第26話 母の描く復讐のキャンバス
季節は巡り、真夏の日差しがアスファルトを熱く焦がす夏休みへと突入していた。
蝉時雨が容赦なく降り注ぐ昼下がり、俺は母さんが暮らすマンションのリビングにいた。
冷房が心地よく効いた室内には、淹れたてのアイスコーヒーの香りと、ほんのりとした安らぎが満ちている。
「お疲れ様、空。外暑かったでしょう、これでも飲みなさい」
母さんは、対面のソファに座りながら、優しい微笑みを向け、俺に冷たいグラスを差し出してくれた。その隣では、咲叔母さんが期待するように目を輝かせている。
「ありがとう、母さん」
俺は飲み物で一息ついてから、これまでの数日間に起きた激動の経過を、二人に報告し始めた。
学校での赤羽や藤嶺の事情聴取の様子、爽花さんが執念のハッキングで暴き出したグループチャットの全ログ、そして桐乃さんが法的な手腕を振るって父を追い詰めたこと──そのすべてを、一つ残らず。
俺の口から語られる一連の展開を聞きながら、母さんは静かに頷き、咲叔母さんは「へえ、やるじゃないか!」と感心したように手を叩いた。
そして、俺は最も重要で、かつ決定的なニュースへと話を移した。
「……それでね、桐乃さんからさっき連絡があったんだ。父さんのことなんだけど……」
俺は少しだけ息を呑み、二人の顔を見据えてから続けた。
「父さんは、会社をクビになったよ。桐乃さんがコンプライアンス窓口に送った通知書と音声データが決め手になって、会社側から『懲戒解雇』を言い渡されたって……退職金も全額不支給で、即日クビになったらしい」
その報告を聞いた瞬間、リビングの空気がピリリと引き締まった。
けれど、驚きや同情の色はそこには一切なかった。
母さんは、手元のアイスティーのグラスをゆっくりとテーブルに置き、まるで当然の結末を噛みしめるかのように、静かに言い放った。
「──そう。当然の報いね。因果応報だわ」
母さんのその声には、かつて自分を裏切り、家庭では我が物顔でいた傲慢な男に対する、一切の情けも濁りもない冷徹な断罪が込められていた。
母親としての、そして一人の表現者としての静かなる怒りが、その美しい瞳の奥でかすかに揺らめいている。
「自分の保身のために実の息子を切り捨て、世間に対して被害者面をして生き延びようとした罰よ。会社という後ろ盾を失ったあの男が、これからどんな地獄を見るか……想像するだけで、ぞっとするくらい公平な結末ね」
咲叔母さんも、腕を組んでフンと鼻を鳴らした。
「ざまあみろってんだ! 姉さんを裏切っておきながら、長年、偉そうな顔して家族に威張ってたツケが、一気に回ってきただけさ。あんな奴、社会のゴミ溜めにでも放り込まれておけばいいのよ。桐乃さんって弁護士、いい仕事するじゃないか。今度ご馳走してやらなきゃね!」
叔母の豪快な笑い声に、俺の胸のつかえがスッと軽くなっていくのが分かった。
かつては俺を家から追い出した父親という恐怖の象徴は、俺を護るために立ち上がった家族たちの手によって、完全に社会的生命を断たれたのだ。もう、あの男に怯える必要はどこにもない。
「……みんなのおかげだよ。俺一人じゃ、絶対にこんな風にやり返すことなんてできなかった」
俺が感謝を込めて頭を下げると、母さんはふっと柔らかい微笑みを浮かべ、俺の頭を優しく撫でた。
「なに言ってるの、空。あなたが諦めずに、私たちのところに来てくれたからよ。それにね、あなたの戦いは学校や社会だけじゃないのよ。ネット上でも、すごいことが起きているじゃない」
「え……ネットで?」
俺が首をかしげると、母さんは「まだ気づいてなかったの?」とタブレット端末を私の方へとスライドさせた。
そこに映し出されていたのは、俺がイラストレーター『シエル』として活動しているSNSのアカウントページだった。
驚いたことに、フォロワー数は数日前から爆発的に跳ね上がり、最新のイラスト投稿には何万件ものいいねと、国内外からの熱烈なコメントが殺到していた。
「見てみなさいよ、空! あんたの描くイラストのクオリティが元々ずば抜けてるってのもあるけど、今回の件で世間の注目が一気に集まってさ。『無実の天才イラストレーターを陥れた悪党どもを許すな』っていう世論の応援もあって、シエルの知名度は今やうなぎ登りよ!」
咲叔母さんが画面を指差しながら、自分のことのように誇らしげに胸を張った。
これは後から爽花さんに聞いた話だが、爽花さんは、藤嶺たちが空を陥れるために使った悪質な自作自演や、裏工作のチャットログをハッキングによって入手し、ネットの海にばらまいた。
その際、単にいじめの証拠としてだけでなく、ターゲットにされた被害者である空が、どれほど才能ある少年かという背景や、無実であることを裏付けるための周辺情報がネット上で注目を集めることになった。
また、俺がイラストレーター『シエル』として活動していたアカウントは元々ネット上に存在していたが、今回の事件がネットの表舞台で大々的に話題になったことで、探偵気取りのネット民や特定班が俺の過去やプライベートを徹底的に調べ上げた。
その結果、被害者である俺の趣味や過去の描き下ろし、署名などが、人気イラストレーター『シエル』のそれと完全に一致していることが特定され、瞬く間に拡散された。
そうして、学校で理不尽な冤罪を着せられ、教師や父親からも見捨てられた可哀想な少年という同情と、実は裏で絶大な人気を誇る天才イラストレーター『シエル』だったというドラマチックな事実が結びついたことで、ネット民の間でお祭り騒ぎのような熱狂が巻き起こり、一気に『空=シエル』の噂が既成事実として知れ渡ることになった──という経緯らしい。
「さすが我が甥っ子だねぇ! どんなに逆境に立たされても、自分の才能と腕一本でこうやって這い上がってくるんだから、大したもんだよ。あんなクソみたいな学校や家族の呪縛なんて、今の空を輝かせるための踏み台にすぎなかったってわけさ」
画面に並ぶ温かいコメントの数々を見つめていると、胸の奥が熱いもので満たされていくのを感じた。
学校ではいわれのない中傷を受け、孤立させられていた俺だが、この広いネットの世界では、自分の生み出す作品と表現を純粋に愛し、支えてくれる人たちがこんなにもたくさんいる。
俺の居場所はここにあるのだと、強く実感させられた。
「フォロワーが増えただけじゃないわよ、空」
母さんはタブレットを自分の手元に戻し、机の端に置かれていた一冊のノートパソコンと、そこに書き溜められた膨大なプロットの束に視線を落とした。
「これまでに得られたすべてのデータ、爽花さんの技術、桐乃さんの法律知識、そして私たちが勝ち取ってきたすべてのピースを元にして、この物語を完璧な『完結』まで持っていくわ。あんな連中には、私たちの人生を踏みにじった代償を、文字通り社会の隅々まで思い知らせてやるのよ」
リビングの外では、夏空の太陽が眩しく光り輝いている。
父という障害は消え去り、ネット上ではクリエイターとしての未来が開け、そして母さんの手によって俺たちの戦いが新たな物語として紡ぎ出されようとしている。
赤羽架純、藤嶺徹、吉岡美誓──警察の捜査網とネットの暴露に怯え、自分たちの悪事が暴かれる恐怖に震えているであろうあの愚か者たちにとって、俺たちがこれから始める戦いこそが、本当の恐怖の始まりなのだ。
「さあ、夏休みはまだ始まったばかりよ。空、美味しいケーキでも食べながら、これからの反撃の仕上げについて作戦会議をしましょうか」
母さんの優しい声に促され、俺たちはリビングのテーブルを囲んで、穏やかで、確かな勝利の予感に満ちた午後を過ごし始めた。




