第23話 優雅なる欺瞞
Side:吉岡美誓
ネットでは空の実名が晒され、世間から泥を被せられているというのに、私の胸のうちは完全な平穏には至っていなかった。
それというのも、藤嶺たちがSNSで密かに行っていたやりとりが、何者かによってリークされていたためだ。
あの男、あれだけ大口を叩いておきながらとんだ失態を演じてくれた。
けれど、今は藤嶺を問い詰めている場合じゃない。
警察の影が、すぐそこまで忍び寄っている。
その予感は的中した。
生徒指導室での任意の事情聴取という名の呼び出し。
美術部の部長として、そして学年の模範生として、私が築き上げてきた完璧なブランドに泥を塗るような真似など、絶対に許されるはずがない。
だからこそ、私はその時のために緻密な計算と周到なアリバイの網を張り巡らせていた。
やがて、教師に連れられて向かった生徒指導室前で、私はきっちりと着崩したところのない制服の襟元を正すと、優雅で乱れのない足取りでその扉を叩いた。
「失礼します」
室内には、冷たい蛍光灯の光が白々と照りつけていた。
中央に置かれたパイプ椅子の脇には、刑事らしき男が静かに座っていた。無愛想で、人間の感情の機微など一切通じなそうなその目は、まるで獲物を品定めする猛禽類のようだった。
けれど、そんなものに気圧される私ではない。
私は微塵も動揺の色を見せず、むしろ凛とした美しさを纏った笑みを貼り付けたまま、促される前に上品に腰を下ろした。
「吉岡美誓さんだね。私は捜査一課の篠塚だ。時間をとらせて、すまない」
彼──篠塚は低い、抑揚のない声でそう切り出した。
「早速だが、六月X日の午後五時頃、君がどこで何をしていていたかについて、いくつか確認させて欲しい」
私は内心で小さく鼻を鳴らした。やはり、あの時間帯のアリバイを突いていくつもりらしい。
けれど、そこは想定の範囲内だ。私は一呼吸置き、あらかじめ用意していた完璧な台詞を滑らかに紡ぎ出した。
「はい。あの日のその時間帯でしたら、私は校舎裏のほうで、一人で絵を描いていました」
「一人で、か」
篠塚はペンを止めず、淡々とメモを取りながら聞き返す。
「ええ、そうです。部活の合間に、ちょっとしたスケッチをしようと思って外に出ていたんです。……あ、もしかして、織野さんが何か変なことでも言っていましたか?」
私があえて自分からその名を出すと、篠塚はわずかに眉を動かした。
「織野泉さんは、君と遠阪君がその時間帯に一緒に中庭で絵を描いているのを見た、と証言しているがね」
その言葉を待っていたと言わんばかりに、私はフッと優雅に息をつき、呆れを含んだ笑みを浮かべてみせた。
「やっぱり……あの子、そんな嘘をついていたんですね」
私の声には、不快感ではなく、後輩を諭すような余裕の色を滲ませておいた。
「泉さんが空君をとても慕っていたのは、美術部の中でも有名な話でした。あの子は純粋というか、少し思い込みが激しいところがあって……きっと、空君があんな事件を起こして窮地に立たされているのを知って、彼を庇うために必死で嘘の証言をしているんだと思います。私と空君が一緒にいたなんて、そんな事実はありません。私は、ずっと一人でいましたから」
完璧な論理だった。後輩の盲目的な庇護欲という心理を盾に取れば、泉の証言など単なる身びいきの妄言に格下げすることができる。
篠塚は私のその淀みのない説明を聞き届け、静かにうなずいた。
「……なるほど。では、君が一人でいたという点を裏付ける証拠や、誰かに見られたというような記憶はあるか?」
ここが勝負の分かれ目だった。
だけど私の計算に狂いはない。
私はあらかじめ買収し、完全に懐柔しておいた美術部員──池内早苗の名前を、絶妙なタイミングで繰り出した。
「その証拠に、美術部員の池内さんは、私が一人でいるところを目撃してくれているはずです。あの日、まさにその場所で、私は池内さんと直接言葉を交わしましたから」
私のその言葉に、篠塚のペンの動きがピタリと止まった。
彼は鋭い眼光を私に向け、さらに踏み込んだ質問を投げかけてくる。
「ほう……池内さんと会話をしていた、と? ちなみに、一体どんな内容の会話だったのかね?」
ここで万が一、池内との証言に小さな齟齬や食い違いでもあれば、私の築き上げたアリバイ城は一瞬で崩壊するだろう。
でも、私は心の底で冷笑していた。抜かりなど、あるわけがない。
早苗のような承認欲求の塊で、自分の利益のためなら簡単に靡く人間を懐柔することは、私にとって赤子の手をひねるようなものだった。 コンクールの出品枠、そして次期部長の推薦という、彼女が喉から手が出るほど欲しい餌をちらつかせておき、私たちが話した内容に至るまで、記憶は完全に一致するように仕込んである。
「確か……次のコンクールについての相談だったと思います」
私は自信に満ちた、淀みのないトーンで答えた。
「池内さんはとても有望な部員なので、日頃の頑張りを評価して、次のコンクール枠に私が強く推薦してあげると、そんな話をあの日、校舎裏でしたはずです。彼女なら、私の言うことをちゃんと覚えているはずですよ」
私のその詳細で具体的な証言を聞き、篠塚はしばらくの間、じっと私の顔を見つめていた。
その沈黙の重さに、ほんの一瞬だけ心臓が跳ね上がりそうになったけれど、私は表情筋一つ動かさず、優美な微笑みを崩さなかった。
しばらくの沈黙の後、篠塚は小さく息をつき、淡々と手元のメモ帳にペンを走らせた。
「……そうか」
それ以上、彼は深く突っ込んで追撃してくることはなかった。
部屋の空気がわずかに緩んだのを肌で感じ取り、私は勝利を確信した。
「任意の事情聴取は、これで終わりだ。協力ありがとう」
篠塚のその言葉を聞いた瞬間、私は心の中で歓声を上げかけた。
椅子から立ち上がった私は、乱れのない身のこなしでペコリと上品に一礼し、「失礼します」と告げて、その重苦しい生徒指導室を後にした。
私は胸の中で深く、そして長いため息をつきながら、口の端をクッと歪ませて小さく笑った。
ふん。刑事のくせに、私の完璧なアリバイの前にすっかり手詰まりじゃない。
廊下の窓ガラスに映る自分の姿を横目に、私は誇らしげな思考を巡らせた。
池内との口裏合わせは完璧だった。あの子は私に頭が上がらないし、コンクールというエサを与えている限り、裏切るなんて選択肢は彼女の中に存在しない。
一方で、泉のくだらない証言なんて、私と部員の証言というダブルの裏付けの前には、ただの情動的な嘘として完全に一蹴される。
警察が私に対して抱いている疑念なんて、この鉄壁の論理の前では何の効力もないのだ。
やっぱり、世の中を動かすのはいつだって、感情に流される愚か者たちの足掻きではなく、頭のいい人間の冷徹な計算なのだ。
私は自分の巧妙な工作がすべてを欺き、警察をも手玉にとったと確信し、再び全能感のなかに深く浸り込んでいった。




