第25話 白き法服の冷徹な宣告、鳴り響く復讐の交響曲
Side:逢沢桐乃
七月も半ばになり、アスファルトから立ち上る熱気が街全体を気だるく包み込むような、真夏の季節となっていた。
都内にある静寂に包まれた高級法律事務所の一室。
磨き上げられたマホガニーの大型デスクの上には、分厚いファイルやタブレット端末、そして数々の法的文書が整然と並べられている。
私はその中央に背筋をピンと伸ばして座り、手元に置かれた一枚の書類に鋭い視線を走らせていた。
そこには、私が綿密に積み上げてきた『復讐のプログラム』の最終成果が記されていた。
「……見事なものね」
小さく独りごちると、グラスに注がれたミネラルウォーターを一口含んだ。喉を通る冷たい水が、私の脳内の思考をさらに鋭く、研ぎ澄まされた状態へと引き上げていく。
弁護士という職業柄、私はこれまで数々の人間の裏切りや、社会的な失墜の瞬間を目撃してきた。
法律という名の剣を振るい、理不尽に踏みにじられた者を護るのが私の役割である。
けれど、今回のターゲット──血の繋がりがあるというだけで、実の息子である空君をゴミのように扱い、自分の保身のために冷酷に切り捨てたあの男に対しては、法的な正義だけでなく、私個人の徹底的なまでの怒りを乗せる必要があった。
あの男にとって、人生のすべては『会社での地位』と『世間に対する体面』だった。
高級住宅街にそびえる一軒家、大手企業の管理職という肩書、周囲からの羨望のまなざし。
それらすべてが、あの男の矮小なプライドを支える支柱だった。
ならば、その支柱を一本残らず、根元からへし折ってやることが、我が家へと迎え入れた大切な家族である空君の尊厳を取り戻すための、最も残酷な制裁となる。
数日前に私が送りつけた『社員の重大な法令違反(保護責任者遺棄・児童虐待の疑いおよび反社会的・不道徳な家族放棄)に関する通知書』。
内容証明郵便という形で大手企業のコンプライアンス窓口に直撃したその告発状は、予想通りの、いや、予想を遥かに超える猛烈な爆発力を発揮して、あの男の人生を内側から破壊し始めていた。
近年の厳格なコンプライアンス規定において、大企業が最も恐れるのは『不祥事の隠蔽』と『反社会的・モラルに反する行為を行う社員の存在』だ。
企業ブランドの失墜を恐れる現代の経営陣にとって、未実の子どもをネグレクトして家から追い出し、現在進行形で刑事告発や民事訴訟の係争中である管理職の存在など、毒薬以外の何物でもない。
「……そろそろ、本社で例の『聴聞会』が始まっている頃ね」
私は時計の文字盤に目をやりながら、ふっと冷ややかな笑みを浮かべた。
男はきっと、寝耳に水だったに違いない。
会社から突然呼び出され、人事部長やコンプライアンス委員会の面々が待ち受ける重苦しい会議室に通された瞬間、彼は自分がどれほど絶望的な状況に立たされているのか、ようやく理解したはずだ。
想像するだけでも、その滑稽な姿が目に浮かぶようだった。
§
私──遠阪正弘が立たされていたのは、まさに地獄の釜の底のような空間だった。
「──遠阪君、これはいったいどういうことだね?」
本社の最上階にある重厚な役員会議室。
長方形の大きなテーブルの向こう側で、人事部長とコンプライアンス委員会の責任者が、氷のように冷たい眼差しを向けていた。
部屋の中には、窓の外の澄みきった青空とは対照的に、息が詰まるほどの重苦しい沈黙と殺伐とした空気が充満していた。
俺は額に嫌な汗をにじませ、青ざめた顔でその場に立ち尽くしていた。
「い、いや……これは何かの間違いです! 告発状なんて、私の社会的信用を失墜させるための悪質な嫌がらせで……私には身に覚えが――!」
「身に覚えがない、だと?」
人事部長は冷ややかに鼻を鳴らすと、手元にあった分厚いファイルをバサリと机の上に放り投げた。
その表紙には、あの逢沢桐乃という弁護士が作成し、会社側に提出した物証の数々が挟み込まれていた。
「君ね、我が社がどれだけコンプライアンスの遵守を掲げているか、分かっていないわけではないだろう。SNSやネット上でも、君の家庭環境や、実の息子である空君に対する虐待・遺棄の疑惑が取り沙汰されている。その極めつけとして、弁護士名を記した正式な通知書と、客観的な証拠の数々が我が社の窓口に届いたんだ。これを『個人のプライベートな問題だから関係ない』で済ませられるとでも本気で思っていたのかね?」
「そ、それは……! 息子の方に問題があって、あいつが勝手に家を飛び出しただけであって、私は何も……!」
必死に言い訳を重ねようとする俺の声は、恐怖と動揺でひどく裏返っていた。
しかし、その程度の弁解が通用するほど、現代の企業社会は甘くはない。
あの弁護士は、俺が逃げ道をすべて失うように、完璧すぎるほどの包囲網をそのファイルに仕込んでいたのだ。
「……これを聞き給え」
人事部長がタブレット端末の再生ボタンを軽くタップした。
途端に、会議室の静寂の中に、俺の声がスピーカーを通じてクリアに響き渡った。
『 いいか、選択肢は二つだ。今すぐ家に戻って、弁護士との契約を破棄し、世間に頭を下げて謝罪するか。それとも、このまま完全に親子の縁を切って、一文無しで路頭に迷うか。どっちにするんだ、選べ!』
それは、かつて自分が空に対して浴びせた、紛うことなき生の暴言だった。
その音声が流れた瞬間、会議室の空気が一段と冷え込んだ。コンプライアンス委員会のメンバーたちが、虫けらを見るような冷ややかな目で俺を見据える。
「……これが、君の言う『身に覚えがない』の答えかね、遠阪君」
人事部長の声には、怒りを通り越して、もはや軽蔑の色しか残っていなかった。
「実の子どもをネグレクトし、社会的窮地に追い込んだ挙句、会社にまでその不祥事を飛び火させた。我が社が最も忌み嫌う『企業のブランド価値を著しく失墜させる背信行為』に他ならない。君の弁明は、一切聞き入れられないものとする」
その宣告を聞いた瞬間、俺の膝からガクリと力が抜けた。
俺はすがるような目で周囲を見回したが、誰一人として救いの手を差し伸べる者などいなかった。長年、自分が積み上げてきたと自負していた社内での地位、同僚からの信頼、そして誇り高いエリートとしてのプライド──そのすべてが、たった一つの音声データと、あの弁護士が紡ぎ出した法的証拠の前に、音を立てて崩れ去っていった。
「よって、会社側としての処分を下す。遠阪正弘、君を本日付で『懲戒解雇』とする。退職金についても、就業規則の重大な違反条項に基づき、全額不支給とする」
その一言は、俺にとって社会的な死刑宣告に等しかった。
「そ、そんな……! 待ってくれ、私にはローンが……ここで首を切られたら、私はどうやって生きていけば……!」
俺は床に崩れ落ちるようにして取り乱し、すがるような醜態を晒したが、人事部長は冷たく一瞥しただけで、警備員を呼ぶために内線を手に取った。
「荷物をまとめて、すぐにビルから立ち去り給え。これ以上、我が社の名誉を汚さないでいただきたい」
§
Side:逢沢桐乃
数時間後。
私は東京の夜景を一望できる事務所の窓辺に立ち、グラスのワインを傾けながら、手元のスマホに届いた一通の報告メールに目を落としていた。
そこには、簡潔かつ明確な文字でこう記されていた。
『遠阪正弘に対する懲戒解雇処分が正式に下され、即日解任されました。本人は管理職から一転無職となり、現在は自宅で頭を抱えている状態です』
「……ふっ、当然の結果ね」
私は小さく呟くと、夜空に浮かぶ月にグラスを軽く掲げた。
会社を懲戒解雇された男に待っているのは、地獄のような現実だ。
大手企業の管理職という看板を失った男には、もはや何の価値もない。それどころか、『実の子どもを虐待・遺棄し、社内不祥事を起こしてクビになった男』という悪評は、瞬く間に業界全体、そして彼の住む地域社会や親戚縁者にまで波及することになるだろう。
近所の人々は冷ややかな目を向け、かつての友人や知人たちは蜘蛛の子を散らすように彼のもとを去っていく。親戚たちも、一族の恥として彼を完全に絶縁対象に指定するはずだ。
あれほど傲慢に、自分の体面とプライドにしがみつき、無力な少年を踏みにじってきた男が今、すべてを剥奪され、誰からも見向きもされない孤独の底に叩き落されたのだ。
悪事を働いた人間には、必ずそれ相応の報いが訪れる。法と知略をもってすれば、どんなに厚い仮面をかぶった悪党であっても、社会的な断頭台に引きずり出すことは難しくない。
「……これで、一つ目の歯車が完璧に噛み合ったわね」
私は窓ガラスに映る自分の冷静な横顔を見つめながら、静かに息をついた。
学校の裏で私利私欲のために空君を陥れようとしているあの愚かな高校生たち──赤羽架純、藤嶺徹、吉岡美誓。
彼らもまた、一つずつ、私たちの仕掛けた緻密な罠によって崩壊し始めている。
彼らはまだ、自分たちの足元がどれほど脆い砂上の楼閣であるかを知らない。
警察の捜査網が狭まり、ネット上の暴露がさらなる真実を暴き出し、そして後ろ盾を失った彼らが追い詰められていくその瞬間は、もうすぐそこまで迫っていた。
「……さあ、次は学校側の連中を徹底的に追い詰める番よ。覚悟しておきなさい、愛すべき空君を傷つけたすべての愚か者たち」
私は冷ややかな笑みを浮かべたまま、静かに部屋の明かりを落とした。
奏でられる復讐と正義の交響曲は、さらに残酷なまでに美しく鳴り響いていくだろう。




