第16話 仮面の剥落、決別の足音
放課後の鐘が、やけに重々しく校舎内に響き渡る。
周囲の生徒たちの冷ややかな視線や、背中に突き刺さるような陰口から逃れるように、俺は早足で教室を飛び出した。
足が向かっていたのは、かつて自分の居場所であり、最も多くの時間を過ごした場所である美術部の部室だった。
その扉の前に立ったとき、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
あの日、すべてが狂い始める前まで、ここは俺にとって心の安らぎを得られる聖域だったはずだ。
あの優しかった吉岡先輩が、また俺に微笑みかけてくれるかもしれない。そんな微かな、すがるような期待が心のどこかにあった。
凛ちゃんには、吉岡先輩に、俺が疑いをかけられている時間帯に彼女といたというアリバイを否定されたと聞いている。
だがそれは、何かの間違いだろうと思っていた。
俺は先輩が部活中に俺に見せてくれていた優しさを信じたかった。
すーっと息を吸い込み、重い木製のドアをそっと開ける。
「……失礼します」
部室特有の、油絵具とテレピン油の混ざった懐かしい匂いが鼻腔をくすぐる。
部屋の中央、一番窓際の特等席。
そこに座っていたのは、やはり吉岡先輩だった。
彼女は細い筆を器用に走らせ、カンバスを真剣な表情で見つめている。その横顔は、以前と変わらず美しく、どこか近寄りがたいほどの気高さをまとっていた。
先輩なら、俺が信じられていない冤罪の苦しみをわかってくれるかもしれない。あのとき、校舎裏で一緒に絵を描いていた記憶を、共有してくれるはずだ。
そう思ったからこそ、俺はかすかに震える声で彼女の名前を呼んだ。
「吉岡先輩、あの……」
声をかけようと一歩踏み出した、その瞬間だった。
吉岡先輩の手がピタリと止まる。
彼女はゆっくりと筆を置くと、振り返りもせずに、氷点下のように冷え切った、凍りつくような声を投げつけてきた。
「ここに何をしに来たの、空君。あなた、もう美術部を除名されてるわよ」
その言葉を聞いた瞬間、脳の思考が数秒間停止した。
除名? 美術部を? なぜ?
耳を疑い、俺はわずかに目を見開いたまま立ち尽くす。
「え……?」
絞り出すように発した俺の声に、吉岡先輩はゆっくりと椅子を回転させ、こちらを向いた。
そこにあったのは、かつて優しい微笑みを見せてくれていた先輩の顔ではなかった。まるで不審者を見るような、底意地の悪い嘲笑を湛えた、冷たい瞳だった。
「なんでですか……」
動揺を隠せないまま、俺は一歩、また一歩と彼女に近づく。
「先輩も、俺が本当にあんなレイプ未遂を起こしたなんて話を信じているんですか? そんなわけないじゃないですか! あの日、あの時、俺は先輩と一緒に校舎裏で絵を描いていたじゃないですか! 」
言葉の途中で、吉岡先輩はふっと鼻で笑った。その冷笑が、俺の胸に鋭いナイフのように突き刺さる。
「知らないわよ、そんなこと。いつの話し? あなた、なに思い違いをしているの?」
「なっ……何をって、嘘だろ……! 先輩が覚えてないはずがない! あの日、俺たちは一緒に──」
「うるさいわね!」
バタン! と、吉岡先輩は持っていたパレットを乱暴に机の上に叩きつけた。その大きな音に、静まり返った部室がびくりと揺れる。
彼女は立ち上がり、まるで汚いものを見るような露骨な嫌悪感を隠さずに俺を睨みつけた。
「いつまでも私にベタベタと馴れ馴れしい口をきかないでくれる? あなたみたいな犯罪スレスレの、周りに迷惑しかかけない人間が、私と親しかったなんて妄言を吐き散らされたらいい迷惑だわ。私はね、最初からあなたのことなんて大嫌いだったのよ。ただ、後輩だから面倒を見てあげていただけなのに、図に乗らないでちょうだい」
「先輩……本気で言ってるんですか……?」
頭が真っ白になり、血の気が引いていくのがわかる。
あのとき、彼女がかけてくれた優しい言葉の数々は、すべて嘘だったのか。俺が描く絵を「すごいね、空君は将来絶対に素晴らしい画家になれるよ」と褒めてくれたあの笑顔は、すべて演技だったのか。
「もう出て行って」
吉岡先輩は冷たく言い放ち、再び背中を向けた。
「これ以上ここに長居するなら、顧問の先生を呼ぶわ。人の聖域を荒らすのはやめてちょうだい。ここに、もうあなたの居場所なんて一ミリもないのよ。さっさと消えて」
それ以上、彼女は一言も発さなかった。
ガタガタと震える足で、俺は部室を押し出されるようにして追い出された。
背後で、重い扉が冷酷な音を立ててバタンと閉ざされる。
カチャリと内側から鍵がかけられる音が、静寂の廊下に響いた。
§
夕暮れの冷たい風が吹き抜ける帰り道、俺の足取りは鉛のように重かった。
頭の中では、吉岡先輩のあの冷え切った瞳と、突き放すような言葉が何度も何度もリフレインしていた。
桐乃さんの言っていたことや、凛ちゃんの勘は、正しかったんだ……。
弁護士の桐乃さんが「あの女は何かを隠している、信用するな」と警告していたこと。凛ちゃんの直感が告げていたこと。すべては事実だった。
吉岡先輩のあの優しさは、最初から最後まで完璧に計算された偽りにすぎなかった。
腹の底では、自分よりも画力があり、美術部部長である彼女を差し置いて「今年のコンクールで入選確実、特選すら狙える」と周囲や顧問から持て囃されていた俺のことを、心の底から妬み、憎んでいたのだ。
彼女にとって俺は、自分の地位を脅かす邪魔な存在でしかなかった。
俺は、あんな女に利用され、嘲笑われていたのか……。
怒りと絶望、そしてあまりの人間不信に、胸が締め付けられて息ができない。
夕日に染まる寂れた通学路を、俯きながらトボトボと歩いていると、突然、前方の影から聞き覚えのある、低い声が飛んできた。
「おい、空」
「っ……!?」
びくりと肩を跳ねさせ、顔を上げる。
そこには、焦りと怒りを滲ませた顔で立つスーツ姿の父さんがいた。
「父さん……どうしてここに……」
父さんは、鬼のような形相で俺の目の前にずかずかと歩み寄ると、有無を言わせぬ勢いで胸倉を掴みにかかった。
「お前なぁ! 一体どういうつもりだ!」
怒号が夕暮れの空気を切り裂く。周囲を通る数人の生徒たちが、ギョッとした顔をしてこちらを振り返り、足早に遠ざかっていく。
「なに勝手に弁護士なんて立ててやがる! あの内容証明とやらが会社にバレでもしたら、どれだけ面倒なことになると思っているんだ! 取引先からのウケも最悪になるし、社内でも陰口を叩かれて、俺の立場がどれだけ危うくなるか、お前には分からんのか!」
父さんは、息子の心配や、冤罪に苦しんでいるかもしれないという親心など微塵も持ち合わせていなかった。あるのは、自分の社会的地位や、会社内でのメンツが傷つけられることへの怒りだけだった。
「すぐにあの弁護士に連絡して、今すぐ面倒な手続きを取り下げさせろ!」
父親は俺の胸倉を激しく揺さぶりながら、唾を飛ばして怒鳴り散らす。
「 いいか、選択肢は二つだ。今すぐ家に戻って、弁護士との契約を破棄し、世間に頭を下げて謝罪するか。それとも、このまま完全に親子の縁を切って、一文無しで路頭に迷うか。どっちにするんだ、選べ!」
威圧的で、理不尽で、暴力的なまでの脅し。それが、実の父親から投げつけられた言葉だった。
幼い頃から何かにつけて俺を抑えつけ、自分の道具のように扱ってきた男の、これが本性だった。
だが、不思議と、この瞬間の俺の中に恐怖はなかった。
むしろ、心の底から冷めていくのが分かった。
吉岡先輩の裏切りに直面し、人間の醜さのどん底を見た後だからこそ、この父親のクズっぷりが、どこか滑稽にすら感じられたのだ。
父さんに会うかもしれない、あるいは何らかの圧力をかけてくると予測していたからこそ、俺は父さんに会った瞬間から、スラックスの右ポケットに手を突っ込み、その中でしっかりとICレコーダーの録音スイッチを押していた。
父さんの醜態も、脅迫的な暴言も、すべてその小さなデバイスにクリアに記録されているはずだ。
俺は、胸倉を掴む父さんのその手を、冷ややかな目でじっと見据えた。
そして、落ち着いた低い声で言い放った。
「……嫌だね」
「なんだと……?」
父親の目が驚愕に見開かれる。
「俺は帰る気なんて最初からないよ。お前が作り上げた窮屈な家になんて、もう二度と戻らない。縁を切りたいなら、勝手にすればいいさ。そんなもの、最初からないも同然だったんだからな。そして、弁護士への依頼を取り下げることも絶対にしない。俺は自分の無実を証明するために、最後まで戦う。お前の会社のメンツのために、俺が一生犯罪者の汚名を着せられたまま生きるなんて、ごめんだね」
「お前! 親に向かってその口のきき方はなんだ! 生意気な口を叩くな、このクズがっ!」
父さんが怒りに任せて、振り上げた手で俺の頬を殴りつけようとする。
けれど、俺はその一撃を素早く身をかわして避けた。かつてなら恐怖で縮こまっていたはずの体が、今は妙に軽かった。
「じゃあな、父さん。せいぜい自分の会社で保身に励んでくれよ」
「ま、待てっ! おい、空! 逃げる気か、この野郎!」
父親が怒号を上げながら、慌てて俺を追いかけようと足を踏み出す。
しかし、デスクワークでなまった中年男の体力では、若い高校生の足元にも及ばない。
俺は一気に加速し、夕暮れの坂道を駆け抜けた。
背後から「おい! 待てと言っているだろうが!」「この親不者めが!」という父親の息を切らせた絶叫が聞こえてきたが、振り返ることはしなかった。
走るたびに、胸のつかえが少しずつ取れていくような気がした。
吉岡先輩の裏切りという残酷な真実を知り、父親との完全な決別を果たしたこの日。
それは痛みを伴うものだったが、同時に、俺を縛り付けていた古い鎖をすべて断ち切り、本当の意味で自分の足で歩き出すための、確かな第一歩だった。
夕闇に沈む街並みを背に、俺は明日への決意を胸に抱きながら、家路へとひた走った。




