第15話 騒然とする教室、静かな中庭での約束
長かった停学期間が明けた。
今日からまた、あの澱んだ空気の漂う教室へと戻らなければならない。
朝、自宅の玄関を出るとき、心臓は嫌な音を立てて早鐘を打っていた。敵意と好奇の目に晒されることが分かっていている場所に、自ら足を踏み入れるのは容易なことではない。
だが、今の俺には孤独ではないという確かな事実があった。
玄関先で待っていてくれた玲那さん。彼女と一緒に並んで歩く通学路は、昨日までの陰鬱な世界とは違って、朝の爽やかな光に満ちていた。
「緊張してる?」
並んで歩きながら、玲那さんがふと横を向いて穏やかに微笑みかけた。その整った顔立ちは、朝の木漏れ日に照らされてどこか幻想的ですらある。
「そりゃあね……。ぶっちゃけ、足がすくむよ」
「ふふ、正直でよろしい。でも、安心して。今日は私がずっとついてるから。昼休みは絶対に迎えに行くから」
「迎えって、わざわざ俺のクラスにまで?」
「当然でしょ? それとも、私と一緒にお昼食べるの嫌だった?」
「いや、嫌どころか、むしろめちゃくちゃ嬉しいけど……周りの目が怖いっていうかさ」
「人の目を気にする必要なんてないよ。空君は何も悪くないんだから、胸を張ってて」
そんな彼女の言葉は、何よりの支えだった。
人が多くなってくると、あの孤高のクールビューティーである玲那さんと俺が一緒に歩いているということでヒソヒソと会話する声が聞こえてきたが、玲那さんは全然気にしていなかった。
そうして、周囲からの注目を浴びつつ教室まで行き、玲那さんと別れて扉を開けた。
その瞬間は冷や汗が背中を伝ったが、彼女がかけてくれた言葉が、俺の背中をそっと押してくれていた。
§
午前中の授業は、まるで終わりが見えない拷問のようだった。
教室の空気は異様だった。教師が黒板に向かってチョークを走らせる音の裏で、生徒たちのひそひそ声が波のように押し寄せてくる。
「おい、見たかよ、あいつ……停学明けたのに、よく平然と顔出せるよな」
「図太いっていうか、反省してない証拠だろ。レイプ未遂なんてよく学校いられるよな」
「なんか今朝はあの逢沢さんと並んで歩いてたとか聞いたけど、何かの間違いだろ。勝手にストーカーでもしてたんじゃねーか」
視線を向けられるたびに、皮膚がチリチリと焼けるような錯覚に陥る。
隣の席の遥は、まるで俺という存在が最初からそこにはいないかのように、頑なに視線を合わそうとしない。彼女の背中からは、冷たい拒絶と、どこか気まずさの入り混じった澱んだ空気が漂っている。
……仕方ない。俺を信じてくれた逢沢家の四姉妹の方が特別なんだ。
自嘲気味に心の中で呟き、硬く握りしめた拳の爪が手のひらに食い込む痛みをこらえながら、ただひたすら黒板の文字をノートに写し取る。
時間がねっとりと遅く流れる中、時計の針はやっとの思いで正午を指し示した。
ガタッ、とクラスの空気を切り裂くように椅子の音が響いた。
振り返らなくてもわかった。藤嶺と赤羽だ。二人はわざわざ俺の机の脇まで歩いてくると、見下ろすような冷ややかな視線を投げつけてきた。
「おい、空」
藤嶺が低く、威圧的な声で吐き捨てる。
「もうお前、学校辞めろよ。お前みたいな犯罪者がこの教室の空気を吸っているだけで、周りのみんなが迷惑してんだよ。クラスの空気が腐るんだわ」
「そうだよ、空君」
赤羽が、底意地の悪い笑みを貼り付けて言葉を重ねる。
「みんな、君のせいで怖い思いをしてるの。これ以上周りに迷惑かけないのが、せめてもの良心じゃない? 自主退学届、職員室でもらってきてあげようか?」
教室中の視線が、面白半分にこちらに集まる。誰もが藤嶺たちの暴言を止めようとはせず、むしろ「もっとやれ」と言いたげな空気を醸し出していた。
息が詰まるような閉塞感の中、歯を食いしばって反論しようとしたその時──。
「そこまでにしておいたら?」
教室の入口の方から、冷ややかで凛とした美声が響いた。
ざわついていたクラスの空気が、一瞬にして凍りつく。全員の視線が入口へと釘付けになった。
そこに立っていたのは、玲那さんだった。手には、俺が作ったお弁当箱の包みがしっかりと握られている。
「「っ……!?」」
藤嶺と赤羽が絶句したように目を見開く。
クラス中から「なんであの学年一の美人が……」「このクラスになんの用があるんだろ……」というどよめきが広がった。
玲那さんは周囲の好奇の視線を一切無視し、まっすぐに俺の席へと歩いてきた。
「空君、待たせたね。一緒にお弁当食べに行こっか」
玲那さんはふっと表情を和らげ、まるで長年の親しい友人に話しかけるかのような、柔らかく甘い声でそう言った。
「え……っ!?」
教室中のどよめきが、悲鳴のようなざわめきに変わった。
「おいおい、嘘だろ……? あの『孤高のクールビューティー』って言われてる逢沢さんが、なんであんな犯罪者崩れに……?」
「しかも、一緒にお弁当をって……? どうなってんだよおい!」
「なにかの間違いであってくれ……!」
男子生徒たちの嫉妬と困惑が入り混じった視線が、一斉に俺に突き刺さる。
そんな周囲の喧騒を涼しい顔でスルーし、玲那さんは自然な仕草で俺の手首をそっと掴んだ。その指先から伝わる温もりが、張り詰めていた俺の心を心地よくほぐしていく。
「ほら、行こ、空君。こんな澱んだ空気の場所、長居しても体に悪いだけだから」
「あ、うん……」
その手を引かれて席を立とうとした瞬間、耐え切れなくなったように藤嶺が大きな足音を立てて俺たちの前に立ちはだかった。その顔は嫉妬と怒りからか真っ赤に歪んでいる。
「ちょっと待てよ、逢沢さん!」
藤嶺は声を荒げ、玲那を引き止めた。
「なんだよ、それ! そんな薄汚い犯罪者なんかにかまう必要ないだろ!? そいつはな、逢沢さんの知らないところでとんでもねぇことしでかしたんだぞ! そんな奴のどこがいいんだよ、人を見る目が狂ってんじゃないのか! 逢沢さんみたいな綺麗な人が、こんな奴と一緒にいたら、逢沢さんの価値まで下がるんだよ! ……だからさ、良かったら、俺と一緒に屋上で美味いものでも食わないか? 俺なら、逢沢さんをそんな奴よりずっと楽しませてやるよ」
藤嶺の異常なまでの独占欲と、俺を貶めようとする下劣な魂胆が透けて見える誘い文句。
だが、玲那さんは藤嶺の顔をひと目見ただけで、まるでゴミを見るような、底冷えのする冷たい視線を向けた。彼女の瞳の奥には、怒りを超えた確かな軽蔑の色が浮かんでいる。
「……嫌だよ」
静かだが、はっきりと、玲那さんは言い放った。
「は……? なんで……」
「あんたみたいに、自分のプライドを満たすために平気で嘘をついて、優しくて誠実な空君をいじめて、あまつさえ冤罪を着せようとするゲス男と一緒にいるくらいなら、ドブ川の水でも飲んでる方がましだよ」
「なっ……!? てめぇ、なんだと……っ!」
顔を真っ赤にして怒号を上げかけた藤嶺を、玲那さんは冷ややかに一蹴する。
「これ以上、私たちの邪魔をしないで。目障りだから」
そして、彼女は再び柔らかい笑みを俺に向け、しっかりと繋いだ手に力を込めた。
「ほら、行こ、空君」
「う、うん……!」
藤嶺の怒号とクラス中のどよめきを背中に受けながら、俺たちは足早に教室を後にした。
背中に突き刺さる視線は相変わらず痛かったが、隣を歩く玲那さんの存在が、不思議とすべての恐怖をかき消してくれていた。
§
校舎の喧騒から離れ、特別棟の脇を抜けた先。
そこに広がっていたのは、緑豊かな中庭の一番奥、手入れされたツツジの大きな植え込みに囲まれた、ぽっかりと開けた小さな空間だった。
「ふう……やっと静かになったね」
玲那さんはふぅと息をつき、可愛らしく舌をペロリと出して笑った。そのあどけない表情に、さっきまでの冷たい美少女の面影はなく、いつもの親しみやすい彼女に戻っていた。
「ここ……こんな場所があったんだね」
俺は周囲を見回しながら、感心したように呟いた。
植え込みの高さがちょうど目隠しになっており、校舎の窓からも角度的に死角になっている。風の音と木の葉が擦れ合う音しか聞こえない、まるで学校の中の隠れ家のような静けさだった。
「ここ、前に卒業生の桐乃姉さんから教えてもらったの。誰にも邪魔されずにお昼食べるならここが一番の穴場だって。ねえ、早速お弁当広げよっか!」
玲那さんは慣れた手つきでベンチの上にレジャーシートを敷き、持参したお弁当の包みを解き始めた。包み紙が開くと同時に、ふわりと香ばしい匂いが周囲に広がる。今日も朝早く起きて俺が二人分まとめて作った、こだわりの特製弁当だ。
「わっ……!」
玲那さんは目を輝かせ、思わず両手を合わせた。
そこに入っていたのは、彩り豊かなおかずの数々。卵焼きに、唐揚げ、ブロッコリー、そしてしっかりとタレが絡んだ生姜焼き。どれも愛情たっぷりの自信作だ。
「わぁ、生姜焼きだ! 私、空君の作る生姜焼きが世界で一番好きなんだよね!」
玲那さんは待ちきれないといった様子で箸を取り、真っ先に生姜焼きを口に運んだ。
「んーっ! 幸せ……!」
彼女は頬を押さえ、とろけるような笑顔を浮かべる。
「タレが絶妙に甘辛くて、お肉もすっごく柔らかくてジューシー! 本当に、空君の料理を毎日食べられる私は、世界一の幸せ者だよ。ねえ、お店出せるよ、本当にもったいないくらい美味しいもん!」
毎日のようにこうして絶賛してくれる玲那さんの姿を見ていると、朝早く起きてキッチンに立った疲れも一気に吹き飛んでいく。
冤罪事件のせいで奪われていた日常のピースが、こうして彼女の美味しいという笑顔によって、少しずつ正しい形に戻っていくような気がした。
「そこまで言われると照れるな……。喜んでもらえるなら、早起きして作った甲斐があるよ。あ、そうそう、その卵焼きは少しだし汁を多めにして甘口にしてみたんだけど、口に合う?」
「うん、最高! 出汁の風味がふわっと広がって、これも絶品だよ。空君、本当にお料理上手なんだから……。将来、空君のお嫁さんになる人は絶対に幸せになるよね」
途中まで言いかけて、玲那さんはふとハッとしたように顔を赤らめ、慌ててお茶を一口飲んでごまかした。その耳たぶまでほんのりと紅潮しているのが可愛らしくて、俺は思わず微笑んでしまう。
その後も、俺が作ったおかずを「美味しい、美味しい」と一口ごとに感動しながら平らげていく玲那さんを見ているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなっていった。
穏やかな時間が流れ、木漏れ日がベンチに座る俺たちを優しく照らす。
ふと、箸を止めた玲那さんが、真剣な目を俺に向けた。
その表情の変化に気づき、俺も背筋を伸ばす。
「ねえ、空君……」
彼女の声のトーンが少しだけ低くなる。
「さっき、教室で藤嶺があんなこと言ってたけどさ……。周りから、また変なこと言われたり、陰口叩かれたりしてない? 私の前では強がってるけど、本当は辛い思いしてない?」
その問いかけには、単なる同情ではなく、痛いほどの深い心配と、守りたいという強い意志が込められていた。
俺は少しだけ目を伏せ、自分の膝の上で握りしめた手を緩めてから、ゆっくりと首を横に振った。
「……そりゃあ、最初は怖かったし、今だって平気って言ったら嘘になるよ。みんなが俺を犯罪者扱いして、目を合わせてくれないのはやっぱりキツイ。でもさ……」
俺は顔を上げ、目の前に座る玲那さんの瞳をまっすぐに見つめ返した。
「こうして玲那さんが味方になってくれて、一緒に美味しいって言いながらお弁当食べてくれてる。それだけで、俺は十分すぎるくらい救われてるんだ。周りが何言おうと、真実はいつか絶対に証明されるって、桐乃さんも言ってくれたし……だから、俺はもう逃げないって決めたんだよ」
玲那さんはしばらくじっと俺の顔を見つめていたが、やがてふっと息を抜き、今までに見たこともないほど眩しい、満面の笑みを浮かべた。
「うん。そうだよね。空君は一人じゃないんだから。私あ、何があっても絶対に空君の味方でいるからね」
その言葉は、俺の心の奥底にしっかりと刻み込まれた。
青空の下、静かな中庭のベンチで交わした約束。
悪意と陰謀が渦巻く学校の中で、俺たち二人の絆だけは、誰にも引き裂けない確かな光を放っていた。




