第27話 旅行の前夜祭
夕食後の逢沢家のリビングルームでは、食後のくつろいだ時間が流れる中、突如としてその平穏を破るように、爽花さんの声がリビングに響き渡った。
「ねえ、皆。せっかくの夏休みなんだから、どっか旅行でも行きたくない?」
その唐突な提案に、リビングにいた全員がふと動きを止めた。
今日の爽花さんは、あいかわらずごくつぶし的な『他力本願寺』と大きく書かれたふざけたネタTシャツを着ており、ソファの上でだらりと手足を投げ出している。そのマイペースすぎる姿に、桐乃さんは冷ややかな目を向けた。
「あなた、年中休みみたいなものじゃないの。これ以上何を休む必要があるというのよ」
「ちょっと桐乃姉さん、冷たいなあ! 私だって日々、見えないサイバー空間の荒野で戦っている戦士なんだよ? たまには羽を伸ばす優雅な時間も必要なわけ」
爽花はふんっと鼻を鳴らしながら反論する。
「他力本願を主張する戦士がどこにいるのよ……でも、旅行というのは悪くない提案ね」
グラスに残ったミネラルウォーターを飲み干しながら、桐乃さんはわずかに口元を緩めた。
「空君の無実を勝ち取るための戦いにおける束の間の休息……リフレッシュ期間として、旅行という選択肢は理にかなっているわ」
桐乃さんのその言葉に、凛ちゃんがパッと顔を輝かせた。彼女はテーブルの上に身を乗り出すと、元気いっぱいに声を弾ませる。
「はいっ、私も旅行行きたい! 行くなら絶対、海がいいな! 白い砂浜に青い空、それに美味しいかき氷!」
凛ちゃんの無邪気な提案に、玲那さんがふわりと柔らかい微笑みを浮かべて首を横に振った。
「海もいいけれど……私は、静かな山奥の温泉街とかがいいかな。木漏れ日の中を散歩したり、涼しい風を感じながらのんびり過ごすのも、心が癒やされて素敵だと思うの」
玲那さんの意見を聞き、桐乃さんが腕を組みながら静かにうなずいた。
「私もどちらかと言えば山派ね。静寂の中で読書をしたり、都会の喧騒から完全に離れた場所で思考を巡らせる方が、弁護士としての英気を養うには適しているわ」
「えー、桐乃姉さんたち、地味だなあ! 夏といえば海でしょ、海!」
爽花さんが盛大にげんなりした顔を作って抗議する。
「山なんて虫が多いし、電波の繋がりが悪そうだし……とにかく、開放感という意味では絶対に海よ! 水着! プールサイド! バーベキュー!」
見事に『山派』の桐乃さん・玲那さんコンビと、『海派』の爽花さん・凛ちゃんコンビで意見が綺麗に真っ二つに分かれてしまった。
リビングの空気が、一気にどちらのスポットに軍配が上がるかというプチ論争の熱を帯びていく。
そして、四姉妹が一斉に視線を向けたのは、ソファの端で静かにマグカップを傾けていた俺だった。
「ねえ、空お兄ちゃんはどっちがいい?」
「海だよね?」
「山でしょ?」
「あなたの一存ですべてが決まるわ、空君」
四者四様の期待と圧力を込めた視線が、一斉に俺に集中する。
突然の決定権の委譲に、俺は思わず内心で冷や汗を流した。
しかし、ここで下手に日和った意見を言おうものなら、どちらかの派閥から容赦ない非難の集中砲火を浴びることは目に見えている。
……とはいえ。
俺の頭の片隅に、ふと、ごく自然に浮かび上がってくる光景があった。真っ青な海原、どこまでも続く砂浜、そして波打ち際にたたずむ四姉妹の──。
いや、別に、四姉妹の水着姿に惹かれたわけじゃない……嘘です。心の底から期待している自分がここにいます。
男のロマンとでも言うべき不純な動機が脳裏をよぎったが、それを表情に出さないよう必死にポーカーフェイスを保ちながら、俺は静かに口を開いた。
「……じゃあ、海がいいかな。夏だし、やっぱり海で潮風に当たるのは心地いいだろうし」
俺のその一言が発せられた瞬間、海派の二人から歓声が上がった。
「やったあ! 空お兄ちゃん、最高! これで海に決定だね!」
凛ちゃんは嬉しさのあまり、その場でピョンピョンと飛び跳ねた。
「さすが空君だね。愛してる」
爽花さんは軽い告白とともに投げキッスを送ってきた。
山派だった玲那さんも、どこか優しげな笑みを浮かべてため息をついた。
「空君がそう言うなら、海も悪くないよね」
桐乃さんは、やれやれと言った様子で軽く肩をすくめながらも、異議を唱えることはなかった。
「決まったからには、計画の立案は私のほうで進めておくわ。宿の予約から移動手段の手配まで、完璧にスケジュールを組んであげる」
こうして、俺の一言によって、今年の夏休みの目的地は『海』に正式に決定したのだった。
その瞬間から、リビングの空気は一気に旅行の前夜祭のような浮かれムードに包まれた。
特に凛ちゃんのテンションは天井知らずで、スマホを取り出すと、さっそくネットで海の近くの観光地や美味しいグルメの検索を始めている。
「そうと決まったらさ!」
凛ちゃんが目を輝かせながら、テーブルをバンと軽く叩いた。
「明日にでも、みんなで水着を買いに行こうよ! 私、新しい水着持ってないし、せっかくならみんなでお揃いっぽい感じにするか、それとも思いっきり可愛いのにするか、直に見て現地調達したいの!」
その提案に、爽花さんがニヤリと妖しい笑みを浮かべながら乗っかった。
「いいねぇ、水着選びか。……フッ、私のこのグラマラスかつセクシーなプロポーションで、浜辺の視線を独り占めにして悩殺しちゃうよ?」
「爽花、あなたねぇ……あまり露出度の高い変な水着を買ったら、お姉ちゃんが没収するからね」
桐乃さんが呆れたようにピシャリと釘を刺す。
「えー、ケチだなあ、桐乃姉さんは! 青春の特権でしょ、こういうのは!」
「私は……そうだな、あまり派手すぎない、落ち着いた上品で可愛いのを選ぼうかな」
玲那さんが穏やかに微笑みながら、自分の頬に手を当てて考え込む。
「空君が、思わず見とれちゃうような……そんな素敵なデザインがいいな。ねえ、空君?」
不意打ちのように向けられた玲那さんの優しい流し目に、俺は思わず心臓を跳ねさせてしまい、慌てて視線をマグカップの底へと逃がした。
「私も、空お兄ちゃんに『可愛いね』って言ってもらえるような最高の水着を探すんだから!」
凛ちゃんも対抗するように声を張り上げる。
その賑やかなやり取りを眺めながら、俺は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
「よし、明日はみんなで水着の買い出しに行こう。俺も荷物持ちくらいは頑張るからさ」
俺がそう告げると、四姉妹は一斉に満面の笑みを咲かせた。




