第18話 明かされる真実、歪んだ共犯関係
Side:織野泉
放課後の柔らかな西日が、校庭の木々に長い影を落とし始めていた。
生徒たちがそれぞれの部活動や帰路へと急ぐ中、中庭の隅に設置された小さなベンチの傍らに、一台の木製イーゼルがぽつんと立てられている。
そこにキャンバスを固定し、私──美術部員の織野泉は懸命に筆を動かしていた。
一時の静けさを求めてこの場所を選んだ。ここ最近の部内は、空に関する黒い噂と陰口で澱みきっており、敏感な私の神経を少しずつすり減らしていたのだ。
優しかったはずの吉岡先輩がなぜあんなにも冷酷に空を切り捨てたのか。
そして、空が本当にそんな卑劣な真似をするような人間ではないことを、泉は心の底から知っていた。
だからこそ、胸の内にくすぶるモヤモヤを振り払うように、一心不乱に絵の具をキャンバスに塗り重ねていた。
「あの、織野先輩、ですよね?」
ふと、背後からかけられたあどけない少女の声に、私は手を止めて振り返った。
そこに立っていたのは、腕章を誇らしげに巻いた中等部のセーラー服を着た小女だった。手帳を片手に持った彼女は、真剣な眼差しで私を見つめている。
「あ、うん……そうだけど。新聞部の子?」
私が戸惑いながら答えると、彼女はこくりとうなずいた。
「はい。突然ごめんなさい。私は中等部二年の逢沢凛です。実は、空お兄ちゃんが着せられた冤罪事件について、新聞部の記事として真相をまとめようと思って調査しているんです。泉先輩が、お兄ちゃんをすごく慕っていたって聞いて……お話を聞かせてもらえないかと思って来ました」
「空先輩のこと……?」
その名前が出た瞬間、私の胸がキュッと締め付けられた。
「六月X日の午後五時頃、空お兄ちゃんがレイプ未遂事件を起こしたと疑われているその時間帯のことです。何か、心当たりはありませんか?」
凛の切実な問いかけに、私ははたと動きを止めた。
正確な日時をこれまで告げられていなかったため、それを知らされたことで、あの日の記憶が急に脳裏の表面へと浮き上がってきたのだ。
「あっ……!」
私は思わず声を漏らし、持っていた筆をパレットの上に落とした。
「もしかして、何か知っているんですか?」
凛の瞳が期待に輝く。
私はゴクリと唾を飲み込み、震える声で話し始めた。
「正確な日時は聞いていなかったから、今までピンときていなかったの……でも、その時間帯なら、私……中庭のこの場所で、空先輩が吉岡先輩と一緒に絵を描いているのを見たよ」
「本当ですか……!? それ、本当なんですね!?」
「うん、間違いないよ。だって、あの時、先輩たちが並んでカンバスに向かっている姿がすごく印象的だったから……。でも、吉岡先輩があの日、自分は一人でいたって証言しているせいで、空先輩のアリバイが崩れちゃって……」
凛はメモ帳に勢いよくペンを走らせる。その表情は一筋の光を見出したかのように真剣だった。
「他になにか、事件について気になったこととかはありませんか? どんな小さなことでもいいんです」
その言葉に、私はふっと青ざめた。思い出したくもない、けれどずっと胸のつかえになっていた記憶が、冷たい汗とともに蘇ってきた。
「……実はね」
私は周囲に誰もいないことを確認すると、声をひそめるようにして話し出した。
「事件があった日の部活の後、私は教室に忘れ物をしたことに気づいて、一度部室に戻ろうとしたの。その時、廊下の窓から外を見たんだけど……吉岡先輩が、大きな黒いゴミ袋を抱えて歩いているのを見かけたんだ。こんな時間にゴミ出しなんて珍しいなって思って……なんだか胸騒ぎがして、気になって遠くからその後を追っちゃったんだけど……」
「ゴミ袋……? 一体、中に何が入っていたんですか?」
「校舎裏にある、普段は誰も使っていない古い焼却炉の方へ先輩は歩いていって……。そこで、ゴミ袋の中から取り出したものを次々と炉の中に放り込んだの。火がつけられて……私、隠れながら見てしまったの。それが、刃物でズタズタに切り裂かれたキャンバスだったってこと……」
身体が細かく震える。当時の恐怖が、生々しく蘇ってきたのだ。
「キャンバスを……切り裂いて燃やしていたんですか?」
「うん。でも、その時は何が何だか分からなくて……。先輩がいなくなってから、怖くなって焼却炉の燃え残りを確認しに行ったの。そしたら……完全に燃え尽きていなかった端っこの方に、空先輩の描いていた絵のタッチや、独特の色彩の切れ端らしきものが残されていて……」
私は両手で自分の肩を抱きしめ、涙ぐんだ瞳で凛を見つめた。
「私、怖くなって……これまで誰にも話せずにいたの。こんなこと言ったら、私までどうにかなっちゃうんじゃないかって怖くて……。でも、もう自分だけで抱えこんでいるのは限界だったの。毎日、苦しくて仕方なかった。……これで空先輩の冤罪が晴れるなら、証拠として使って、みんなに真実を訴えて欲しいの。私、もう嘘をついたままにするのは嫌だ……!」
感極まったように声を詰まらせる私の手を、凛はしっかりと握りしめた。
「ありがとうございます、泉先輩! その証言と焼却炉の件、絶対に無駄にはしません。空お兄ちゃんの無実を証明するための、大きな武器になります!」
「うん……。でも、私、こんなこと話しちゃって……吉岡先輩に知られたら、私、どうなっちゃうんだろう……」
不安に怯える泉の背後で、まるでそれを待っていたかのように、冷たく乾いた足音が響いた。
「──だめじゃない、泉さん」
「ひっ……!?」
悪寒が走り、私はビクリと肩を跳ね上げ、声のした方を恐る恐る振り返った。
夕闇の迫る建物の陰から姿を現したのは、他でもない、美術部部長・吉岡美誓その人だった。彼女の顔には、作り物のような不気味な笑みが貼り付いていた。
「いくら空君を慕っているからって、そんな嘘までついて彼を庇おうとしちゃ、ダメでしょう?」
冷徹な眼差しが、私の全身を射抜くように向けられていた。
§
Side:吉岡美誓
薄暗い美術部室の片隅で、私は一人の女子部員を呼び出していた。
目の前に立っているのは、美術部員の池内早苗だった。
早苗は、普段から私の機嫌を損ねないようにびくびくしながら従っている生徒の一人であり、そして何よりも、コンクールの入選や部長の座に対して異常なまでの執着心を持っている人物だった。
「吉岡先輩、急に呼び出したりして……一体どうしたんですか?」
早苗が不安そうな顔で尋ねる。
私は優雅に微笑みながら、彼女を見据えた。
「ねえ、池内さん。あなたも知っているでしょう? 織野さん……あの子、空君のことをずっと慕っていたじゃない?」
「あ、はい……まあ、それは知ってますけど……」
「それでね、あの子、嘘の証言をして彼を庇おうとしているみたいなのよ。空君がレイプ未遂なんて起こしてない、あの時間帯は私と一绪にいたんだって、デタラメを言いふらして……。おかげで、私がまるで嘘つきみたいに疑われちゃって、本当に困っているの」
私は嘆くようにため息をつき、かよわい被害者を演じてみせた。
「えっ……織野さんがそんな嘘を……?」
「そうなの。だからね、池内さん。あなたに頼みがあるのよ」
私は一歩、早苗へと歩み寄った。そのプレッシャーに、早苗は思わず息を呑む。
「あなた、あの日……私が、夕方五時頃に、校舎裏で一人でいたところを見ていたって……そう証言してくれない?」
「え……? 私が、そんなことを……ですか?」
早苗は目を丸くして絶句した。もちろん、あの日美誓がどこで何をやっていたかなど、早苗は全く知らないし、見てすらいないだろう。完全な偽証の依頼。
「そんな、嘘の証言なんて……私……」
戸惑い、怯える早苗を見て、私はあらかじめ用意していた甘い毒を垂らすように、スッと目を細めて微笑んだ。
「安心して。ただ私のアリバイを裏付けてほしいだけよ。……その代わりと言ってはなんだけど」
私は早苗の耳元に顔を寄せ、悪魔のような囁き声を落とした。
「──そうしてくれたなら、代わりにあなたを次期部長に推薦してあげるわ」
「じ、次期部長……私が……?」
早苗の息が止まった。美術部の頂点に立つ部長という座。それは、万年平部員で終わりかけていた早苗にとって、喉から手が出るほど欲しい栄誉だった。
「それだけじゃないわ。次のコンクールの出品枠にも、私から顧問の先生に強く推薦してあげる。確実にあなたの名前が入るように手配してあげるわ。どう? 悪い話じゃないでしょう?」
早苗の瞳孔が、欲望と驚愕で大きく開いた。
彼女の承認欲求がどれほど高いか、そして権力に弱い人間であるかを、私は完璧に見抜いていた。こういう美味しい餌で釣れば、すぐに食いつくだろうことは計算づくだったのだ。
「ほ、ホントですか……!? 本当に私を部長にしてくれるんですか……!?」
早苗の顔から戸惑いの色が消え失せ、代わりにドス黒いまでの野心と迎合の笑みが浮かび上がった。
「ええ、本当よ。私を信じてくれるならね。……さあ、どうする?」
「やります……! 私、やります! あの日、吉岡先輩が一人で校舎裏にいらっしゃったのを見たって、先生にも、みんなにも証言しますから!」
早苗は狂喜したように頷いた。
私は、その浅ましい姿を冷ややかに見下ろしながら、心の中でほくそ笑んだ。
これでいい。泉がどんなに真実を叫ぼうとも、部員の早苗が「美誓は一人でいた」と証言すれば、証言の信憑性はぐっと高まる。自分の完璧なアリバイ工作は、誰にも崩されない鉄壁のものとなるはずだ。
夕闇がさらに濃くなり、学園を包み込んでいく。
私はその薄暗い闇の中、誰の目にも触れさせないように、ひっそりとほくそ笑んでいた。




