第2話アウトランド地下通路2
しばらく、沈黙が続いた。
少女は壁に背を預けたまま、こちらを警戒するように見ている。
その視線に、明確な距離があった。
「……名前くらいは、聞いとくか」
少年が言うと、少女の肩がわずかに強張る。
「……どうしてですか」
即答だった。
「呼びにくいだろ」
少女は少し黙る。
納得したわけではない。
だが、完全に拒む理由もない。
「……リシェル」
短く、それだけ名乗る。
やはりどこか作った響き。
少年は特に気にせず頷く。
「ユウだ」
それだけ返す。
再び、沈黙。
リシェルは、ほんの少しだけ距離を取るように座り直した。
無意識に、線を引くように。
「……ここから出る方法、知ってるんですよね」
さっきよりも、少しだけ強い声。
「まあな」
「……安全な場所も」
「あるにはある」
リシェルは視線を落とす。
一瞬だけ迷い。
「……教えてもらうことは」
言い切らない。
頼みきらない。
少年は即答する。
「無理だな」
リシェルの表情が固まる。
「……どうして」
「他人連れて歩くほど余裕ない」
淡々とした答え。
言い返せない。
それがこの場所のルールだと、なんとなく理解している。
しばらくの沈黙。
やがて、リシェルは小さく息を吐いた。
「……分かりました」
顔を上げる。
さっきよりも、少しだけ強い目。
「大丈夫です。一人で行きます」
少年は何も言わない。
止める理由もない。
リシェルはゆっくり立ち上がる。
まだ足取りは不安定だが、それでも前に進もうとする。
「……そっち、危険だぞ」
少年がぼそっと言う。
リシェルが足を止める。
「……どうして分かるんですか」
「さっきのやつの縄張りだ」
一瞬の沈黙。
「……じゃあ、反対に行きます」
「勝手にしろ」
それ以上は言わない。
リシェルは小さく頷くと、そのまま歩き出した。
振り返らない。
足音が遠ざかる。
少年はしばらくその背中を見ていたが、やがて視線を外す。
「……まあ、死ぬだろうな」
小さく呟く。
だが、それも珍しくない。
ここはそういう場所だ。
少年も立ち上がる。
別の方向へ向かうために。
その時だった。
——音。
遠くで、何かが崩れる。
重い音。
少年の動きが止まる。
(……近いな)
もう一度、音。
今度は、はっきりと。
——低い唸り声。
「……は?」
さっきの縄張りの方向じゃない。
別の個体。
しかも——
(移動してる……?)
嫌な予感が走る。
――
足音が、やけに響く。
こんなに音を立てて歩くつもりはなかった。
それなのに、瓦礫を踏むたびに、乾いた音が広がる。
(……うるさい)
自分でも分かる。
だが、どうすればいいのか分からない。
靴の裏に神経を集中させる。
音を立てないように。
慎重に、一歩ずつ。
(落ち着いて……)
教えられてきた通りに。
外界は危険。
不用意に動かないこと。
冷静であること。
「……大丈夫」
小さく、自分に言い聞かせる。
さっきの少年の言葉が頭をよぎる。
——危険だぞ。
(……大げさです)
思い返すだけで、わずかに眉をひそめる。
(あの人は、そうやって脅して——)
そこまで考えて、足が止まる。
音。
さっきとは違う。
風でも、崩落でもない。
“何か”が、擦れている。
(……なに……?)
息を止める。
耳を澄ます。
また、音。
今度は、はっきりと。
重い。
ゆっくりとした、規則的な音。
(……動いてる……?)
背筋が、冷える。
教会で教わった言葉が浮かぶ。
——汚染獣。
——近づくな。
——見つかれば終わり。
(……そんなはず……)
ゆっくりと、振り返る。
そこにいた。
理解が、遅れる。
最初に見えたのは、“形”。
四足。
だが、歪んでいる。
次に、“色”。
肉の色じゃない。
濁った、光。
最後に、“目”。
「……っ」
声が出ない。
それは、生き物の形をしているだけだった。
関節が、ありえない方向に曲がっている。
骨が、外に突き出ている。
それでも、動いている。
(……違う)
知っているはずのものと、違う。
(こんなの……教わってない……)
視線が、合う。
その瞬間。
——動いた。
地面を抉るように、こちらへ。
「っ……!」
体が、固まる。
逃げなきゃいけない。
分かっている。
でも、動けない。
(無理……)
足に力が入らない。
心臓の音がうるさい。
近づいてくる。
距離が、縮まる。
(来ないで……)
頭の中が、真っ白になる。
その時。
——瓦礫が崩れる。
偶然か、足がもつれたのか。
リシェルの体が、横に倒れる。
次の瞬間。
“それ”が、さっきまでいた場所を通り過ぎた。
「……っ」
風圧だけで、息が詰まる。
(……当たってたら)
考えたくない。
体が、ようやく動く。
立ち上がる。
走る。
考えない。
ただ逃げる。
足音が、また響く。
もう気にしていられない。
背後で、あの音が追ってくる。
(なんで……)
息が乱れる。
(こんなの……)
視界が滲む。
(聞いてない……!)
教会で教えられた外界は、もっと“理解できる危険”だった。
だが、これは違う。
理解できない。
怖い。
瓦礫を蹴る音が、やけに大きく響く。
足元を気にする余裕なんてない。
ただ、前へ。
ただ、逃げる。
「っ……!」
呼吸が乱れる。
走り慣れていない足が、思うように動かない。
それでも止まれない。
止まった瞬間、終わると分かっている。
背後で、地面が抉れる音。
重い衝撃。
空気が震える。
「……っ、いや……!」
思わず声が漏れる。
こんなもの、聞いたこともない。
教えられたこともない。
(こんなの……違う……)
頭の中の“外界”と、現実が噛み合わない。
視界の先に、人影。
「……っ!」
ユウ。
「……なんでこっち来るんだよ」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが切れる。
「——あっちは安全って言ったじゃないですか!!」
声が裏返る。
怒りと恐怖が、混ざったまま噴き出す。
足を止めかけて、すぐにまた動く。
止まれば終わりだ。
「安全とは言ってないけどな」
ユウの返答は、驚くほど淡々としていた。
「は……?」
一瞬、理解が追いつかない。
「他人の言葉をすぐ信用するのもどうかと思うぞ」
それだけ。
「……っ、でも……!」
言葉が詰まる。
確かに、“安全”とは言っていない。
だが——
「普通、そういう言い方されたら……!」
そこまで言いかけて、言葉が止まる。
“普通”。
その基準が、ここでは通じないことに気づく。
背後で、咆哮。
空気が震える。
「——来てるぞ」
ユウが短く言う。
リシェルは歯を食いしばる。
恐怖が、怒りを押し流す。
「……っ、どうすれば……!」
「走れ」
即答。
「どこに!?」
「こっちだ」
ユウが方向を変える。
迷いのない動き。
リシェルは一瞬だけ躊躇う。
(……信用できない)
胸の奥に浮かぶ言葉。
それでも。
背後の気配が、それを許さない。
歯を食いしばって、後を追う。
しばらく無言で走る。
やがて、わずかに距離が開いた。
汚染獣の気配が少し遠のく。
「……っ、はぁ……っ」
リシェルは壁に手をつき、息を荒げる。
「……最初から」
息の合間に、言葉を絞り出す。
「最初から……ちゃんとわかるように説明してください……」
ユウは振り返らない。
「しただろ」
「してません……!」
声に、はっきりとした怒気が戻る。
「こんなの……」
握った手が震える。
「こんな場所だなんて、聞いてません」
ユウはようやく少しだけ振り返る。
「ここはアウトランドだぞ」
それだけ。
リシェルは言葉を失う。
そして、次の瞬間。
「……だから」
小さく、しかしはっきりと。
「だから外の人間は信用できないんです」
その言葉には、教え込まれた価値観がそのまま乗っていた。
ユウは少しだけ目を細める。
(やはり中の人間か)
だが、否定はしない。
「別に、しなくていい」
あっさりとした返答。
「信用されても困る」
それだけ言って、また前を向く。
「生きたいなら、自分で判断しろ」
突き放すような言葉。
だが——
それが、この世界の現実だった。
リシェルは何も言えない。
胸の中で、何かがぶつかっている。
教えられてきた“正しさ”と、
今、目の前にある“現実”。
そのどちらも、まだ捨てられないまま。




