第19話 暴かれた密室の契約、ネットの炎上
Side:吉岡美誓
深い夜の闇が街並みを包み込む頃、その一室では、重たく熱い空気が漂っていた。
ベッドの乱れたシーツの上で、私は裸の体を一枚の白いシーツだけで包み、ぼんやりと天井を見上げていた。
隣では、藤嶺徹が満足げな笑みを浮かべながら、煙草に火をつけようとしている。その生々しい肌の温もりと、部屋に立ち込める微かな甘い香水と煙草の匂いが、今の私の置かれた状況の歪さを嫌でも物語っている。
「ふう……最高でしたよ、吉岡先輩。今まで抱いたどの女よりも、ずっとよかった」
徹は吐き出した煙を天井へ逃がしながら、ねっとりとした視線を私に絡ませてきた。その声には、男としての優越感と、私という学年一の美貌を持つ女を手に入れたという歪んだ征服欲がこれでもかと滲み出している。
私は冷めた目で彼を一瞥し、鼻で小さく笑った。
「……当然でしょ。私は、最上級に位置する本物の女なんだから。特別なの。有象無象とは違う」
徹はその言葉に、ニヤニヤと下卑た笑いを深めるだけだった。彼にとって、私のこの自尊心の高さすらもスパイスの一つなのだろう。
けれど、今の私にとって、男を満足させることなどどうでもいい二の次の問題だった。頭の中を占めているのは、空の馬鹿げたアリバイ工作と、それを暴こうとする新聞部の小娘──逢沢凛の存在だった。
「それより、徹君」
私はシーツを体に引き寄せながら、ベッドの縁に腰掛けている彼の背中に真剣な声を投げかけた。
「池内には、私があの時間帯に一人で校舎裏にいたという証言をするよう約束させたわ。あの子は私の言うことなら何でも聞くから、表向きのアリバイ工作としては機能するはずよ。でも、まだ完璧じゃないわ。もし警察が本格的に介入してくるようなことにでもなれば、あんな嘘の証言なんてすぐにボロが出る。疑われる余地なんて、絶対に一ミリも残しておきたくないの」
「ふーん、池内をチョロい女みたいに懐柔したんだ。さすがだな、先輩は」
「当たり前でしょ。私たちの空を排除した完全な計画が、あんなちっぽけな証言やガキどもの調査ごときで崩されるわけにはいかないのよ。より確実な、私たちの『絶対的な安全』を確保しなきゃ意味がないわ」
私の言葉に、徹は煙草を灰皿に押し付けると、不敵な笑みを浮かべながらスマホを手に取った。
「それなら、ネットの力を借りましょうよ。一番手っ取り早くて、逆らえない方法がありますよ」
「ネットの力……?」
「ええ。空があのレイプ未遂事件を起こした最低なクズ野郎だってことを、裏社会にも太いパイプを持っている有名な『暴露系の配信者』にリークするんです。しかも、匿名じゃなくて、あえて『実名』で徹底的に公表させる」
徹の提案に、私はわずかに眉をひそめた。
「実名で……? そんなことをして、学校や警察にバレたりしないわけ?」
「大丈夫です。俺のほうで裏のルートを使って、情報提供者が特定されないようにうまく話を通しておきますよ。一度、ネットの世論に『こいつは加害者の犯罪者だ』と信じ込ませてしまえば、世間の目は一気にそっちに傾く。そうなれば、後からどんな証言や言い訳が出てきても、ネットの圧倒的な暴力の前には全部『犯人の足掻き』として無視されるようになるんですよ。世論を味方に、いや、世論を『凶器』にして、あいつを完全に社会的に抹殺するんです」
その狡猾すぎるアイデアを聞いた瞬間、私の背筋にはぞっとするような冷たさと同時に、奇妙な納得感が広がっていった。
そうだわ……。いくら真実がどうこうと言ったところで、今の世の中、ネットで「こいつは犯罪者だ」とレッテルを貼られた人間の言葉に耳を貸す人間なんて誰もいない。大衆は、面白おかしく叩ける対象を求めているだけなのだから。
「……いいわね、それ。すごく魅力的だわ。そうしてくれる、徹君?」
「はい。その代わり……と言ってはなんですが、先輩」
徹は下卑た笑みを浮かべながら、私の方へと這い寄ってきた。そのギラギラした欲望の色を宿した瞳が、私の裸体にまとわりつく。
「先輩、その魅力的な胸と……口を使って、今夜はもっと俺を満足させてくださいよ。それだけの仕事は、完璧にこなして見せますから」
虫唾が走るような、悍ましい要求だった。
一瞬、彼のその下品な顔面を引っ叩いてやりたいという強烈な衝動が胸をもたげた。
だけど、私はぐっと奥歯を噛み締め、その吐き気を催すような屈辱感を飲み込んだ。
私は作り物の誘うような笑みを浮かべ、その男の要求を受け入れるために、再びシーツをゆっくりと脱ぎ捨てた。
心地悪い苦みを口で味わわされたが、これで自分の完璧な立場が守られ、あの忌々しい空が地獄の苦しみを味わうのなら、こんなこと些細な犠牲にすぎない。
§
その日の夜。
タワーマンションの広々としたリビングルームでは、暖かな照明の下で、いつものように俺は四姉妹と食卓を囲んでいた。
食後の穏やかな珈琲の香りが漂う中、今日の調査結果を持ち寄った凛ちゃんが、少し険しい顔をしてタブレットの画面を覗き込む。
「ねえ、皆……今日、美術部の生徒たちに聞き込みをして回ったんだけど、ちょっと引っかかることが分かったの」
凛ちゃんのその一言に、リビングの空気がピリッと引き締まった。
俺はカップをソーサーに置き、真剣な眼差しで彼女に向き直る。
「どうしたの、凛ちゃん。何か新しいことが分かったのか?」
「うん。お兄ちゃんの無実を証明するために、あの時間帯に中庭にいたって証言してくれた織野先輩の言葉の裏を取るために、他の美術部員にも話を聞いてみたのね。そしたら、美術部員の『池内早苗』っていう先輩から、すごく不自然な証言が出てきたの」
「池内……?」
「そう。その先輩は、あの事件があった日の夕方五時頃、吉岡先輩が校舎裏で『一人で』いたのを目撃したって主張しているの。つまり、吉岡先輩のアリバイを完璧に裏付ける証言を、その先輩がしているんだよ」
「ちょっと待ってよ」
ソファの背もたれにゆったりと体を預けていた爽花さんが、不快そうに割って入ってきた。
「吉岡美誓が一人でいたって? 泉ちゃんは『吉岡と空が一緒に絵を描いていた』って言ってるのに、なんでそんな真っ赤な嘘の証言をする部員が出てくるわけ?」
「私の勘だけど……」
凛ちゃんは悔しそうに拳をぎゅっと握りしめた。
「絶対に、吉岡先輩がその池内って子に『私のアリバイを証言してくれたら、次の部長にしてあげる』とか何とか言って、買収したんだと思うの! でなきゃ、あんなピンポイントで都合のいい嘘の証言なんて出てこないもん!」
「なるほどねぇ……。保身のために買収工作まで仕掛けているってわけ。いよいよ追い詰められて、必死の悪あがきってところね」
桐乃さんが腕を組み、冷ややかな美声を響かせる。
「くそっ……あいつ、どこまで俺を貶めれば気が済むんだ……」
俺は悔しさに歯噛みした。
吉岡の裏切りだけでも耐えがたいというのに、周囲の人間を巻き込んでまで自分のアリバイを固め、真実をねじ曲げようとしているそのやり口に、怒りがこみ上げてきていた。
「安心しなよ、空君」
隣に座っていた玲那さんが、そっと俺の手の上に自分の手を重ね、優しく微笑みかけた。
「吉岡がどんなに汚い工作をしようと、泉ちゃんの証言や、焼却炉の燃え残りっていう証拠がある。そんな嘘、すぐにボロが出るよ」
「……ありがとう、玲那さん」
彼女の温もりに触れ、俺は少しだけ荒ぶる心を落ち着かせることができた。
だが、その和やかな空気を切り裂くように、爽花さんが手元のスマホを突然強くタップした。
彼女の顔から、いつもの余裕やふざけた表情が綺麗に消え去り、代わりに鋭い緊張感が走っていた。
「……ねえ、みんな。ちょっと、これを見て」
爽花さんはスマホの画面をクルッと回転させ、リビングのテーブルの中央に置いた。
そこに映し出されていたのは、大手ネットニュースのまとめ記事、そして国内最大級の匿名掲示板のスクリーンショットだった。
見出しには、こう大書されていた。
『【速報】名門・私立高校で起きたレイプ未遂事件、容疑者の少年の実名と顔写真がネットで特定・炎上! 被害女性の悲痛な告発が波紋を呼ぶ』
「なっ……!?」
俺は自分の目を疑った。
スマホの画面には、自分が通う高校の名前、そしてモザイクがかかっているものの、どう見ても自分だと分かる制服姿の写真、さらにはイニシャルなどではなく、完全に『実名』がネットの海に晒されていた。
掲示板のコメント欄は、凄まじい勢いで更新されている。
『うわ、マジでこんなクズが同じ学校にいるとか吐き気がする』
『名前これであってるよな? 遠阪空ってやつ。美術部で調子乗ってたDQNらしいぞ』
『実名晒されたんだから、もう人生詰みだな。社会的になんの弁解もできないだろ、こいつ』
『被害者の女の子が可哀想すぎる。今すぐ少年院にブチ込めよ、こんな犯罪者』
殺意に満ちた誹謗中傷のコメントが、秒単位で何百件、何千件と書き込まれていく。
まるで群がったハイエナが生肉を貪り食うかのように、ネットの悪意が津波となって画面を埋め尽くしていた。
「な……なんで……? どうして俺の名前がこんなところに……っ!」
俺の顔から血の気がサーッと引いていく。
学校の内部でさえ陰口を叩かれるのに耐えかねていたというのに、それが日本中のネットユーザーの目に触れる『実名での炎上』という最悪の形で拡散されてしまっている。
これでは、もう弁解の余地などどこにもない。どこを歩いても、誰とすれ違っても、自分は「あのレイプ未遂の犯罪者」として見られることになるのだ。絶望の冷たい泥が、足元からゆっくりと全身を飲み込んでいくようだった。
「ひどい……! なんでこんな嘘がネットに……!」
凛ちゃんは青ざめた顔でスマホ画面を凝視し、手が震えている。
玲那さんも眉を強くひそめ、「一体誰がこんな悪質なリークを……」と歯をくいしばった。桐乃さんの表情も、これまでにないほど険しく凍りついている。
「暴露系の配信者が、裏で誰かに買収されて一気に情報をばらまいたのよ」
爽花さんは冷ややかに分析しながら、画面をスワイプした。
「おそらく、吉岡美誓や藤嶺の仕業ね。警察や裁判の前に、ネットの世論で私たちをリンチにして、一切の反論ができないように押しつぶそうっていう魂胆よ」
「そんな……じゃあ、俺はもう……どうあがいても終わりってことなのか……?」
俺は頭を抱え、絶望感に押しつぶされそうになりながら呟いた。世論を敵に回してしまったら、どんなに正論を叫んでも、誰も聞いてはくれない。
けれど──。
そんな絶望的な沈黙を破るように、爽花さんはフッと鼻で笑った。
彼女のその不敵な笑みに、リビングにいた全員が視線を向けた。
「なにが『終わり』よ、空君。そんなわけないでしょ」
爽花さんは自信満々な笑みを崩さず、自分のスマホを操作しながら言った
「確かに、向こうはネットの炎上という汚い手を使って、一気に私たちを叩き潰そうとした。でもね、逆に考えてみて。向こうがそこまで派手に動いてくれたおかげで、連中が『どんな手段を使ってでも隠蔽したかった真実』が、いやでもネットの大きな注目を集めることになったんだよ」
「それって……どういうこと?」
「向こうがネットという名の不特定多数の群衆を味方につけたつもりでいるなら、こちらは『真実という名の刃』で、奴らの足元ごとすべてを叩き潰す。炎上上等。注目が集まれば集まるほど、私たちがこれから繰り出す反撃のカウンターパンチが、奴らにとって致命的な一撃になるんだから」
「大丈夫だよ、空君」
玲那さんも立ち上がり、俺の手をしっかりと握りしめてくれた。その手のひらの温もりが、冷えきっていた空の心に再び熱を灯していく。
「私たちは、最初から負ける気なんてないんだから。ね?」
「……皆……」
胸の奥から、熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
一人で暗闇の中を彷徨っていたはずの自分が、気づけばこんなにも頼もしい、最強の家族たちに囲まれている。
ネットの悪意の嵐なんて、この人たちの絆の前ではただのちっぽけな逆風にすぎない。
「よし……!」
俺は顔を上げ、しっかりと力強くうなずいた。
「逃げたりしない。ネットで俺を嵌めようが、実名を晒そうが、やってくれた分だけの代償を、あいつら全員にきっちり払わせてやる……!」
「任せなさい。私のカウンターパンチでやつらをぎゃふんと言わせてあげるから!」




