんだか、校内の一角とは思えないくらい本格的なギャラリーになってる!」
玲那さんが目を丸くして周囲を見回す。
その展示スペースの最奥、最も視線が集まる特等席の壁面に、ひときわ大きく、そして鮮やかに飾られていたのは他でもない──『シエル』として俺が描き上げたあのイラストだった。
青く澄み渡りながらも切なさを秘めた秋空の下、冷たい闇から差し込む黄金色の光に向かって手を伸ばす少年と少女の姿。
その輝かしい存在感を放つ絵の前に立つと、周囲にいた生徒たちが自然と足を止め、吸い寄せられるように集まってきていた。
「ねえ、見てあれ……! あの真ん中にある絵、めちゃくちゃすごくない……?」
「本当だ……。なんだろこれ、すっごく綺麗……なのに、胸がギュッとなるような切なさがある……」
「これ、部活動の作品じゃないよね? 自由参加枠の一般応募のやつだ……。こんな絵を描いたの、いったい誰なんだろ?」
聞こえてくる生徒たちのざわめき。その中央で、二人の女子生徒が絵を食い入るように見つめながら、感嘆の声を漏らしていた。
「ねえ、この絵……すごいね。私、こういうの語彙力ないから上手く言えないけど、なんていうか……魂が震えるっていうかさ」
「うん、本当にすごく素敵なイラスト……。色使いも、光の表現も、全部が完璧。私、この絵すごく好きだな……ずっと見ていられる」
女子生徒たちが目を輝かせながらそう囁き合うのを聞いた瞬間、隣に立っていた玲那さんは、まるで自分のことのように誇らしげに胸を張り、小さくガッツポーズを作ってみせた。
そして、ふと視線を横にずらすと、そこには、この企画の仕掛け人として動き回っていた特設ギャラリーの隅で満足げにうなずいている嘉島会長の姿があった。
先輩は俺と目が合うと、こっそりと親指を立てて『大成功よ』という合図を送ってくれた。
「よかったね、空君! ほら、みんなすごく感動してるよ。空君の描いた絵が、こんな風に全校生徒の前で大絶賛されてる!」
玲那さんは嬉しそうな顔を俺に向け、感極まったようにそう囁いた。
周囲の生徒たちが「この『シエル』って人、プロのイラストレーターなんじゃないの?」「マジで神だわ……」と称賛を惜しまない声を上げるのを耳にしながら、俺は心の底から救われるような温かい充足感を覚えていた。
冷たい教室の隅っこで誰にも見向きもされなかった俺が今、この学園の真ん中で、自分の表現で人々の心を動かしている。その事実が、これまでのすべての理不尽を洗い流してくれるようだった。
「さて、ギャラリーの次はどこに行こうか?」
絵の前での感動を十分に味わった後、俺たちが廊下を歩いていると、やがて視界の端に大きな人だかりと、不気味な外観をしたアトラクションの看板が飛び込んできた。
『呪われた館からの脱出〜恐怖のお化け屋敷〜』──。
そのお化け屋敷は、窓に黒い目隠しが貼られ、中からかすかに不気味な効果音や、女子生徒の怯えたような悲鳴が漏れ聞こえていた。
「あ、これ面白そう。ねえ、玲那さん、せっかくだし、次ここに入ってみようか?」
俺がそう誘いかけた瞬間、ぴくりと玲那さんの足が止まった。
彼女の背中がわずかに硬直し、その完璧なまでにクールな横顔に、ほんの一瞬、目に見えて焦りの色が走ったのを俺は見逃さなかった。
「え……?」
わずかに声を裏返らせながら、玲那さんはゆっくりとこちらを振り返った。その瞳が普段よりも少しだけ大きく見開かれている。
「もしかして……玲那さん、こういうホラー系って苦手だったりする?」
「なっ……! ななな、何を言ってるの、空君! そ、そんなことあるわけないでしょ!」
あからさまに動揺しながら、玲那さんは両手を激しく横に振って否定にかかった。
「し、失礼だなあもう! お、お化け屋敷なんて子供だましだし、お、お化けなんて全然怖くないしっ! むしろ、こっちから驚かしてやろうかと思ってたくらいだし……バッチコーイ、だよ!」
明らかに声のトーンが上ずっており、強がりなのが丸わかりのその反応に、俺は思わず小さく吹き出しそうになった。
「そっか。それじゃあ、遠慮なく入ってみようか。ほら、列も空いてるみたいだし」
「うっ……! ま、待って、空君、そんな急ぐことないでしょ! もう少し他のお店とか、ほら、あっちの美味しいパンケーキの模擬店とか行ってもいいんだよ!?」
「いや、お化けをこっちから脅かすんでしょ?」
「うっ……それは……その……」
言葉を詰まらせる玲那さんを連れて、俺は半ば強引に、薄暗いお化け屋敷の入場列へと並ばせた。
順番が回ってきて、黒いカーテンをくぐり、一歩足を踏み入れると、そこは文字通りの暗闇だった。
人工的なスモークが焚かれ、足元はおぼつかない。天井からは不気味なうめき声のようなサウンドが流れ、壁のあちこちから青白いストロボの光が明滅している。
「ひっ……!」
入場した瞬間、玲那さんは早くも俺の袖を両手でしっかりと掴み、まるで逃げ場を失った小動物のように俺の背後にピタリと密着してきた。さっきまでの「バッチコーイ」という威勢の良かった態度はどこへやら、その小さな体が微かに震えているのが服越しに伝わってくる。
「ほら、しっかり捕まってないと、本当に変なものが出るかもしれないよ?」
「もう、空君……! そんな脅かさないでよ……っ! 」
真っ暗な通路を慎重に進みながら、俺たちは肩を寄せ合うようにして歩を進めた。
その時だった。
通路の脇の隠し扉が突然ガラリと音を立てて開き、血糊をベッタリと顔につけた骸骨マスクの『お化け役』の男子生徒が、不気味なうめき声を上げながらガバッと飛び出してきた。
「ぐるあああっ!!」
「きゃああっ……!!」
予想外のタイミングと至近距離での奇襲に、玲那さんは完全にパニックに陥り、文字通りの絶叫を上げながら、俺の体に勢いよく全体重を預けるようにしてぎゅっと抱きついてきた。
「ひゃ、ひゃあぁぁっ……! こ、こないでっ、こないでよぉっ……!」
恐怖のあまり目を固くつむり、俺の胸元に顔をうずめたままガタガタと震えている玲那さん。あまりの密着ぶりに、俺の心臓は別の意味で激しく跳ね上がっていた。
驚かす役の男子生徒も、まさかここまで怯えられるとは思っていなかったのか、「あ、えっと……失礼しました……」と気まずそうにその場で固まり、すごすごと引き返していく。
「もう……大丈夫だよ、玲那さん。お化けはもう引っ込んだから」
俺が優しく彼女の背中をポンポンと叩きながら声をかけると、玲那さんはおそるおそる薄目を開け、周囲がすでに安全だと確認するやいなや、パッと飛び離れるようにして真っ赤な顔を覆った。
「うっ……うう……恥ずかしすぎる……! 私の……私のクールビューティーなキャラが完全に崩壊した瞬間を、空君に見られた……っ!」
顔を両手で覆ったまま、その場で小さく蹲るようにして悶絶する玲那さん。その耳たぶまでが真っ赤に染まっているのを見て、俺は思わず小さく笑ってしまった。
「あはは、さっきの『バッチコーイ』はどこへ行ったんだよ?」
「うぅ……もう、笑わないでよ、空君……! 意地悪言わないの……っ!」
すっかり涙目になりながらも恥ずかしそうに頬を膨らませる玲那さんの姿は、普段の凛としたクールな彼女からは想像もつかないほど可愛らしく、俺の胸を温かいもので満たしてくれた。
お化け屋敷の出口を何とか抜け出し、眩しい外の光の下へ戻ってきた俺たちは、少し歩いたところにある中庭の休憩スペースのベンチに腰を下ろした。
「ほら、冷たいレモネードでも飲んで落ち着いてよ」
近くの模擬店で買ってきた冷たい飲み物を手渡すと、玲那さんは「ありがとう……」と小さく呟きながら受け取り、ストローに口をつけた。冷たい液体で少しは気が紛れたのか、彼女の顔に浮かんでいた紅潮もようやく収まりつつある。
「それにしても、さっきのお化け屋敷での玲那さんは見ものだったな。『お化けなんて全然怖くないし、バッチコーイだよ!』って言ってた人が、あんなに綺麗に飛びついてくるとは思わなかったよ」
クスッと笑いながらからかうように言うと、玲那さんはビクッと肩を震わせ、恨めしそうな目を向けてきた。
「もーっ! 空君、わざわざそれを蒸し返さないでよ……! 」
玲那さんは頬をぷうっと膨らませ、不満そうにそっぽを向いてみせたが、すぐにふっと力が抜けたように柔らかく微笑んだ。
「でも……楽しかったよ。お化けは怖かったけど……空君とこうして一緒に回れて、本当に……」
小さく呟かれたその言葉の響きに、俺は胸の奥がキュッと締め付けられるような愛おしさを覚えた。
周囲からは、文化祭ならではの賑やかな音楽や、生徒たちの楽しげな話し声が途切れなく聞こえてきている。
「そうだね。俺も、玲那さんとこうして回れて本当に楽しいよ」
俺がそう言って微笑みかけると、玲那さんは少しだけ照れくさそうに目を伏せ、カップの表面を指先でトントンと叩きながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえばさ、空君のあのイラスト……本当に皆すごく褒めてくれてたね。私のことじゃないのに、なんだか私まで誇らしくなっちゃった」
「ありがとう。玲那さんがあの時、背中を押してくれて、生徒会長につないでくれたおかげだよ。あの絵があったからこそ、今日のこの景色があるんだと思う」
「ううん、私は何もしてないよ。空君自身が持ってる才能と、努力の結果だもん。明日の一般公開日には、もっとたくさんの人があの絵を見るんだからね。覚悟しておきなよ、『シエル』先生?」
からかうような笑顔を浮かべる玲那さんの横顔は、秋の柔らかい日差しを浴びて、言葉では表現できないほど輝いて見えた。
明日は一般公開日。
そして、午後はいよいよ玲那さんが挑む『ミス・碧陵コンテスト』の本番が控えている。
今日という日の温かな余韻を胸に感じながら、俺は明日訪れるさらなる大きな舞台へと想いを馳せた。




