第39話 生徒会長の来訪、『シエル』のファン
二学期が始まって数日が経ち、クラスの冷ややかな空気や、周囲の陰口も、「気に留める価値すらない背景の雑音」として完全に聞き流せるようになっていた。
相変わらず、ロングホームルームで決まった演劇の準備にクラス中が活気づく中、俺だけはどのグループにも属さず、自分の席で静かに過ごしている。
だが、心は少しも荒んでいない。
むしろ、夕方には逢沢家の温かな食卓が待っているという確かな居場所があるおかげで、今の俺の精神状態は驚くほど安定していた。
そんなある日の昼休み、チャイムが鳴り響いて生徒たちがざわめき始めた時のことだった。
いつものように、教室の扉がガラリと開き、見慣れた制風姿の美少女がすたすたと歩いて入って来た。
「空君。お待たせ、一緒にお昼ご飯食べよっか」
声をかけてきたのは、他でもない玲那さんだ。
彼女は周囲の生徒たちが「またあの逢沢さんがあいつのところに……」「今日も一緒に食べる気なのかよ……」とざわめくのなど一切気に留めず、まっすぐに俺の席へと歩いてきた。
そして、その隣には、見慣れないもう一人の女子生徒の姿があった。
潔く前髪が切り揃えられた黒髪のショートヘアーに、凛とした佇まい。制服の着こなし一つとっても洗練されており、胸元には全校生徒の頂点に立つ者だけが身につける『生徒会長』のゴールドバッジが輝いている。
碧陵学園の生徒会長、嘉島愛莉先輩だった。
生徒会長が、なんで玲那さんと一緒に……?
俺が驚きで目を丸くしていると、玲那さんは柔らかな笑みを浮かべ、俺の手首をいつものようにそっと掴んだ。
「ほら、立って、空君。今日はね、ちょっと特別なお客さんを連れてきたんだから」
「え、特別なお客さんって……生徒会長の嘉島先輩じゃないか。なんで俺のところに……?」
俺が戸惑いながら尋ねると、嘉島会長はふっと優美な微笑みを浮かべ、俺の机の前に歩み寄ってきた。
「突然お邪魔してごめんね、遠坂君。私は嘉島愛莉。生徒会長をやっているの」
「あ、はい、知っています。その、生徒会長が俺に何の用ですか……?」
俺が恐縮しながら聞き返すと、嘉島会長は隣に立つ玲那さんをちらりと見てから、意味深な笑みを浮かべた。
「実はね、玲那ちゃんとは家がご近所さんでさ、小さい頃はいつも一緒に遊んでたの。今でもすっごく仲良しで、私にとっては可愛い妹みたいな存在なのよ」
「そうそう。愛莉お姉ちゃんとはもう何年の付き合いになるのかな? 小さい頃から一番の仲良しなんだ」
玲那さんはそう言って誇らしげに胸を張った。
学園の誰もが慕い敬う生徒会長と、学年一のクールビューティーと言われる玲那さんがそんな親密な幼馴染みだったとは、周囲の生徒たちにとっても寝耳に水だったらしく、教室のあちこちから「マジか……」「あの二人が、そこまで仲良しなのかよ……」というどよめきが漏れ聞こえてくる。
そんな周囲の喧騒を涼しい顔でスルーし、玲那さんは俺の手首を引いた。
「ねえ、いつもの場所でお昼食べながら話そうよ。愛莉お姉ちゃんから、空君にすごく大事な話があるんだって」
「大事な話……?」
「そう。ここで話すのも目立つしね。さ、行こっか、空君」
玲那さんの柔らかくも強引なリードに押されるように、俺は席を立ち、背中に突き刺さるクラスメイトたちの驚愕と嫉妬の入り混じった視線を完全に無視しながら、嘉島会長とともに三人で教室を後にした。
向かった先は、特別棟の脇を抜けた先にある緑豊かな中庭の一番奥。
手入れされたツツジの大きな植え込みにすっぽりと囲まれ、校舎の窓からも死角になっている、ぽっかりと開けた小さな空間だった。
「ここまで来れば誰も来ないし、静かで最高の場所ね」
嘉島会長は周囲を見渡し、綺麗に手入れされたベンチにふっと息をついて腰を下ろした。
玲那さんはその隣に慣れた手つきでレジャーシートを広げ、持参したお弁当の包みを解き始めながら、俺を自分の隣の席へと促した。
「本当に隠れ家みたいで素敵な場所だわ。こんな風に落ち着くスペースが学校の中にあるなんて知らなかった」
と嘉島会長が周りの緑を眺めて感心したように微笑む。
「でしょ? 桐乃お姉ちゃんに教えてもらった特等席なんだ」
玲那さんが得意げに言う。
「それで、話っていうのはなんですか?」
俺が尋ねると、嘉島会長は少しだけ表情を引き締め、真剣な瞳で俺を見つめた。
「実はね、今年の碧陵祭のことなんだけど……私たちの生徒会主催で、今年の文化祭には新しい試みをしようと考えているの」
「新しい試み?」
「そう。クラス単位の出し物だけじゃなくて、有志や個人での自由参加枠を設けて、生徒たちの隠れた才能や作品をもっと自由に発表できる場を作りたいのよ。例えば、写真とか、手芸とか、あとは、絵画やイラストの特設展示スペースね」
嘉島会長の言葉に、俺は少しだけ眉をひそめた。
「絵やイラストの展示、ですか……。それなら、美術部とかの部活動の作品を飾るんじゃ……?」
「部活動の作品だけじゃないの。今回は、部活に所属していなくても、個人で熱意のある生徒なら誰でも応募できる『自由参加枠』を作って、空き教室の一角を特設ギャラリーに改装しようと思っているのよ。そこでね……どうしても空君に、その自由参加枠で絵を出展してほしいの」
「僕が……ですか?」
予想外の提案に、俺は思わず声を裏返らせた。
お弁当の準備をしていた玲那さんも、手を止めてにっこりと微笑みながらうなずく。
「うん。意外なのも無理ないわよね。でも、これにはちゃんと理由があるの」
嘉島会長はきっぱりとした口調で、衝撃的な一言を口にした。
「実はね、私、ずっと前から個人的に大ファンだったの。ネットを中心に活動している、圧倒的な透明感と深いストーリー性を感じさせる大人気イラストレーター──『シエル』さんの、ね」
『シエル』──それは、母の小説の書籍化に伴い、表紙イラストを担当することになった、俺のもう一つの顔──イラストレーターとしてのペンネームだった。
まさか、嘉島会長が『シエル』のファンだったなんて……!
驚きを隠せない俺の様子を、嘉島会長は少し照れくさそうに、熱を込めた瞳で見つめてきた。
「ネットで初めてシエルさんのイラストを見た時、一発で心を撃ち抜かれたの。なんて繊細で、なんて温かくて、同時に胸を締め付けるような切なさを表現できる絵描きなんだろうって……。それからずっとシエルさんの新作を追いかけていて、いつか私の学校でも、あんな素晴らしい絵が飾れたらいいのにってずっと思ってたのよ」
嘉島会長は身を乗り出すようにして、まっすぐに俺を見据えた。
「それでね、最近、学内で色々な噂や理不尽な中傷があることも、私は耳にしているわ。空君がどんなに辛い思いをしているかも、玲那ちゃんから聞いて詳しく知っている。でもね、私は知っているの。空君がどれほど誠実で、素晴らしい才能を持っている人間かっていうことを!」
「愛莉柰お姉ちゃん……」
隣で聞いていた玲那さんも、優しい微笑みを浮かべながら嘉島会長の言葉にそっと寄り添う。
「だからこそ、私は空君に、この学園の中で堂々と自分の才能を発揮してほしいの。個人での自由参加枠を使って、空君の描いた絵を、あの特設ギャラリーの真ん中にドーンと展示してほしいのよ。生徒会長の権限にかけて、場所は一番目立つ特等席を用意するわ。周りの奴らが何と言おうと、素晴らしい作品の前では、そんな低俗な噂なんて一瞬で吹き飛ぶはずよ」
嘉島会長の言葉には、生徒を引っ張るリーダーとしての強さと、一人のファンとしての純粋で熱烈な想いが満ちていた。
理不尽な冤罪を着せられ、クラスではハブられ、孤立しているはずの俺に、学園のトップである生徒会長が直接足を運び、「あなたの絵が見たい」「あなたの才能でこの学校を見返してやりなさい」と手を差し伸べてくれている。
胸の奥が、熱く、激しく震えた。
「……ありがとうございます。嘉島会長……そう言ってもらえて、本当に嬉しいです」
俺は深々と頭を下げた。
「ふふ。どう? 遠坂君、受けてくれるかしら?」
嘉島会長が期待に満ちた目で俺の返事を待つ。
隣で玲那さんも、持っていたお箸を置いて「空君、絶対に大丈夫だよ。私が全力でサポートするから!」と力強く背中を押してくれた。
断る理由なんて、どこにもなかった。
「……わかりました。喜んで描かせてもらいます。嘉島会長がそこまで言ってくれるなら、最高の絵を描いてみせますよ。『シエル』の名に恥じない、最高の作品を」
俺がそう力強く答えると、嘉島会長はパッと満面の笑みを咲かせた。
「本当!? やったぁ! 嬉しい! もう、今からどんな絵が上がってくるのか楽しみで仕方ないわ!」
彼女は子供のように手を叩いて喜び、玲那さんも「よかったね、空君!」と自分のことのように嬉しそうな笑顔を浮かべた。
こうして、秋の文化祭に向けた『シエル』としての秘密の挑戦が、信頼できる仲間たちの後押しを受けて始まったのだ。
§
夕食を皆で美味しくいただき、和やかな時間を過ごした後、俺は自分の部屋へと戻った。
部屋の机の上には、嘉島会長からの依頼を受けてからずっと頭の中で膨らませていたイメージを書き留めたスケッチブックと、デジタル作画用のタブレット、そして使い慣れた画材一式が綺麗に並べられている。
嘉島会長が『シエル』のファンだなんて驚いたな。でも、それだけじゃない。彼女が俺に、学園の真ん中で絵を発表するチャンスをくれた。応えなきゃいけない。俺を信じて、味方でいてくれる人たちのために最高の絵を描くんだ。
深く息を吸い込み、俺は椅子に腰掛けた。
今回の文化祭のテーマ、そして『シエル』として描くべき物語。
それは単なる綺麗なイラストではない。理不尽な闇や絶望の底に突き落とされながらも、決して折れることのない絆──四姉妹と母が与えてくれた温かな光の記憶を、一枚のキャンバスに昇華させることだ。
「よし……描き始めるか」
タブレットの電源を入れ、ペンを握る手にぐっと力を込める。
画面のデジタルキャンバスに、最初の線が走る。
それは、どこまでも高く青く澄み渡った秋空と、その下でしっかりと手を取り合い、前を向いて歩く少年と少女のシルエットだった。
背景には、幾重にも重なる深い闇と、それを切り裂くように差し込む眩い黄金色の光。
絶望の淵から這い上がり、未来へ向かって羽ばたこうとする強い意志が、一本一本の繊細なタッチと鮮やかな色彩によって、みるみるうちに形になっていく。
もっと綺麗に……もっと力強く……!)
時間の感覚なんてすっかり忘れていた。
外の闇が深まり、深夜の静寂が家全体を包み込む中、俺はただひたすらペンを走らせ続けた。
頭の中に浮かんでくるのは、あの日の温もりだった。
クラスで孤立していた時、教室に迎えに来てくれた玲那さんの笑顔。
「何があっても味方でいる」と言ってくれた彼女の力強い言葉。
そして、どんな時も俺を家族として受け入れ、支えてくれる桐乃さん、爽花さん、凛ちゃん、そして母さんの温かな笑顔。
そのすべての想いが、今、目の前のキャンバスの上で一つの美しい物語として結実していく。
「──よし、これで……!」
画面の中に描き上げられたイラストを見つめ、俺はそっと息を吐き出した。
そこにあったのは、見る者の心を激しく揺さぶり、希望の光を確信させるような、奇跡のマスターピース──そう自負できるものだった。
自分の描いた絵の出来栄えに、思わず胸が熱くなる。
これなら、嘉島会長も、そして学園祭に来る人たちも、きっと心を動かされるはずだ。
明日、学校で嘉島会長にこのラフ画を見せよう。
そう心に決め、俺は心地よい疲労感と確かな達成感に包まれながら、静かにベッドへと体を横たえた。




