第7話アウトランド地下通路7
通路が、二つに割れていた。
右と、左。
どちらも同じように暗く、先は見えない。
だが——
その先の空気が違う。
ユウは足を止める。
光を少しだけ持ち上げる。
右の通路。
空気が重い。
湿り気が強く、どこか淀んでいる。
かすかに、音。
水か、それとも——
「……」
左の通路。
こちらは乾いている。
崩落の跡が多く、足場は悪い。
だが、空気はまだ“抜けている”。
「……どっちに行くんですか」
リシェルが小さく聞く。
ユウは一瞬で答える。
「右」
即決。
リシェルが顔を上げる。
「え……?」
「おそらく出口が近い」
それだけ。
リシェルは右を見る。
嫌な感じがする。
理由は分からない。
でも、直感的に。
「……危険、なんじゃないですか」
「危険だな」
あっさり認める。
「じゃあ——」
「でも早い」
言葉を切る。
リシェルは言葉を失う。
「ここに長くいる方が危険だ」
ユウは淡々と続ける。
「遠回りすれば、その分だけ何かに当たる確率が上がる」
理屈としては、分かる。
だが。
「……でも」
視線が揺れる。
「安全な方が……」
言い切れない。
“安全”という言葉が、この場所では意味のない言葉になる。
ユウは振り返らない。
「どっちも別に安全じゃない」
それが答えだった。
沈黙。
水音が、かすかに響く。
リシェルは、左の通路を見る。
崩れた足場。
暗闇。
次に、右を見る。
見えない“何か”の気配。
「……」
選べない。
どちらも、怖い。
「行くぞ」
ユウが、右へ踏み出す。
迷いはない。
リシェルは一瞬だけ立ち止まる。
(……どっちが正しいのか、分からない)
でも。
ここで一人になる選択は——
もっと怖い。
「……待ってください」
小さく言って、後を追う。
距離を少しだけ詰める。
完全には並ばない。
でも、離れもしない。
二人は、そのまま右の通路へと進んだ。
右の通路を進むと、すぐに空気が変わった。
重い。
湿っているのとは違う。
“淀んでいる”ような感覚。
エーテル灯の光が、わずかに濁って見える。
「……」
ユウの足取りが、ほんの少しだけ遅くなる。
(……濃いな)
空気の中に、何かが混じっている。
目に見えない“圧”のようなもの。
「……近い」
小さく、呟く。
「え?」
リシェルが聞き返す。
ユウは答えない。
代わりに、手を軽く上げる。
止まれ、の合図。
二人の足が止まる。
静寂。
水音すら、ここにはない。
その代わりに——
「……」
何かがいる。
見えない。
だが、確実に。
「……音を立てるな」
ユウの声が、いつもより低い。
リシェルの背筋が冷える。
(……なんだ?)
さっきまでとは。
空気が違う。
その時。
——コツン
小さな音。
リシェルの足元。
崩れた石が、転がった。
「……っ」
一瞬で、ユウが振り返る。
だが、遅い。
その音は。
“届いた”。
——ズズ………
奥で、“それ”が動く。
音が、近い。
ユウの足が止まる。
「……っ」
リシェルが何か言いかける。
その瞬間。
ユウの手が、素早く口を覆った。
「……!」
息が止まる。
そのまま、強引に引き寄せられる。
壁際へ。
体が、密着する。
背中が壁に当たる。
逃げ場がない。
ユウの腕が、逃がさないように押さえる。
「……動くな」
耳元で、囁くような声。
近い。
近すぎる。
呼吸が、かかる距離。
(……っ)
心臓が、大きく跳ねる。
だが。
それ以上に——
怖い。
“それ”の気配が、すぐそこにある。
暗闇の中。
何か巨大なものが、ゆっくりと動いている。
見えない。
だが、確実に“いる”。
ぬめる音。
壁を擦る音。
すぐ横。
(……怖い……)
息を止める。
少しでも音を立てたら、終わる。
ユウの手が、わずかに力を強める。
それだけで分かる。
“絶対に動くな”
リシェルは目を閉じる。
ユウの胸元に、強く後頭部が触れる。
鼓動が、伝わる。
速くない。
落ち着いている。
それが、逆に現実を強める。
(……この人は)
こんな状況でも、冷静でいられる。
その事実が、少しだけリシェルを冷静にさせた。
そして——
“それ”が、通り過ぎる。
重い気配が、遠ざかる。
音が、薄れていく。
やがて。
完全に、消えた。
しばらくして。
ユウの手が、ゆっくりと離れる。
「……はぁ……」
リシェルはようやく息を吐く。
肺が焼けるように痛い。
「……すみません」
小さく、呟く。
さっき、声を出しかけたこと。
ユウは首を振る。
「いい」
それだけ。
だが、距離はまだ近いまま。
リシェルが、はっとする。
「……っ」
一気に顔が熱くなる。
「……あの、近いです」
小さく、抗議する。
ユウは一瞬だけ視線を落としてから、
すっと距離を取る。
「悪い」
淡々とした一言。
だが。
さっきまでとは、少しだけ空気が違っていた。
「……行くぞ」
ユウの声が落ちた直後。
——ズズ……ッ
背後で、音。
さっき通り過ぎたはずの“それ”が、止まっている。
「……っ」
空気が、張りつめる。
次の瞬間。
——ドン!!
地面が揺れた。
「走れ!」
ユウが叫ぶ。
同時に、リシェルの手を掴む。
全力で、前へ。
後ろを見ない。
見たら、終わる。
「……っ!」
通路が狭い。
肩が壁にぶつかる。
痛みは無視。
背後。
何かが、壁を削る音。
速い。
明らかに、速い。
「……追いつかれます!」
リシェルの声が震える。
「分かってる!」
ユウが即答する。
通路が曲がる。
滑る。
体勢が崩れる。
「っ!」
ユウが引く。
無理やり立て直す。
「止まるな!」
息が続かない。
肺が焼ける。
それでも、走る。
「……っ、ユウ!」
「前見ろ!」
短い指示。
足場が変わる。
湿っている。
水。
浅い流れ。
「そのまま行け!」
速度は落とさない。
背後。
水が弾ける音。
追ってきている。
「……っ!」
リシェルの足が滑る。
「……!」
ユウが腕を引く。
だが、その瞬間。
“それ”が迫る。
距離が、ない。
(間に合わない)
その一瞬。
「……っ!」
リシェルが踏み込む。
自分から前に出る。エーテルの光が通路内で反射する。
ユウの手を強く握る。
そして
軌道をずらす。
次の瞬間。
“それ”が、すぐ横を通過する。
風圧。
水が跳ねる。
「……っ!」
二人とも転びかける。
それでも止まらない。
「この先だ!」
ユウが叫ぶ。
通路の先。
わずかな光。
「……!」
出口。
だが——
床が、崩れている。
段差。
その下に、水流。
「跳べ!」
考える暇はない。
踏み切る。
落ちる。
水に叩きつけられる。
冷たい。
息が詰まる。
そのまま、流される。
「……っ!」
方向が分からない。
ただ、押し出される。
光が、強くなる。
「……っ!」
次の瞬間。
外へ。
一気に、開ける。
地面に転がる。
「……は……っ」
息を吐く。
空気が違う。
軽い。
背後。
水の出口の奥。
暗闇の中で、“それ”が止まっている。
出てこない。
境界。
そこまで。
「……」
ユウはしばらく動かない。
それから、短く言う。
「……助かったな」
リシェルは、何も言えない。
ただ。
自分の手を見ていた。
さっき、自分が彼の手を引いた。
あの一瞬。
「……」
胸の奥で、何かが変わる。
「……はぁ……っ」
しばらくの間、二人とも動けなかった。
外の空気が、肺に刺さる。
地下とは違う。
軽い。
広い。
リシェルはその場に座り込んだまま、呼吸を整えている。
ユウはゆっくりと立ち上がる。
振り返る。
水が流れ出ている穴。
崩れた岩。
その奥に、暗闇。
「……」
しばらく、何も言わずに見ていた。
足元にしゃがみ込む。
水に手を触れる。
冷たい。
流れは強いが、一定だ。
「……地下水、だけじゃないな」
ぽつりと呟く。
リシェルが顔を上げる。
「……え?」
ユウは水の流れを指でなぞる。
「流れが安定してる」
「自然の水なら、もっとバラつく」
視線を上げる。
「たぶん、元は排水路だ」
リシェルは少し首を傾げる。
「排水……?」
「昔の街の設備」
簡潔に言う。
「雨水とか、生活水を外に流すための通路」
「それが崩れて、今はこうなってる」
周囲を見渡す。
岩と、コンクリートの残骸が混ざっている。
完全な自然じゃない。
「……だから」
リシェルが小さく呟く。
「外に……繋がってたんですね」
「そういうことだ」
ユウは立ち上がる。
「流れがある場所は、出口がある」
当たり前のように言う。
リシェルはその言葉を少しだけ考える。
(……そんなことまで、分かるんだ)
ただ生きているだけじゃない。
見て、判断して、繋げている。
それが、この人の“普通”。
「ユウは……すごいですね」
思わず、また口に出る。
ユウは軽く肩をすくめる。
「慣れだ」
それだけ。
だが。
その“慣れ”が、どれだけのものか。
リシェルには、まだ想像できなかった。




