第9話 ヒロインがやってきました
王立学園の大講堂に、春の光が差し込んでいた。
「本日より、皆さんと共に学ぶことになった編入生を紹介します」
学園長の声に、生徒たちがざわめく。
壇上に上がったのは、ふわふわとした桃色の髪の少女だった。大きな若草色の瞳に、守ってあげたくなるような小柄な体。
「ミア・ローレルです! 平民の出身ですけど、聖女の力を授かって、この学園に来ることになりました。皆さん、よろしくお願いします!」
ぺこりと頭を下げた拍子に、桃色の髪がふわりと揺れる。
講堂中から、ほうっとため息が漏れた。
――私だけが、背筋を凍らせていた。
(来た。ゲームのヒロイン)
『光の乙女と七つの約束』の主人公、ミア。平民の少女が聖女として学園に編入し、王太子や騎士団長の息子たちと恋に落ちる物語。
そして、悪役令嬢ロザリンドに虐げられ、最後に断罪の場で救われる。
(でも、ゲームとはもう違う。私はルシアンを虐げなかったし、ミアをいじめるつもりもない)
大丈夫。関わらなければいい。静かに卒業まで過ごせば、きっと断罪なんて起きない。
そう自分に言い聞かせても、膝の上で握った手が冷たくなっていく。
「姉様」
隣の席から、そっと手が重ねられた。
「手が冷たいですよ。気分が悪いのですか?」
ルシアンが、心配そうに私を覗き込んでいた。
今年、ルシアンは学園に入学した。学年は違うけれど、全校集会のときはこうして必ず隣に座ってくれる。周りの令嬢たちが「エーデル様の弟君よ」「なんて麗しい」と囁き合っているのに、本人はまったく気にしていない。
「ううん、大丈夫。少し、人が多くて」
「無理はなさらないでください。いざとなれば、僕が抱えて連れ出しますから」
「それはやめて。恥ずかしいわ」
思わず小さく笑うと、ルシアンも目を細めた。
彼の手のひらの温かさに、少しだけ呼吸が楽になる。
――そのときだった。
壇上から降りてきたミアが、通路の途中でぴたりと足を止めた。
若草色の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
いいえ。私ではなく、私の隣を。
「……ルシアン、様」
ミアの唇が、小さくそう動いた。
(え?)
どうして、ミアがルシアンの名前を知っているの? まだ自己紹介もしていないのに。
ミアは一瞬だけ戸惑ったように私とルシアンの重なった手を見て、それから、にっこりと笑った。
花が咲くような、可愛らしい笑顔。
けれど、私の背筋には、ぞわりと冷たいものが走った。
嫌な予感は、すぐに的中した。
「ロザリンド様、ですよね?」
昼休み。中庭のベンチで本を読んでいると、ミアが一人で近づいてきた。
ルシアンは今、教師に呼ばれて席を外している。周りに他の生徒の姿はない。
「……ええ。ミアさん、だったかしら」
「はい! あの、ちょっとお話ししたくて」
ミアは私の隣にちょこんと腰を下ろすと、声をひそめた。
「ロザリンド様も、転生者ですよね?」
心臓が、どくんと跳ねた。
「……何の、ことかしら」
「とぼけなくていいですよ。だって、おかしいもの」
ミアは、くすくすと笑った。
「本当なら、ルシアン様はロザリンド様を憎んでるはずでしょう? 虐げられて、心が壊れて、私が癒してあげるはずだった。なのに、あんなに仲良しなんて。シナリオ通りじゃないもの」
頭から、さあっと血の気が引いていく。
(この子も、前世の記憶がある?)
「ルシアン様って、隠しキャラなんですよね。私、前世で一番好きだったんです。王太子ルートを途中まで進めないと出てこないから、すごく大変で」
ミアは夢見るように頬に手を当てた。
「でも、今回はちゃんと攻略しますね。ロザリンド様には悪役令嬢として、ちゃんと役目を果たしてもらわないと」
「……役目って」
「決まってるじゃないですか」
ミアは、愛らしく首をかしげた。
「私をいじめて、断罪されることですよ」
言葉が、出てこなかった。
お義母様の部屋で床に額をつけていたときと同じように、体が勝手に縮こまる。喉がひくりと鳴って、指先が震え出す。
(だめ。しっかりしなきゃ)
「わ、私は、あなたをいじめたりしないわ」
「あはは、知ってます。ロザリンド様、すごく優しそうだもの」
ミアは立ち上がって、スカートの裾をはたいた。
「だから、いじめられたことにしますね。大丈夫、証拠なんていくらでも作れますから」
そう言って、ミアはひらひらと手を振った。
「これからよろしくお願いします、悪役令嬢さん」
ミアの姿が見えなくなっても、私はベンチから立ち上がれなかった。
膝の上の本を、ぎゅっと握りしめる。
(どうしよう)
ゲームの強制力なんて、信じていなかった。私が変われば、未来も変えられると思っていた。
でも、ミアがシナリオを知っていて、わざと私を悪役に仕立てようとしているなら。
王太子殿下は、きっとミアを信じる。
私には、身を守る術なんて何もない。
「――姉様!」
顔を上げると、ルシアンが中庭を駆けてくるところだった。
息を切らして私の前に膝をつき、震える手を両手で包み込む。
「どうしたんですか、顔が真っ青です。誰かに何かされたんですか?」
「……ううん。なんでも、ないの」
言えなかった。
転生のことも、ゲームのことも、ルシアンに話したことは一度もない。話したところで、信じてもらえるとも思えない。
(それに、この子を巻き込みたくない)
ルシアンはしばらく私の顔を見つめていた。けれど、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、私の手を包む指に、ゆっくりと力を込める。
「姉様。何があっても、僕は姉様の味方です。それだけは、忘れないでください」
「……うん。ありがとう、ルシアン」
微笑み返すと、ルシアンも優しく笑った。
――だから、私は気づかなかった。
私を抱き寄せるように立ち上がらせたルシアンが、ミアの去っていった方角を、ひどく冷えた目で見つめていたことに。




