第30話 湯けむりの夜、人生ゲームは波乱の嵐
海岸での騒動もすっきりと片付き、夕暮れ時にはすっかり穏やかな時間が戻っていた。
俺たちは海の家での着替えを済まし、歩いてすぐの距離にある海辺の温泉旅館へと戻ってきた。
「やっぱり海であんなにはしゃいだあとは、お湯に浸かるのが一番の贅沢よね」
そう言う桐乃さんとともに旅館の大浴場へと向かった俺たちは、それぞれ広々とした温泉で心地よい湯船に身を委ねた。
源泉かけ流しの温泉は、旅の移動やビーチでの水遊びで心地よく疲れた身体の芯からじっくりと温めてくれる。無色透明な湯は肌に優しくまとわりつき、お風呂上がりの肌が驚くほどツルツルになるという評判通りの素晴らしい泉質だった。
玲那さんも「お肌がもちもちになったみたい、気持ちよかったね」と柔らかく微笑み、桐乃さんも「日頃の法的なトラブルで凝り固まった肩の荷が、すっかり下りた心地だわ」と極上のリラックスタイムを満喫した様子だった。
そして、温泉で身も心もすっきりとリフレッシュした俺たちが待ちに待っていたのは、言うまでもなく旅館自慢の夕食である。
部屋に戻ると、仲居さんが手際よく次から次へと豪華な料理を運んできてくれた。テーブルの上が埋め尽くされるほどの圧倒的なご馳走の数々に、俺たちは思わず息を呑んだ。
「わあぁっ! 見てこれ、すごすぎるよ!」
凛ちゃんが目を丸くして歓声を上げる。
そこには、日本海の荒波が育んだ新鮮すぎる海の幸がこれでもかと並んでいた。
透明な身が美しく輝く特選舟盛りには、イカやタイ、甘エビが贅沢に盛られ、網の上ではジュージューと香ばしい音を立てながらアワビの踊り焼きが湯気を上げている。さらに、カニの身がたっぷり詰まったお椀や、地元で取れた旬の食材を使った小鉢の数々が、食欲を大いに刺激してきた。
「私のリサーチに狂いはなかったでしょ! ネットの評価なんて普段は話半分に聞いてるけど、ここの料理はガチの本物だわ。いっただっきまーす!」
清楚モードを崩した爽花さんは、待ちきれないとばかりに箸を手に取り、真っ先にアワビの踊り焼きへと狙いを定める。一口食べた瞬間、彼女の瞳がキラキラと輝いた。
「んんーーっ! 柔らかいのに弾力があって、磯の香りとバター醤油のコクが口いっぱいに広がるぅ! 美味しすぎて幸せで涙が出そう!」
「ほんとだ、すごく美味しいね。お魚の身がプリプリしていて、甘みが全然違う」
玲那さんも上品にお箸を動かしながら、うっとりと目を細める。
桐乃さんも日本酒のグラスを少しだけ傾けつつ、刺身を一口運んで満足げにうなずいた。
「ええ、本当に絶品だわ。日々の弁護士業務のストレスが、この美味しいお料理の一口ですべて浄化されていくような気分よ。空君も、ちゃんと食べてる?」
「うん、めちゃくちゃ美味いよ。こんな贅沢な夕食、本当に夢みたいだ」
俺も箸を動かしながら、目の前で美味しそうに料理を頬張る四姉妹の姿を見て、胸の奥が温かな幸福感で満たされていくのを感じていた。
そうして、美味しい海の幸で全員のお腹がしっかりと満たされ、心地よい満腹感に包まれた夕食の後。
俺たちは旅館の広々とした和室の真ん中に車座になって座り込んでいた。
浴衣姿でくつろぐ中、誰からともなく「せっかくの旅行だし、何か部屋で遊べるものはないかな」という話題になり、旅館のフロントで無料貸出されていた、据え置き型の懐かしい家庭用ゲーム機を借りてくることになった。
テレビ画面に接続されたそのゲーム機で起動したのは、誰もが一度は遊んだことのある、波乱万丈な人生を疑似体験するあの定番のボードゲーム『人生ゲーム』だった。
「ふふっ、こういうボードゲームって、その人の本性が出るから面白いのよね。弁護士の私が、どれだけ堅実に資産を築いて勝者になるのか、見せてあげるわ」
桐乃さんが眼鏡をくいっと押し上げながら宣戦布告し、爽花さんも「こういう運が絡むゲームは私の独壇場よ。神に愛された私が幸運を呼び込みまくってボロ儲けしてあげるんだから」と不敵に笑う。
凛ちゃんも「負けないもん! 私、絶対にお金持ちのトップスターになってみせる!」とやる気満々だ。
こうして、和気藹々とした雰囲気の中で、それぞれのコマを動かす波乱の人生ゲームの幕が上がったマス目が進み、ゲームの中の俺たちは、それぞれに思いがけないキャリアや人生のイベントを重ねていくことになった。
そして、ゲームの盤面が進み、中盤に差し掛かった頃、俺の番で起きたイベントによって、リビングの空気は一瞬にして奇妙な静寂と、そして容赦ないツッコミの嵐に包まれることになった。
画面に表示された文字と、ゲーム内のイベントログを読んだ瞬間、俺は思わずその場で固まった。
『結婚二年目でもまだまだ甘々でラブラブ! 新たな子供を授かる! 皆からご祝儀として三万円ずつ貰う』
ゲームの中の俺のキャラクターは、なぜか玲那さんと結婚しており、しかもすでに子供がいる設定だったにもかかわらず、さらに二人目を授かるという驚異的なハイペースを見せつけていた。
盤面上のイベントを見た玲那さんは、ほんのりと頬を桜色に染めながらも、どこか嬉しそうにふふっと息を漏らした。
「……うふふ、またできちゃったね、空君」
玲那さんはそう言いながら、少しだけ舌をペロッと出して悪戯っぽく笑ってみせた。その彼女が見せた艶めかしい仕草に、俺の心臓は不規則に跳ね上がる。
しかし、その和やかな(あるいは少し生々しい)カップルのやり取りを、周囲の三人は決して温かい目だけで見守ってはいなかった。
「……空お兄ちゃんのエッチ……」
末っ子の凛ちゃんが、ジトッとした視線を俺に向けてきた。そのあまりの冷ややかな目に、俺は冷や汗を流しながら激しく狼狽える。
「い、いや、待ってくれ凛ちゃん! これはゲームのシステムが勝手に! 不可抗力なんだってば! 俺たちだって困惑してるんだよ……!」
言い訳をする俺に、今度は桐乃さんが冷ややかなため息をつきながら鋭い視線を突き刺す。
「二人とも、どれだけ仲睦まじいのか知らないけれど……少しは自重しなさいよ。ゲームの中だからって、倫理観が緩みすぎじゃない?」
「そうよ、そうよ! まだ結婚二年目で早くも二人目って、ハッスルしすぎじゃないの? 空君、あなた少し体力をセーブすることを覚えなさいよ」
爽花さんがどこか面白がるようなニヤニヤとした笑みを浮かべてツッコミを入れる。
「ほ、ほら、そんなことより、次は桐乃さんの番ですよ! 話が脱線してるから、早くゲームを進めましょう!」
俺はこれ以上追撃を受ける耐性がゼロだったため、必死の形相で話題を別の方向へと逸らそうと、桐乃さんに次の操作を促した。
「ふん……まあ、いいわ。それじゃあ、私がこの荒れた空気を一掃して、堅実な弁護士の底力を見せてあげるわね」
桐乃さんは呆れ顔を引っ込めると、手元のコントローラーのボタンを押し、ルーレットを力強く回した。
シャカシャカと心地よいデジタル音が響き、出た数字の分だけ彼女のコマがスルスルと進んでいく。
そして、止まったマスに書かれていた文字を読んだ瞬間、桐乃さんの動きがピタリと止まった。
画面に表示されたイベントテキストは、彼女の華やかな経歴とはあまりにもかけ離れた、残酷すぎる現実を突きつけていた。
『悲惨! 突然のリストラに遭い、失業してプー太郎に! ※再就職するまで給料は貰えません』
「……えぇ……?」
普段はどれほど難解な法律トラブルや裁判の相手をも論破し、クールに仕事をこなしてきた敏腕弁護士・桐乃さんが、ゲームの中であっさりと無職のプー太郎へと転落した瞬間だった。 あまりの理不尽なイベントに、桐乃さんは絶句し、その端整な顔を信じられないものを見るように歪めた。
「ちょっと待って、このゲームのアルゴリズムはどうなっているのよ!? 私がどれだけの難関司法試験を突破して今の地位を築いたと思っているの! なぜ一瞬で無職のプー太郎に……!」
「どんまい、桐乃姉さん。人生、何が起きるか分からないってことだよ」
爽花さんがからかうように声をかけると、桐乃さんは悔しそうに歯を噛み締めた。
どんよりとした不穏でシュールな空気がリビングを包み込む中、気を取り直して次のプレイヤーである玲那さんがルーレットを回した。
すると──。
『超ラッキー! 宝くじが当たって百万円の臨時収入!』
「わ、わぁい……?」
次々と幸運を引き当てる玲那さんは、目の前で失業という絶望のどん底に突き落とされている姉・桐乃さんの手前、喜びを露わにするのもどこか気が引けるようで、控えめに両手を合わせながら苦笑いを浮かべていた。
「じゃあ、次は私だね。姉さんたちの明暗が分かれすぎてて面白すぎるんだけど」
爽花さんがニヤリと楽しげな笑みを浮かべながら、コントローラーを受け取って勢いよくルーレットを回した。画面の中で彼女のコマが勢いよく走り抜け、止まったマスでイベントが発生する。
『フォーリンラブ! 一目惚れした桐乃と電撃結婚! ※以降二人の財産は共有されます』
「……は?」
爽花さんが自分の目を疑うように画面を凝視し、そして目の前に座る失業中の実の姉を見やった。
「ちょっと待ってよ! よりによってなんで目の前の無職のプー太郎と電撃結婚しなきゃいけないわけ!? 意味がわからないんだけど!」
爽花さんは頭を抱え、まるでこの世の終わりのような表情で天井を仰いだ。
「私は……私はこれからの人生、このプー太郎を養っていかないといけない運命なの……? 冗談じゃないわよ、私の優雅な独身セレブライフが……!」
「……苦労かけるわね、爽花……。私だって、まさかゲームの中で妹に養ってもらうヒモ生活を送ることになるなんて思ってもみなかったわよ……」
桐乃さんと爽花さんの間で、血を分けた姉妹とは思えないほど薄幸でシュールな夫婦関係が強制構築され、部屋の空気はさらにシュールな笑いに包まれていった。
現実世界での優秀で頼もしい姿からは想像もつかないカオスな展開に、俺たちはもう笑うしかなかった。
「じゃあ、次、私が回すよー!」
そんな修羅場と化した大人たちの横で、末っ子の凛ちゃんだけは全くのマイペースを貫いていた。彼女が満面の笑みでルーレットを回すと、盤面はさらに斜め上の展開を引き起こした。
『スターロード! 大手芸能プロダクションのスカウトマンに見出されてアイドルとしてデビュー! 瞬く間に人気アイドルとなる! 臨時収入三百万円』
「わーい! 私、アイドルになっちゃった!」
凛ちゃんは両手をパチパチと叩いて大喜びし、画面の中で眩しいドレスを纏ったキャラクターがキラキラと輝くステージで歌い踊る姿を眺めて満足げに頬を緩ませた。
一家の中で、無職を養う羽目になった爽花さん、無職の桐乃さん、次々と子供を増やしてラブラブ街道を突っ走る俺と玲那さんというカオスな泥沼が形成される中、凛ちゃんだけが一足飛びに国民的スターの道を駆け上がり、巨万の富を手に入れていく。
「ずるいよ、凛ちゃん! 私なんてプー太郎の夫を抱えているのに、なんであなただけそんなキラキラした人生なのよ!」
爽花さんが羨ましそうに抗議するが、凛ちゃんは「へへー、日頃の行いの違いかな?」と悪びれずに舌を出してみせる。
「じ、じゃあ、次は俺の番だね……」
冷や汗を拭いながら俺が恐る恐るルーレットを回すと、画面には再び文字が浮かび上がった。
『夜の大運動会! 新たな子供を授かる! 皆からご祝儀として三万円ずつ貰う』
「もう、空君たら……どれだけ子供作る気なのよ」
玲那さんが恥ずかしそうに頬を染めながらも、私の肩にコテンと頭をもたれかけてくる。
「空お兄ちゃん、もう自重して……!」と凛ちゃんが再びジト目で睨みつけ、桐乃さんと爽花さんは「また私たちからご祝儀をむしり取る気……!? 」「この子だくさん野郎が……!」と絶望の声を上げた。
もはや俺と玲那さんは本能のままに快楽を貪る獣と化していると全員から認定され、ツッコミの集中砲火を浴びることになった。
とまぁ、そんなこんながあった波乱万丈、そして少しばかりの情欲とカオスに塗れた人生ゲームは、最終的に、圧倒的な資金力と国民的人気を誇るトップスターとなった凛ちゃんの一人勝ちという大団円(?)で幕を閉じた。
夜更けの温泉旅館の部屋には、ゲームの勝敗をめぐる賑やかな笑い声と、家族みんなで肩を寄せ合って過ごす温かな時間がどこまでも優しく響き渡っていた。




