第33話 浴衣姿で、祭りの夜に
旅行を終えて日常へと戻った俺たちだったが、夏のイベントはまだ終わりを迎えていなかった。
旅館での温泉旅行の興奮と甘い余韻がまだ心のどこかに残る中、迎えた土曜日の夕暮れ時。
今日は町の一大イベントである夏の縁日、そして祭りのフィナーレを飾る盛大な花火大会が開催される日だった。
窓の外を見上げれば、茜色から深い藍色へと移り変わる夕空のグラデーションが広がっている。
遠くの方からは、すでに祭りの始まりを告げるお囃子の音や、お神輿を担ぐ人々の威勢の良い掛け声が微かに風に乗って聞こえてきていた。
「さあ、みんな、準備はいい? 夏祭りと花火大会のためにそろそろ出発するわよ」
桐乃さんが皆を見回しながら確認をとる。
俺たちはそれぞれ、今回の祭りのために用意していた和装へと身を包んでいた。
まず俺の浴衣。
落ち着いた深い藍色をベースにした生地には、涼しげな微風を思わせる繊細な白の縦縞模様がデザインされており、子供っぽすぎず、かといって地味すぎない、大人の落ち着きと爽やかさを絶妙に演出してくれる代物だった。帯には引き締まった黒に近い濃紺の角帯を選び、しっかりと締め上げている。普段のラフな洋服姿とは一味違う、和服特有の凛としたシルエット。
四姉妹の浴衣姿も、そのあまりの美しさと艶やかさに、何度見ても、言葉を失ってしまう。
まず目を引くのが、長女の桐乃さんだった。 彼女がまとっているのは、知的な美しさを際立たせる深い紫紺の浴衣だ。落ち着いた色合いの生地には、夜空に咲き誇る気品ある白百合の花が上品にあしらわれており、彼女の凛とした知性と弁護士としてのシャープな雰囲気に完璧にマッチしていた。黒髪は美しくまとまり、かんざしできっちりと固定されている。普段のスーツ姿とは違う、大人の女性の色気と清楚さが同居したその姿に、私は思わず見とれてしまった。
「……どうかしたのかしら、空君? そんなにじっと見つめて……。もしかして、私の着こなしに変なところでもある?」
桐乃さんは少しだけ恥ずかしそうに頬を朱色に染めながら、ふっと微笑んだ。
そして、そのすぐそばでにこやかに笑っているのは爽花さんだった。
彼女が選んだのは、涼やかな浅葱色の地に、涼しげな藍色の流水文様と手毬菊がたおやかに描かれた浴衣だった。
ふんわりと柔らかい素材の生地は、彼女の持つおっとりとした清楚な雰囲気をこれ以上ないほど引き立てている。
白地に淡いピンクと水色の帯が上品に結ばれ、まとめられた髪には小さなつまみ細工の花飾りがちょこんと添えられていた。
その佇まいはまるで初夏の清らかな風そのもののようで、見ているだけで心がすーっと洗われるような心地よさがあった。
「ふふっ、空君、どうです? 似合ってますか?」
今の内から清楚モードになっている爽花さんは、少しだけ首をかしげ、淑やかで優しい笑みを浮かべた。
その隣では、三女の玲那さんが柔らかな微笑みを浮かべて立っている。
彼女の浴衣は、クールビューテューな彼女の印象よりもより小女らしい、淡い桜色を基調とした可憐なデザインだった。生地全体には、夕暮れの風に揺れる繊細な桜の花びらの模様が薄っすらと描かれており、歩くたびにふわりと揺れる裾が何とも幻想的だ。帯は華やかな淡い黄色の半幅帯で可愛らしく文庫結びにされており、彼女の清楚で優しい魅力を何倍にも引き立てている。
「ふふ……どうかな、空君。変じゃない……よね?」
玲那さんは少し照れくさそうに首をかしげ、裾を軽くつまみながら俺に問いかけてきた。夜の旅館での甘いハプニングの記憶が頭をよぎり、私の心臓が再びトクンと大きく跳ね上がる。
最後に、一番はしゃいでいるのは凛ちゃんだった。
彼女が着ているのは、水色の爽やかな生地に、可愛らしい白いウサギと大小の毬がポップに描かれた子供っぽさと大人っぽさが絶妙に入り交じったキュートな浴衣だ。ピンク色の兵児帯がふんわりと結ばれ、彼女のくるくると変わる豊かな表情と相まって、まるで童話の世界から飛び出してきた妖精のように愛らしかった。
「ねえねえ、みんな見て見て! 私の浴衣、ウサギさんがポンポン跳ねててすごく可愛いでしょ! 空お兄ちゃん、似合ってる?」
凛ちゃんはくるりとその場で一回転してみせ、満面の笑みを私に向けてきた。
「ああ、みんなめちゃくちゃ似合ってるよ。本当に綺麗だ」
俺が心からの称賛の言葉を伝えると、四姉妹はそれぞれに照れくさそうにしながらも、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
§
自宅から歩くこと十五分程。
特設の提灯が無数に掲げられた神社と、それに続く商店街の通りは、すでに身動きが取れないほどの凄まじい熱気と人混みに包まれていた。
頭上にはオレンジ色の温かな提灯の明かりがズラリと並び、浴衣姿の家族連れやカップル、友人同士のグループが楽しげに行き交っている。
「わあぁっ! 見て見て、すごい人! 屋台がたくさん並んでるよ! 私、イカ焼き食べたい! あと、あっちのソースが香ばしい焼きそばも絶対に外せない!」
凛ちゃんは目をキラキラと輝かせながら、俺の手をキュッと掴んでぐんぐんと人混みを掻き分けて進んでいく。香ばしい醤油の匂いや、ソースの焼ける甘辛い匂い、綿菓子の甘い香りが夜風に乗って鼻腔をくすぐり、食欲を否応なしに刺激してきた。
「ちょっと、凛! そんなに急に走り出したら危ないでしょ。はぐれたらどうするのよ」
桐乃さんがすっと凛ちゃんの背後に回り込み、お姉さんらしいしっかりとした口調で注意を促す。
「ふふ、本当にすごい活気ですね。こういうお祭り特有の熱気は嫌いじゃないです。それにしても、周囲の視線が自然と私たちに集まっている気がするんですけれど」
爽花さんは淑やかな所作で浴衣の裾を優しく整え、俺の隣を並んで歩く。
「あ、あそこに金魚すくいがあるよ。ねえ、空君、後でちょっとやっていってもいい?」
玲那さんがふと足を止め、浴衣の袖をキュッと引っ張りながら、キラキラした瞳で指差した。
その先には、色とりどりの金魚が水槽の中で優雅に泳ぎ回る、昔ながらの金魚すくいの屋台があった。
それから私たちは、屋台が並ぶ露店エリアへと本格的に繰り出していった。
凛ちゃんのリクエスト通り、まずは香ばしい醤油のタレが食欲をそそる特大のイカ焼きと、キャベツと豚肉がたっぷり入ったソース焼きそばを買い求め、みんなで一口ずつシェアしながら食べ歩いた。
「んーーっ、この屋台の味って、どうしてこんなに美味しいんだろうね!」と凛ちゃんが頬を膨らませ、桐乃さんや玲那さんも「本当ね」「お祭りの空の下で食べると、何倍も美味しく感じるね」と上品に微笑む。
爽花さんは「お口がソースで汚れないようにしないと」と言いながら、お上品に頬張っていた。
お腹が少し満たされたところで、先ほど玲那さんが気になっていた金魚すくいの屋台へと向かった。
「よし、やってみせるよ!」
玲那さんは気合を入れて、薄手のポイを水面にそっと沈めた。
けれど、勢いよく泳ぐ金魚の尾びれに触れた瞬間、パシャリと水飛沫が上がり、ポイの薄い紙は見事に破れてしまった。
「ああっ……破れちゃった……」
玲那さんが肩を落とし、ちょっぴり悔しそうな表情を浮かべる。そのあまりの可愛らしい落胆ぶりに、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、俺がお手本を見せてあげるよ。こうやって、金魚の進行方向の斜め下からそっと網を潜らせるように……」
俺が玲那さんの後ろからそっと身体を寄せ、彼女の手の上から自分の手を重ねるようにしてポイの持ち方を優しくガイドした。至近距離で互いの体温が伝わった瞬間、俺は思わずビクリと肩を跳ねさせたが、動揺を悟られないようにつとめて自然に振る舞う。
「こう……?」
「そう、そのまま水流に逆らわずに、スッと……」
俺のリードのおかげで、ポイは見事に一番大きな赤色の金魚をすくい上げることに成功した。
「わあ! すごい、空君、やったね!」
玲那さんは満面の笑みを浮かべ、まるで子供のように喜んだ。
その横で、爽花さんが「ふふ、仲がよろしいですね」と微笑ましいものを見るような眼差しを向け、桐乃さんが「お見事だったわよ、空君」と褒めてくれた。
その後も俺たちは、リンゴ飴やチョコバナナを買って食べ歩き、射的の屋台では俺が可愛いぬいぐるみを狙い撃ちにし、「やったー、お兄ちゃん、ありがとう!」と凛ちゃんにプレゼントして喜ばれたりもした。
そうして、時間の経過とともに、夜空はさらに濃い藍色へと染まり、周囲の屋台の提灯の明かりが一層美しく際立つようになってきた。
賑やかな祭りの喧騒の中、俺は心地よい一体感と幸福感で満たされていた。




