第21話 硝子の城の防壁
Side:赤羽架純
夏の日差しがアスファルトの表面を融かすようにぐにゃりと歪む、そんな気だるくも切迫したような午後のことだった。
私──赤羽架純は、歴史の授業の最中、教室内でカチコチと響く時計の針の音を聞きながら、どこか上の空でノートにペンを走らせていた。
周囲の生徒たちは何事もないように黒板の文字を書き写しているけれど、私の胸のうちはここ最近の張り詰めた緊張感でずっと波立っていた。
空という存在はネット上でも実名を晒され、最低最悪の犯罪者として徹底的に糾弾されている。すべては、あの時藤嶺と密かに立てた計画通りに進んでいるはずだった。
それなのに、ここにきて、私や藤嶺、そして数人の彼の取り巻きたちが秘密裏に使っていたSNSのチャットルーム。そこで交わされていたはずの生々しいメッセージの数々が、何者かによってリークされ、いまや世間のレイプ未遂事件を巡る一大トピックとしてネット上で大々的に晒し上げられていたのだ。
今のところ、生成AIや画像加工技術によるチャット画面の捏造を疑われて、英雄視されている藤嶺や被害者とされる私を中傷するためのアンチの陰謀だろうといった、擁護と懐疑の意見が強く、私が周りから白い目で見られるなんてことにはなっていない。
それでも、一部では私たちが冤罪を仕組んだのではという見方があるのも確かだ。
いつ世論がひっくり返ることにかもわからない。
そんな危惧を抱いている時だった。
ガラリ、と教室の引き戸が乱暴に開け放たれた。
「──赤羽架純。ちょっと、生徒指導室に来なさい」
そこに立っていたのは、生徒指導担当の教師だった。その表情はいつにも増して険しく、冷ややかな声音は教室中の視線を一斉に私へと集めるには十分すぎた。
クラスメイトたちが「えっ、赤羽さんが……?」とざわめき始める。
私は突然の呼び出しに心臓が跳ね上がり、生唾を飲み込んだ。
「……はい」
震える足取りで椅子から立ち上がり、私は教師の後に従って教室を後にした。
歩きながら、頭の中で必死に言い訳を組み立てる。
大丈夫、私は被害者なんだ。藤嶺と合わせたストーリー通りに話せば、誰も疑うはずがない。
そう自分に言い聞かせなければ、足がすくんでしまいそうだった。
やがて到着した生徒指導室の重々しい木の扉が、静かに開かれる。
その中に足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。
室内の空気は、外部の喧騒が嘘のように凍りついていた。
部屋の中央に置かれたパイプ椅子の脇には、不機嫌そうに眉間を深く寄せ、腕組みをして立っている父親・赤羽誠吾の姿があった。
その傍らには、赤羽家の法務を一手に引き受ける会社の顧問弁護士・柊木が、鋭く冷徹な目を光らせて控えている。
そして、その対面には、一目でそれと分かる刑事らしき男が、静かに腰掛けていた。
「……お父様、それに、弁護士の先生も……どうして……?」
私の掠れた声に、父親の誠吾は冷ややかな、責めるような視線を投げつけてきた。
「架純、お前、いったいどういうことだ。警察から突然、学校に連絡が入ったぞ。お前が遠阪空という生徒からレイプされそうになった件で、詳しく事情を聞きたいだと。一体どういう面倒事を起こしてくれたんだ!」
お父様の威圧的な声に、私はビクリと肩を震わせた。
お父様にとって私は自慢の娘であるはずだけれど、同時に赤羽家の家名や会社に泥を塗るような不祥事に対しては、容赦なく冷酷な態度をとる人間だった。
その父をこんな場所に呼び出させてしまったという事実だけで、私の恐怖心は一気に跳ね上がった。
「社長、落ち着いてください。お嬢様はあくまで被害者としてここに呼ばれているのです。私たちがついていますから、落ち着いて事実を話せばいいのです」
隣に立った顧問弁護士の柊木が、低く落ち着いた声でお父様をなだめつつ、私に安心させるような視線を送った。そのプロフェッショナルな物腰に、私はかろうじて精神の均衡を保つことができた。
「赤羽架純さんだね。私は生活安全課の篠塚だ。座ってくれ」
篠塚と名乗ったその刑事は、私をじっと観察するように見据えながら、パイプ椅子を指し示した。
私は促されるまま、ガタガタと鳴る椅子に腰を下ろした。
生徒指導室という慣れない閉ざされた空間、向かいに座る冷徹な警察官、不機嫌に眉をひそめる父、そして背後で威圧感を放つ弁護士。
その圧倒的なプレッシャーの渦中で、私はあらかじめ藤嶺と口裏を合わせていたシナリオを脳内で必死に反芻した。
「君は、クラスメイトの遠阪空君にレイプされそうになったと証言したそうだが……その経緯を、最初から詳しく聞かせてもらえないか」
篠塚の静かではあるが逃げ場のない問いかけに、私の心臓は激しく脈打った。
私は両手を膝の上で固く握り締め、震える声を絞り出すようにして口を開いた。
「……六月X日の午後五時頃……です」
「ほう、午後五時頃に……どこで?」
「視聴覚室……に、空君に強引に連れ込まれて……そこで、レイプされそうになって……」
語りながら、あの日に受けた恐怖の演技が頭をよぎる。
もっとも、実際にはそんなことは一切起きていない。すべては、藤嶺と一緒につくり上げた虚構の物語だ。
それでも、私は声を詰まらせながら、用意していた嘘を紡ぎ続けた。
「……怖くて、必死で抵抗したんですけど、力では敵わなくて……。そしたら、そこに偶然、藤嶺徹君が来てくれて、大きな声を出してくれたんです……。それで、空君は怖くなったらしく、慌てて逃げて行ったんです……!」
一息にそこまで話し終えると、私は荒くなった息を整えながら、刑事の表情を盗み見た。
篠塚は感情を一切表に出さず、淡々と手元のメモ帳にペンを走らせていた。
「なるほど……。午後五時頃に視聴覚室で、空君に強引に連れ込まれ、レイプされそうになったところを藤嶺君に助けられたと。……ちなみに、その重大な出来事について、君は誰に最初に明かしたんだ?」
その質問に、私は少しだけ躊躇したが、藤嶺と事前に確認し合っていた流れ通りに答えた。
「……その、翌日の昼休みに……まずは、クラスのグループLINEで、みんなに伝えました。……その後、徹君と一緒に、空君本人の前でも、クラスのみんなの前で……改めてそのことを伝えました」
私の答えを聞き終えると、篠塚は一度ペンを止め、私をまっすぐに見据えた。
「なるほど。翌日の昼休みにクラスのLINEでそれを伝え、皆の前で告発したと。……分かった。証言はしっかりと記録しておく」
その言葉の裏に、何か別の意図が隠されているのではないか。
そう感じて私の背中に冷たい汗が流れた瞬間、それを遮るように、隣に控えていた顧問弁護士の柊木が厳しいトーンで割って入った。
「刑事さん、そこまでにしておいてください。お嬢さんはこれ以上の精神的負担に耐えられません。被害者である未成年に対して、これ以上の威圧的な聴取は控えていただきたい。彼女は十分に協力したはずだ。必要な証言はすでに得られたでしょう」
柊木の鋭い指摘に、篠塚は眉を微かにひそめたが、それ以上追撃することはなかった。
さらに、お父様も不機嫌さを隠そうともせず、声を荒げた。
「そうだ! いつまでもうちの娘を犯人扱いするような真似はやめてもらおうか! うちはな、被害者なんだぞ! これ以上無駄な詮索をするなら、こちらも弁護士を通じて厳重に抗議させてもらう!」
父親の威圧的な態度と弁護士の盾があるおかげで、警察側もこれ以上の踏み込みが難しくなったらしかった。
篠塚は静かに息をつくと、メモ帳を閉じ、椅子から立ち上がった。
「……確認のための任意の聴取なので、今日はこれで結構。協力ありがとう」
その一言を聞いた瞬間、私の胸の内で張り詰めていた糸がプツリと音を立てて切れた。
終わった……。乗り切ったんだ……!
警察官が部屋を去り、生徒指導室のドアが閉まる。
父親と弁護士に促されるまま、私は足元がおぼつかない状態でその部屋を後にした。
校舎の薄暗い廊下を、父の重い足音に続くようにして歩きながら、私は胸の中で大きく、そして深く安堵のため息をついていた。
なんとか……乗り切れた……っ!
警察からの鋭い追及や、ボロを出させるような意地悪な質問は特にされなかった。
父は私を被害者として怒り、弁護士の先生は私を完璧に守ってくれた。
その現実を肌で感じた瞬間、私の脳内では一つの確信へと変わっていった。
私の嘘は、完璧に通用した。あの日の出来事は、誰も疑っていないんだ。
警察でさえ私の言葉をそのまま記録し、疑う素振りすらなかった。ということは、世間も、学校も、そしてあの忌々しい空の周囲にいる人間たちも、誰も私の嘘を見抜くことなどできないのだ。
胸のつかえがスッと消えていくような感覚と共に、私の心の底からふつふつと湧き上がってきたのは、恐怖ではなく、優越感だった。
見たか……空、お前の周りがいくら足掻いたところで、私と藤嶺の作り上げたこの現実の前には、お前なんてただの犯罪者でしかないんだから……!
廊下の窓から差し込む西日は、どこか冷たく、私の勝利の笑みを薄く照らし出していた。




