第34話 ゲスを散らす毒舌、夜空に咲く花
夜空を彩る色とりどりの提灯が、境内から商店街へと続く道を温かく照らし出していた。
浴衣の裾を揺らしながら歩く俺たちの周りには、お祭りの熱気と楽しげな笑い声が満ちあふれている。
金魚すくいや射的で盛り上がり、りんご飴や焼きそばをみんなで分け合って歩いたこの数時間は、まるで夢のようにあっという間に過ぎ去っていった。
けれど、どれほど楽しくて充実した時間であっても、人間の体力は無限ではない。
「うう……なんだかもう歩き疲れちゃった……。足がパンパンだよぉ。ちょっと休憩しようよ、空お兄ちゃん」
ふと、凛ちゃんが小さく足を止め、切なそうな声を漏らした。その表情にはさすがに疲労の色が滲んでおり、いつもは元気いっぱいに飛び回る彼女もしきりに自分のふくらはぎをトントンと叩いている。
「そうだな、ずいぶん歩き回ったし、そろそろ少し足を休めようか。ちょうどあそこに、休憩用のベンチがあるみたいだよ」
俺が神社の境内の隅に設置されていた木製の長椅子を指さすと、凛ちゃんは「やったあ!」と小さく歓声を上げ、トコトコと小走りでそのベンチへと向かって腰を下ろした。
「はあ〜、生き返るぅ……。やっぱりお祭りは楽しいけど、歩き通しはさすがに足にくるね」
凛ちゃんがベンチに深く腰掛け、ほっと息を吐き出す。
その隣に、桐乃さん、爽花さん、玲那さんも揃って腰を下ろした。みんな浴衣姿で歩き慣れない下駄を履いていたこともあり、それぞれに足を労るような仕草を見せている。
「ふう、本当にそうね。裁判所の堅いフロアを歩くのとはまた違う疲れがあるわ。でも、こうして夜風にあたりながらの休憩も悪くないものね」
桐乃さんが上品にうちわを扇ぎながら、ふっと柔らかな笑みを浮かべる。
爽花さんも清楚モードを崩し、「ほんと、足が棒になりそう。でも楽しかったから許すわ」と言いながら、自分の足首を軽く揉みほぐしている。
皆が一息ついているのを確認しながら、俺はふと自分の喉の渇きに気づく。これだけ汗をかいて歩けば、水分が欲しくなるのも当然だった。
「皆、歩き疲れて喉も渇いてる頃だよね。冷たい飲み物でも買ってこようかと思うんだけど、何か希望はある?」
俺がそう問いかけると、凛ちゃんがパッと顔を輝かせた。
「本当!? 私、オレンジジュースがいいな! すっごく冷たいやつ!」
「私は、そうね……すっきりした緑茶か、冷たい麦茶がいいわね」
と桐乃さん。
「私はレモンスカッシュがいいわ! 炭酸がシュワッと喉を通るやつね」
と爽花さん。
「じゃあ、私はお水でいいかな……あ、でも冷たいカルピスもいいかも」
と微笑む玲那さん。
「了解。それじゃあ、すぐにあそこの自販機が並んでるあたりで調達してくるよ。ここで待っててね」
「うん! 空お兄ちゃん、気をつけて行ってきてね!」
凛ちゃんに手を振られ、俺は皆の分のリクエストを頭に叩き込みながら、人の波をかき分けて少し離れた自動販売機が並ぶエリアへと歩き出した。
§
人混みを縫うようにして歩き、目的の自動販売機にたどり着いた俺は、ポケットから小銭を取り出しながら飲み物のボタンを押そうとした。
その時、俺はふと、背後から近づいてくる聞き覚えのある、しかし決して耳にしたくない話し声に気づいた。
「いやあ、今年の夏祭りはマジで当たりだな。可愛い女の子の浴衣姿がそこら中に転がってるぜ」
「徹君、あんまりキョロキョロしてると、私があきれちゃうわよ」
その声を聞いて、俺の背筋に冷たいものが走った。
そこには、かつて俺を理不尽な容疑の泥沼へと引きずり込んだクラスメイトの藤嶺徹と、吉岡の姿があった。
吉岡は、かつて俺が所属していた美術部で部長をつとめている女子生徒だ。
当時の俺は彼女に淡い信頼を寄せ、絵画の共同作業などを通じて心を許していたはずだった。
しかし、あの事件が起きた時、彼女は俺を救うどころか、決定的な偽りの証言を突き刺し、俺を裏切ったのだ。
美術室の窓から差し込む夕日の中で交わした優しい言葉はすべて嘘だったのかと、俺の心を深く抉った元凶が、今こうして藤嶺の腕にぴったりと寄り添いながら歩いている。
藤嶺は相変わらず派手なシャツの上に薄手の羽織を引っ掛け、周囲を威圧するように傲慢な笑みを浮かべていた。
その隣で、藤嶺の腕に自分の腕を絡ませている吉岡は、祭り特有の明るい光の中でも、どこか冷ややかな、俺を軽蔑するような視線を隠そうともしていない。
俺が持参したバッグを持ったまま立ち止まると、藤嶺の視線がスッとこちらを捉えた。彼の顔に、嫌悪感と嘲笑が入り混じった歪んだ笑みが浮かび上がる。
「おや、これはこれは……。レイプ未遂男じゃねえか。こんなところで何やってるんだよ?」
藤嶺はわざわざらしく大げさな声を上げ、周囲の視線をこちらに集めようとするかのようにニヤニヤと笑いながら近づいてきた。
吉岡も彼の隣で、冷ややかな微笑みを浮かべたまま俺を眺めている。
「おいおい、見てくれよ美誓。一人でポツンとしやがってさ。相変わらず哀れだなあ」
藤嶺は片方の口角を吊り上げながら、あからさまに侮蔑の色を浮かべた。
「一人で来たのかよ、空。相変わらず友達もいないのか……ってか、そうだもんな。あんな反社会的で犯罪スレスレの事件を起こしたお前になんて、誰も近づくわけがねえか。寂しいやつだな、まったく。犯罪者のお前にはお似合いの孤独だぜ」
心無い言葉が夜風に乗って突き刺さる。
だが、かつての俺であればその言葉に怯え、俯くだけだったかもしれないが、今の俺には守るべきものがある。
俺を信じ、温かく支えてくれる四姉妹の存在が、この胸の奥で確かな誇りと強さに変わっていた。
「……何の用だ、藤嶺。お前には関係ないだろ」
俺が低く静かな声で言い返すと、藤嶺は面白そうに眉をひそめた。
「おっ、なんだよその生意気な目は。犯罪者のくせに、威勢がいいじゃねえか。だがな、お前がどんなに隠れようとしたって、世間がお前の過去を忘れるわけねえんだよ。せいぜい、暗がりで一人寂しく怯えて暮らすこったな」
藤嶺が吐き捨てるように冷たい言葉を浴びせるのを見て、隣にぴったりと寄り添っていた吉岡が、クスクスと冷ややかな笑声を漏らした。
彼女は冷たい瞳で俺を見据え、氷のように冷たい声で口を開いた。
「いじめないであげて、徹君。そんな人間のクズみたいな相手に本気になっても仕方ないでしょ? 空君は、昔から自分の実力もないくせに調子に乗って、最後には周りを裏切るような真似をするんだから。美術部の時だってそうだったじゃない。私を利用して地位を上げようとして、結局は自分で勝手に転げ落ちていったんだからさ。今のその惨めな姿こそが、お似合いの罰よ」
吉岡のその言葉には、かつて俺を裏切ったことへの微塵の良心の呵責もなく、ただ俺を虫けらのように見下す残酷な響きだけが満ちていた。
「そうだぞ、美誓の言う通りだ。お前みたいな裏切り者で犯罪者のクズが、この祭りにいること自体が公害なんだよ。なあ、空、お前もう帰れよ。空気が悪くなるだろ」
藤嶺がさらに踏み込んで嘲笑を続けようとしたその時だった。
「空お兄ちゃん、ジュースまだぁ?」
ふと、人混みの向こうから、聞き慣れた愛らしくも甘えたような声が響いてきた。
振り返ると、そこには歩き疲れたはずの凛ちゃんが、トコトコとこちらに向かって歩いてくる姿があった。
さらにその後ろからは、桐乃さん、爽花さん、そして玲那さんの四姉妹全員が、心配そうにこちらを探しながらやってきているではないか。
「空お兄ちゃん、こんなところで何してるの? 皆待ってるんだよ?」
凛ちゃんが俺の服の裾をトントンと引っ張りながら、不思議そうに首をかしげる。
その背後から追いついてきた三人も、俺と、目の前に立っている藤嶺と吉岡の姿を交互に認めて、ピタリと足を止めた。
「どうしたの、空君。何かトラブル?」
長女の桐乃さんが、弁護士としての鋭い観察眼を光らせながら、スッと一歩前に出て俺と藤嶺たちの間に身を置いた。
そのあまりの凛とした美しさと、ただ者ではない雰囲気に、藤嶺はわずかに気圧されたような表情を浮かべた。
そして、爽花さんが怪訝そうな顔をしながら、藤嶺と吉岡をじっと見つめて声を漏らす。
「……ねえ、この人たち……誰ですか?」
その爽花さんの問いかけに、藤嶺はハッと我に返ったように、目の前に立つ美しすぎる四姉妹の姿を上から下まで凝視した。彼の顔に、これまでにないほどの露骨な下心の色が浮かび上がる。
藤嶺はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべると、わざわざ声を張って自己紹介を始めた。
「いやあ、失礼しました! 俺は藤嶺徹って者です。こいつの、昔からの……まあ、腐れ縁の同級生みたいなもんですよ。もしかして、あなた方は逢沢玲那さんの、お姉さん方ですか? いやあ、それにしても、こんな美人なお姉さん方がいるなんて聞いてなかったな。めちゃくちゃ綺麗ですね!」
藤嶺はあからさまに調子の良い声を出し、桐乃さんや爽花さん、玲那さんに媚びるような視線を向けた。
その傍らで、吉岡は面白くないと言わんばかりに不機嫌そうに眉をひそめ、冷ややかな視線を四姉妹へと向けている。
しかし、藤嶺は自分の愚かさに気づくことなく、さらに調子に乗って信じられない言葉を吐き出したのだ。
「でもさ、こんな美人なお姉さん方が、なんでこいつなんかと一緒にいるんですか? 知ってます? そいつ、レイプ未遂事件を起こした筋金入りの犯罪者ですよ? そんな危ない奴と一緒にいたら、あなた方まで危ない目に遭いますよ。ねえ、せっかくの夏祭りなんだし、そんな犯罪者と一緒にいないで、俺たちと一緒に回りませんか? こいつとは比べ物にならないくらい、楽しい夜にしてあげますよ!」
その言葉を聞いた瞬間、場の温度が数度下がったような強烈な威圧感が走った。
「……は?」
桐乃さんの目が、氷のように冷たく凍りついた。彼女が弁護士として悪質な被疑者を見るような、いや、それ以上に殺意を含んだ冷徹な視線を藤嶺に向けた。
それ以上に激怒したのは爽花さんだった。
彼女はそれまでまとっていたおしとやかな清楚モードの仮面を、まるでガラスが割れるかのように一瞬でかなぐり捨てた。彼女の美しい顔が怒りと軽蔑で歪み、普段の気の強い毒舌全開のモードへと豹変する。
「へえ……? あんたが、あの噂の……空君を散々いじめてたっていう、あのゲスいクズ男の藤嶺ってやつね?」
爽花さんは冷笑を浮かべながら、一歩前に進み出た。その眼光は、ハッカーとして数々の不条理なデータを葬ってきた彼女特有の鋭さに満ちていた。
「いかにも自分はモテるって顔してやがるけど……よくそんな面の皮の厚いセリフが吐けたもんだね。鏡を見たことがあるの? その安っぽいシャツと軽薄そうなツラ、まさに絵に描いたような『かませ犬』って感じ。頭の中までお花畑どころかウジ虫でもわいてるんじゃないの?」
爽花さんは冷ややかなトーンでトドメを刺すように言い放ち、さらに隣にいた吉岡へと視線を鋭く向けた。
「で、そっちの女。あんた、たぶん空君を美術部から追い出した先輩とかよね? 散々裏切っておきながら、今度はそんなクズ男の腕に媚びを売るようにしがみついて……。あんたが噂の裏切り女ってわけね。いかにも性格の悪さが顔に出てるけど、ブスを連れてイキッてるそこの男とお似合いのカップルだよ。並んで歩いてるだけで周囲の環境汚染になるから、今すぐ視界から消えてくれる?」
「なっ……なんなのよ、アンタ……っ!」
爽花さんのあまりの容赦ない罵倒の嵐に、吉岡は顔を真っ青に染め、プライドをズタズタに引き裂かれたような顔で声を震わせた。
藤嶺も顔を真っ赤にして怒りを露わにしようとするが、桐乃さんの冷徹な眼光に気圧されて言葉が出ない。
「ふん、時間の無駄だよ。こんな掃き溜めのゴミみたいな奴らに関わってる暇はないし。ねえ、空君、こんなゲス野郎たちの話を聞いてる必要なんてないでしょ。行きましょ」
爽花さんはふんっと鼻を鳴らしながら、俺の腕をギュッと掴んだ。
玲那さんも「そうだね、空君、早くこんな失礼な人たちから離れよう?」と俺の反対側の腕に優しく寄り添ってきた。
「行こ、お兄ちゃん! こんな奴らのせいで楽しいお祭りが台無しになっちゃうよ!」
凛ちゃんもプンプンと頬を膨らませながら私の手を引っ張る。
「ええ、そうね。これ以上ここに長居するのは時間の無駄だわ。行きましょう、みんな」
桐乃さんが最後にあからさまな軽蔑の視線を藤嶺と吉岡に投げつけ、俺たちはその場から背を向けて歩き出した。
「なっ……待てよ、お前ら……!」
後ろで藤嶺と吉岡が何か喚いていたが、俺たちは振り返りもしなかった。
爽花さんの容赦ない毒舌のおかげで、嫌な気分はものの見事に吹き飛び、むしろ清々しいほどの爽快感さえ残っていた。
§
商店街の喧騒を抜け、俺たちはさらに足を進めていた。
その先にあるのは、川沿いの広々とした土手だ。
いよいよ、今日の夏祭りの最大のクライマックスである『花火大会』の開催時刻が刻一刻と近づいていた。
河川敷の土手には、すでに色とりどりのレジャーシートを広げた多くの見物客たちが陣取っており、夜空を見上げるための最高の特等席は熱気に包まれていた。
俺たちは少し開けた場所を見つけ、持参したシートをそこに丁寧に敷いて腰を下ろした。
先ほどのちょっとしたトラブルなどまるで嘘のように、夜の涼しい風が俺たちの火照った身体を優しく撫でていく。
「ふう、歩き疲れたし、なんか色々あったけど、でも、すごく楽しかった!」
凛ちゃんが俺の隣にちょこんと座り、両膝を抱えながら夜空を見上げる。
「ええ、本当に。空気が少しひんやりしてきて、夏の夜の終わりを感じるけれど……最高の夜だわ」
桐乃さんが深く息を吸い込みながら、穏やかな笑みを浮かべる。
「あ、そろそろ始まるみたいですよ。あっちの空を見てください」
爽花さんが指差したその先、川の向こうの打ち上げ場では、静寂の中に微かな緊張感が漂い始めていた。
夜空の向こうから、ドーンという重低音の響き渡る音が微かに聞こえてくる。いよいよ、夏の夜空を彩る大輪の花火が打ち上がろうとしている。
俺は胸を高鳴らせながら、視線を夜空の一点へと集中させた。
やがて、静寂を切り裂くように最初の花火がヒュイーッと空高く打ち上がり、夜空の真ん中でドンッと大きく花開いた。
「わあぁ……っ!」
凛ちゃんが歓声を上げ、隣に座る玲那さんが「すごい……」と息を呑む。
次から次へと打ち上げられる花火は、夜の闇を鮮やかな極彩色へと染め上げていく。
しばらくの間、俺たちは無言でその夜空に咲き誇る光の花々に見入っていた。
やがて、大会のフィナーレを告げるように、夜空のすべてを埋め尽くすほどの圧倒的な規模の『スターマイン』が連続して弾けた。
ドォーンッ、バリバリバリッ!
轟音とともに、無数の光の花が夜空いっぱいに広がり、まるで星のシャワーが降り注ぐかのような幻想的な光景が目の前に広がった。
そのまばゆい光が、四姉妹のうっとりと見上げる横顔を美しく照らし出す。
「……きれいだね」
俺が思わず呟くと、隣に座っていた玲那さんが、ふっと柔らかく微笑みながら私に視線を向けた。
「うん……すごく、きれい」
彼女はそう答えると、俺の肩にそっと頭をもたれかけさせてきた。その温もりと、胸の奥からこみ上げてくる幸福感に、言葉を失う。
頭上ではスターマインが次々と激しく弾け、光の奔流が夜空を駆け抜けていく。
俺は心から確信していた。この優しく、賑やかで、かけがえのない四姉妹と過ごす日々こそが、自分の何よりも大切な宝物なのだと。
夏の夜の終わりを告げる花火の音を聞きながら、俺たちはそれぞれの想いを胸に、まばゆい光の海へといつまでも魅入っていた。




