第31話 寝ぼけ眼の甘い罠、朝風呂の温もり
窓の外で音を立てていた波のざわめきが、すっかり静まり返り夜の帳に包まれている。
旅館の広間に並べて敷かれた布団の中で、俺は目を覚ましたまま、暗い天井をぼんやりと見つめていた。
深夜の静寂。どこかそれぞれに個性のある四姉妹の寝息が部屋のあちこちから聞こえてくる。昼間の海のはしゃぎ声や、夜の人生ゲームでの賑やかな笑い声が嘘のように、今は静かな時間が流れていた。
……なんだか全然眠れないな。
頭は冴え渡り、心臓の音だけが妙に大きく響く。
それも無理はない。俺のすぐ両隣には、日本一美しいと称されてもおかしくない美人四姉妹が、浴衣を少しだけはだけさせながらすやすやと寝息を立てているのだから。
すぐ左隣では桐乃さんが腕を組むようにして上品に眠り、右隣では玲那さんが柔らかな寝顔をこちらに向けている。少し離れた場所では爽花さんと凛ちゃんが仲良く丸まって眠っている。
こんな環境で理性を保ちながら眠りにつくことなど、生身の男にとって不可能に近い拷問だった。布団の中からでも伝わってくる彼女たちのかすかに香るシャンプーの甘い匂いに、俺の思考回路は完全にショート寸前だった。
早く目を閉じて、無心になるんだ……。
そう自分に言い聞かせながら、寝返りを打とうとしたその時だった。
ススッ、と。
静まり返った部屋の空気をわずかに揺らすように、隣の布団から気配が動いた。
「ん……むにゅ……」
かすかな寝言を漏らしながら、玲那さんがふわりと起き上がった。彼女はトボトボとした足取りで部屋の隅にあるトイレへと向かっていく。
暗闇の中でもすぐにそれと分かった俺は、彼女が起きていった方向を目で追いながら、ふうっと小さく息を吐いた。
びっくりした……。あれはただトイレに行っただけだな。
心臓のバクバクを沈めるように胸を押さえていると、数分後、玲那さんがトコトコと戻ってくる足音が聞こえてきた。
しかし、その足取りはどうにもおぼつかない。完全に意識の半分が夢の世界にある、いわゆる『寝ぼけ状態』のようだった。
「……ぁれ……ここだっけ……」
玲那さんは自分の布団を探すはずが、すっかり方向を見失ったらしい。
俺の目の前までフラフラと歩いてくると、そのまま俺の敷いていた布団の端に、何の迷いもなくストンと潜り込んできたのだ。
「えっ……!?」
あまりの急展開に、喉から変な声が漏れそうになるのを必死で手で押さえ込んだ。
玲那さんは目を閉じたまま、まるで冷え切った身体を温める小さな小動物のように、俺の胸元へとスルスルと寄り添ってきた。
そして、俺のウエストに両腕を回し、ギュッと強くしがみついてきたのである。
「うそ……だろ……?」
至近距離で漂う、玲那さんの髪の甘い香り。そして、浴衣越しにダイレクトに伝わってくる彼女の柔らかい体温と心臓の鼓動。
頭が真っ白になるとはまさにこのことで、俺の心臓は先ほどとは比べものにならないほどの爆音で激しく鳴り響き始めた。
落ち着け、俺! 玲那さんは今、完全に寝ぼけているんだ! 意識してやってるわけじゃない、ただの勘違い……いや、それにしても密着しすぎだろ!
慌てて身体を離そうと身じろぎしたが、それが逆に彼女の執着を強めてしまったらしい。
玲那さんはうっとりと心地よさそうな表情を浮かべると、さらに俺にしがみつき、夢うつつの中で甘えるような声を漏らした。
「……空君……ねえ……」
「れ、玲那さん……? 起きてる……?」
俺私が冷や汗を流しながら小声で問いかけても、彼女は目を閉じたまま、かすれ気味の色っぽい声で囁き続ける。
「……もっと……ぎゅってして……」
「なっ……!?」
トドメと言わんばかりのその寝言に、俺の理性という名のダムは完全に決壊した。寝ぼけているとはいえ、こんな無防備すぎる姿で甘えられたら、男として理性を保ち続けることなど不可能の領域だ。
どうすればいいんだ……! このまま朝までこの状態だったら、俺の心臓が持たないぞ……!
暗闇の中、俺は身動き一つできないまま、玲那さんの温もりを全身で受け止め続けるしかなかった。
彼女が規則正しい寝息を立てて再び深い眠りに落ちていくのを感じながら、俺は一晩中、一睡もできないまま天井の木目を数え続ける羽目になったのだった。
§
そして、鳥のさえずりとともに、眩しい朝の光が旅館の障子の隙間から差し込んできた。
やばい、このままじゃ本当に朝になっちゃう……!
玲那さんが目を覚ます前に、何としてもこの密着状態から抜け出さなければ、起きてきた他の三姉妹にどんな修羅場を演出されるか分かったものではない。
冷や汗を流しながら、俺は細心の注意を払って、玲那さんの腕をそっと自分の体から外していった。
「ん……むにゅ……」
玲那さんがうっすらと目を開けかけたその瞬間、俺はまるで忍者のような身のこなしでスルリと布団から抜け出し、何事もなかったかのように壁際に突っ立ってみせた。
しばらくして、パチリと目を覚ました玲那さんは、自分がなぜか俺の布団を抱きしめていることに気づき、不思議そうに小首を傾げた。
「あれ……? 私、確か……空君の夢を……って、あれ?」
彼女の頬がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。どうやら、昨夜の記憶の断片が少しずつ蘇ってきたらしい。彼女は顔を両手で覆い、恥ずかしさのあまり布団に潜り込んでしまった。
そのあまりの可愛らしい反応に、俺は昨晩の寝不足の疲れが一気に吹き飛ぶ思いだった。
その後、俺たちは昨夜の甘く危険な空気の余韻を引きずりながらも、旅館の食事処へと向かった。
朝食のテーブルには、日本の朝にふさわしい贅沢なメニューが並んでいた。炊き立てのツヤツヤとした白米に、香ばしく焼き上げられたアジの干物、出汁の香りがふわりと鼻をくすぐる温かい味噌汁、そして温泉卵や手作りの和惣菜の数々。
「わあ、朝ごはんもすごく豪華! いただきます!」
凛ちゃんが元気よく手を合わせ、さっそく白米に温泉卵を乗せて美味しそうに頬張る。
「あぁ……、このお味噌汁の優しい出汁が、昨日の夜の美味しいお酒やご馳走で疲れた胃に染み渡りますね……。日本人で本当によかったって思える瞬間です」
清楚モードの爽花さんも満足げに箸を進め、桐乃さんも上品にお茶を一口飲みながらうなずく。
「ええ、本当に素晴らしいお宿だわ。心身ともに完全にリフレッシュできた気分よ」
俺も白米を口に運びながら、昨晩のハプニングで火照った頭を冷やすように、温かいお茶をすすった。
玲那さんは相変わらず恥ずかしそうに下を向いたままだったが、俺がそっと見つめると、ほんのりと頬を染めながら小さく微笑み返してくれた。そのやり取りだけで、胸の奥が甘く疼くようだった。
美味しい朝食を綺麗に平らげた後は、部屋でまったりとすごし、チェックアウトの時刻が迫ってきた。
けれど、その時を前にして、こんな提案が飛び出した。
「ねえ、チェックアウトする前に、もう一度だけ朝風呂に入っていかない? あの温泉、本当に肌がツルツルになって名残惜しいんだもん」
凛ちゃんのその言葉に、全員が満場一致で頷いた。
俺たちは再び大浴場へと足を運び、旅の最後の締めくくりとして、朝の澄み切った光が差し込む温泉にゆったりと浸かった。
窓の外に広がる青い海原を眺めながら、朝の湯船の中で過ごす時間は、これ以上ないほどの至福だった。
温泉で身体の芯まで温まり、身支度を整えた俺たちは、フロントで恭しく頭を下げる女将さんに見送られながら旅館を後にした。
帰り道の車中、窓の外を流れる美しい夏の景色を眺めながら、俺たちはそれぞれの思い出を語り合った。
海でのナンパ撃退劇、夕食の豪華な海の幸、人生ゲームでのカオスな大乱闘など(昨夜の秘密のハプニングは玲那さんとの二人だけの秘密だ)──。
どれをとっても、俺たちが共に歩んだかけがえのない宝物のような記憶だった。
車窓から肌を撫でる夏の風を受けながら、俺は四姉妹の穏やかな寝息や笑い声を耳にしつつ、ふと思った。
どれほど予測不能なトラブルが起きようとも、この優しくも賑やかな四姉妹と一緒なら、これからの人生もきっと笑いと温かさに満ちた素晴らしいものになる、と。




