3話
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「タクマ、ちょっといいか?」
朝の資機材点検が一段落した頃、背後から声を掛けられた。
振り返ると、隊長が厳しい目でこちらを見つめていた。
「最近、少し無理をしすぎじゃないか?」
「そんなことないですよ。いつも通りです」
「いつも通りな訳がないだろ?」
隊長は厚い胸板の前で腕を組み、俺の目をじっと覗き込んできた。
「ここ最近のお前は、どうもらしくない。現場での動きに文句はないが……署にいる時、ふとぼーっとしてる時間が増えた。……自覚はあるか?」
図星だった。
最近になって能力を使うたびに耳の奥を引っかき回すあの正体不明のノイズ。
直近ではそれが、能力を使っていなくても聞こえてくるようになっていた。
「有給、かなり溜まってるだろ」
「……はい」
「少し休め。身体も心も、俺たちにとっては大事な仕事道具だ。壊れてからじゃ遅いんだぞ」
隊長らしい、無骨でけれど温かい気遣いだった。
これ以上突っぱねるのも不義理に思えて、俺は素直に頭を下げた。
「……ありがとうございます。お言葉に甘えます」
こうして俺は、数日間のまとまった休暇を取ることになっのだった。
とは言え、趣味という趣味のない俺はせっかくだしと温泉宿にドライブがてら出かける事にした。
車を走らせること数時間。
気が付けば、俺は山奥の小さな温泉宿へ足を運んでいた。
まだピアニストを目指していた頃、大きなコンクールの前になると精神を落ち着かせるために決まって訪れていた、なじみの宿だ。
鼻をくすぐる、ひんやりとした山の空気と木々の香り。
あの頃から、ここは何も変わっていないな……。
どこかホッとした気持ちでロビーへ一歩踏み出した瞬間、俺の足が止まった。
ラウンジの隅、記憶とまったく同じ場所に、一台の黒いピアノが佇んでいた。
「……懐かしいな」
引き寄せられるように、自然と足が向く。
誰もいない静かなロビー。俺はゆっくりと鍵盤に指先を触れさせた。
ド……
静謐な音が、高い天井へと吸い込まれていく。
レ……
ミ……
一音一音を確かめるように鳴らすたびに古い記憶が、当時の輝かしい栄光と共に蘇ってくるようだった。
だが、その優越感を切り裂くように、
ザーーーーーーーー……
と不快な砂嵐が、脳の芯を直接揺さぶった。
「……またか」
思わず鍵盤から手を離す。
最近は本当に頻度が増していた。
能力を限界まで使った後だけではなくこうして、何気ない日常生活の最中にまでノイズが侵入してくるようになっている。
ただの疲労ならいい。そう自分に言い聞かせ、もう一度鍵盤へ指を伸ばそうとした、その時だった。
「お兄ちゃん!」
背後からの無邪気な声と同時に、
ザーーーーーーーーーー……!
一際強いノイズが走り、思わず肩が跳ねた。
振り返ると、七歳くらいの男の子が、目を輝かせてこちらを見上げて立っていた。
「お兄ちゃん、ピアノ弾けるの?」
俺はすぐには言葉を返せず、少しだけ黙り込んだ。
白黒の鍵盤を見つめ直したあと、自嘲気味に小さく微笑む。
「……いや。今はもう、弾けないんだ」
ザーーーーーーーーーーーー……
さっきよりも明確に、強い不快感が頭の奥をキリキリと引っかく。思わず顔を顰め、右手のこめかみを指先で強く押さえた。
「お兄ちゃん? 大丈夫?」
「ああ、ごめん。ちょっと、疲れが出ちゃっただけだよ」
男の子はホッとしたように笑うと、一歩足を踏み出して胸を張った。
「僕ね! 将来ピアノが弾けるようになりたいんだ!」
その真っ直ぐな言葉が、俺の胸の古傷をチクリと刺した。
「そうか……」
「うん! お兄ちゃんみたいに、かっこよく弾くんだ!」
「……俺みたいには、ならなくていいよ」
気づけば、そんな拒絶のような言葉が口をついて出ていた。男の子は不思議そうな顔をして、小さな首を傾げる。
「でも、一つ音を鳴らしただけで分かったよ。お兄ちゃん、きっとすごくピアノが好きなんだね」
曇りのない無邪気な笑顔に、これ以上返す言葉が見つからなかった。
「あ、レント!もう行くわよー!」
遠くから母親が呼ぶ声が響く。
男の子は「はーい!」と元気よく返事をすると、俺に向かってちぎれるほどに手を振った。
「またね! お兄ちゃん!」
ザーーーーーーー【……】ーーーーー……!
ノイズが頭の中を完全に支配していく。
遠ざかっていく小さな背中を見送りながら、俺は消え入りそうな声で呟いた。
「……ごめん」
自分でも、なぜそんな謝罪が口から出たのか分からなかった。レントという少年に謝ったのか、それとも、ピアノを諦めた過去の自分に謝ったのか。
「……何言ってるんだ、俺は」
苦笑して頭を振る。
やはり相当疲れているようだ……。
隊長の言う通り、心身ともに休むときなんだな……。
そう無理やり納得することにした。
温泉を堪能し、山菜の天ぷらを次酒で流し込み腹を満たす。
……こんなゆっくりとした日々はいつぶりだろう?
そんな事を思いながらふと窓の外へ目をやると、夕日が山際を燃えるような茜色に染めていた。
静かな宿に穏やかな景色。
それなのに、俺の耳の奥には、しつこくあの音がへばりついている。
ザーーーーーーーー【——————】ザーーーーーーーー
その、不快な砂嵐の向こう側でほんの一瞬だけ。
確かに、誰かが何かを必死に訴えかけているような気がした。
「…………」
しかし……聞き取れない。
いや——これ以上、聞き取ろうとしてはいけない。
本能がそう警鐘を鳴らしている気がして、俺は両手で耳を強く塞ぎ、逃げるようにゆっくりと目を閉じた。




