第10話 名ばかりの婚約者
ミアの言葉どおり、噂はあっという間に広まった。
「聞いた? ミア様の教科書、ずたずたに破かれてたんですって」
「ロッカーに泥が詰められていたとか」
「ミア様が泣きながら、ロザリンド様に睨まれたって……」
廊下を歩くたびに、ひそひそ声が背中に刺さる。振り返ると、令嬢たちはさっと目をそらした。
身に覚えは一つもない。
でも、誰も私に直接確かめようとはしなかった。「悪役令嬢」らしい冷たい美貌と、公爵令嬢という身分。それだけで、私は加害者に見えるらしい。
(ゲームのロザリンドも、こんな気持ちだったのかな)
誰にも信じてもらえなくて、だったら本当に悪役になってやると、開き直ってしまったのかもしれない。
「姉様」
ぽん、と肩に手が置かれた。
「今日のお昼は、中庭ではなく食堂にしましょう。人目のある場所のほうが安全です」
ルシアンは、噂のことを何も言わない。けれど、ここ数日、彼は授業の合間にも必ず私の教室まで迎えに来るようになった。
(……心配、かけちゃってるな)
申し訳なさと、それ以上の安心感。私はルシアンの袖を、そっとつまんだ。
食堂は、昼食をとる生徒たちで賑わっていた。
窓際の席に着いて、紅茶に口をつけた、そのとき。
入口のほうで、ざわめきが波のように広がった。
現れたのは、金色の髪に青い瞳の青年――この国の王太子であり、私の婚約者であるエドワード殿下だった。
その隣に、ミアが寄り添っている。目を真っ赤に泣きはらして。
殿下はゆったりとした足取りで、まっすぐ私の席までやってきた。
「ロザリンド」
名前を呼ばれるのは、何か月ぶりだろう。
慌てて立ち上がり、礼をとる。けれど殿下は、私の顔を見てもいなかった。窓の外にちらりと目をやり、つまらなそうに息をつく。
「ミアから聞いた。昨日、階段から突き落とそうとしたそうだな」
「……え?」
「ひどいです、ロザリンド様……」
ミアが、震える声で殿下の袖を握った。
「私、ロザリンド様と仲良くしたかっただけなのに。平民のくせに殿下に近づくなって、すごく怖い顔で……」
食堂中の視線が、私に突き刺さる。
「わ、私は、そんなことは」
「そうか」
殿下は、あっさりと頷いた。
怒っているわけでも、私を問い詰めるわけでもない。まるで、天気の話でもするような口ぶりだった。
「正直なところ、お前が本当にやったかどうかは、どうでもいい」
(……え?)
「ミアは、百年ぶりに現れた聖女だ。教会も、陛下も、彼女を王家に迎えたいと考えている。聖女を王妃にすれば、王家の権威は揺るぎないものになるからな」
殿下は、ようやく私に視線を向けた。
何の感情もない、冷えた青い瞳。
「だが、私にはすでに婚約者がいる。エーデル公爵家との婚約を、理由もなく破棄するわけにはいかない」
「……だから」
「聖女を虐げた令嬢となれば、話は別だ。誰も文句は言わないだろう」
喉の奥が、ひゅっと鳴った。
殿下は、真実なんて最初から求めていないのだ。ただ、私を退かせる口実が欲しいだけ。
「それにな」
殿下は、ミアの肩にそっと手を置いた。
その手つきだけは、ひどく優しかった。
「ミアは、私を『王太子』ではなく、ただの『エドワード』として見てくれる。私が幼い頃に母上を亡くしたことも、王太子であるがゆえの孤独も、彼女だけはわかってくれた」
ミアが、殿下を見上げて微笑む。
――ああ、そうか。
(ゲームの、王太子ルートの台詞だ)
殿下の過去。誰にも明かしたことのない心の傷。ミアは、それをゲームで知っていたのだ。
知っていて、まるで自分だけが気づいたかのように、殿下の心に寄り添ってみせた。
「お前と過ごした四年間、そんな話をしたことは一度もなかったな」
話どころか、手紙の交換さえしたこともない殿下の声には、責めるような色すらなかった。
ただ、興味のないものを見る目で、私を見下ろしているだけ。
「というわけだ。手間をかけさせるな。ここでミアに謝罪すれば、穏便に済ませてやる」
「エドワード様、私すごく怖かったの。ロザリンデ様に跪いて謝罪してもらえたら、安心するかも。」
ミアは殿下にすり寄り、甘えた声色でねだった。
――跪きなさい。
ミアの声に、別の声が重なった。
甘い香水の匂い。暖炉の火。絨毯に押しつけた額の感触。
――額を床につけなさい。許しを乞うのよ。
――まるで、犬ね。
(あ……)
気づいたら、膝が折れかけていた。
体が、勝手に動く。九年経っても消えない、命令されたら跪けという、体に刻まれた癖。
視界がぐらりと揺れて、床がやけに近く見えた。
――その体を、力強い腕が抱きとめた。
「姉様。従う必要はありません」
耳元で、静かな声がした。
顔を上げると、ルシアンが私を背後から支えていた。片腕で私の腰を抱き、もう片方の手で、震える私の手をしっかりと握りしめている。
「ルシ、アン」
「大丈夫。僕がいます」
その声を聞いた瞬間、強張っていた体から、ふっと力が抜けた。
ルシアンは私を椅子に座らせると、ゆっくりと殿下に向き直った。
「殿下。ご無礼を承知で申し上げます」
穏やかな口調だった。けれど、食堂の空気が一段冷えたような気がした。
「昨日の放課後、姉は僕と一緒に図書館におりました。閉館時間まで、ずっと。司書のハーヴェイ先生と、その場にいた生徒五名が証言してくださるでしょう」
「……ほう」
「ミア嬢の教科書が破られていたとされる日は、姉は風邪で学園を休んでおりました。ロッカーに泥が詰められていた日は、王太后陛下のお茶会に招かれておりました。すべて、記録が残っております」
食堂が、再びざわめき始めた。今度は、さっきとは違う種類のざわめきだ。
ミアの顔が、一瞬だけ引きつった。
「そ、そんなの、弟だから庇ってるだけじゃないですか!」
「ええ、僕は姉様の弟ですから。ですが、司書の先生や王太后陛下まで、姉様を庇う理由がおありでしょうか?」
ミアが、ぐっと言葉に詰まる。
殿下はしばらくルシアンを眺めていたが、やがて肩をすくめた。
「なるほど。今日のところは、私の分が悪いらしい」
悔しがる様子もない。ただ、面倒な手続きが一つ増えた、とでも言いたげな顔だった。
「まあいい。証拠など、いくらでも揃う。卒業の夜会で、改めて婚約破棄を申し渡すとしよう」
殿下はそれだけ言うと、ミアを連れて食堂を出ていった。
去り際、ミアが振り返る。若草色の瞳が、ルシアンをじっと見つめていた。
悔しそうな顔ではなかった。
もっと――欲しいものを見つけたような、熱を帯びた目だった。
「……姉様、大丈夫ですか」
騒ぎが収まった食堂で、ルシアンが私の前にしゃがみ込んだ。
「ごめんなさい。私、また……何もできなくて」
「謝らないでください。姉様が悪いことは、何一つありません」
「でも、あなたがいなかったら、私、あのまま……」
殿下に捨てられることは、怖くなかった。最初から、愛されていないことは知っていたから。
怖かったのは、命令されて、体が勝手に動いたことだ。
九年経っても、私はまだ、あの部屋の床に額をつけたままなのだ。
「姉様」
ルシアンが、私の手の甲に額を押し当てた。
「もう二度と、誰にも姉様を跪かせたりしません。王太子だろうと、誰だろうと」
低く、絞り出すような声だった。
「……ルシアン?」
「なんでもありません。さあ、帰りましょう」
顔を上げたルシアンは、いつもの優しい笑顔だった。
けれど、握られた手から伝わる熱が、いつもより少しだけ熱く感じた。




