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【完結】屋根裏の義弟に手を差し伸べたら、九年越しに求婚されました  作者: フトダマノミコト


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第10話 名ばかりの婚約者

 ミアの言葉どおり、噂はあっという間に広まった。


「聞いた? ミア様の教科書、ずたずたに破かれてたんですって」


「ロッカーに泥が詰められていたとか」


「ミア様が泣きながら、ロザリンド様に睨まれたって……」


 廊下を歩くたびに、ひそひそ声が背中に刺さる。振り返ると、令嬢たちはさっと目をそらした。


 身に覚えは一つもない。


 でも、誰も私に直接確かめようとはしなかった。「悪役令嬢」らしい冷たい美貌と、公爵令嬢という身分。それだけで、私は加害者に見えるらしい。


(ゲームのロザリンドも、こんな気持ちだったのかな)


 誰にも信じてもらえなくて、だったら本当に悪役になってやると、開き直ってしまったのかもしれない。


「姉様」


 ぽん、と肩に手が置かれた。


「今日のお昼は、中庭ではなく食堂にしましょう。人目のある場所のほうが安全です」


 ルシアンは、噂のことを何も言わない。けれど、ここ数日、彼は授業の合間にも必ず私の教室まで迎えに来るようになった。


(……心配、かけちゃってるな)


 申し訳なさと、それ以上の安心感。私はルシアンの袖を、そっとつまんだ。


 


 食堂は、昼食をとる生徒たちで賑わっていた。


 窓際の席に着いて、紅茶に口をつけた、そのとき。


 入口のほうで、ざわめきが波のように広がった。


 現れたのは、金色の髪に青い瞳の青年――この国の王太子であり、私の婚約者であるエドワード殿下だった。


 その隣に、ミアが寄り添っている。目を真っ赤に泣きはらして。


 殿下はゆったりとした足取りで、まっすぐ私の席までやってきた。


「ロザリンド」


 名前を呼ばれるのは、何か月ぶりだろう。


 慌てて立ち上がり、礼をとる。けれど殿下は、私の顔を見てもいなかった。窓の外にちらりと目をやり、つまらなそうに息をつく。


「ミアから聞いた。昨日、階段から突き落とそうとしたそうだな」


「……え?」


「ひどいです、ロザリンド様……」


 ミアが、震える声で殿下の袖を握った。


「私、ロザリンド様と仲良くしたかっただけなのに。平民のくせに殿下に近づくなって、すごく怖い顔で……」


 食堂中の視線が、私に突き刺さる。


「わ、私は、そんなことは」


「そうか」


 殿下は、あっさりと頷いた。


 怒っているわけでも、私を問い詰めるわけでもない。まるで、天気の話でもするような口ぶりだった。


「正直なところ、お前が本当にやったかどうかは、どうでもいい」


(……え?)


「ミアは、百年ぶりに現れた聖女だ。教会も、陛下も、彼女を王家に迎えたいと考えている。聖女を王妃にすれば、王家の権威は揺るぎないものになるからな」


 殿下は、ようやく私に視線を向けた。


 何の感情もない、冷えた青い瞳。


「だが、私にはすでに婚約者がいる。エーデル公爵家との婚約を、理由もなく破棄するわけにはいかない」


「……だから」


「聖女を虐げた令嬢となれば、話は別だ。誰も文句は言わないだろう」


 喉の奥が、ひゅっと鳴った。


 殿下は、真実なんて最初から求めていないのだ。ただ、私を退かせる口実が欲しいだけ。


「それにな」


 殿下は、ミアの肩にそっと手を置いた。


 その手つきだけは、ひどく優しかった。


「ミアは、私を『王太子』ではなく、ただの『エドワード』として見てくれる。私が幼い頃に母上を亡くしたことも、王太子であるがゆえの孤独も、彼女だけはわかってくれた」


 ミアが、殿下を見上げて微笑む。


 ――ああ、そうか。


(ゲームの、王太子ルートの台詞だ)


 殿下の過去。誰にも明かしたことのない心の傷。ミアは、それをゲームで知っていたのだ。


 知っていて、まるで自分だけが気づいたかのように、殿下の心に寄り添ってみせた。


「お前と過ごした四年間、そんな話をしたことは一度もなかったな」

 

 話どころか、手紙の交換さえしたこともない殿下の声には、責めるような色すらなかった。


 ただ、興味のないものを見る目で、私を見下ろしているだけ。


「というわけだ。手間をかけさせるな。ここでミアに謝罪すれば、穏便に済ませてやる」


「エドワード様、私すごく怖かったの。ロザリンデ様に跪いて謝罪してもらえたら、安心するかも。」


 ミアは殿下にすり寄り、甘えた声色でねだった。



 ――跪きなさい。


 ミアの声に、別の声が重なった。


 甘い香水の匂い。暖炉の火。絨毯に押しつけた額の感触。


 ――額を床につけなさい。許しを乞うのよ。


 ――まるで、犬ね。


(あ……)


 気づいたら、膝が折れかけていた。


 体が、勝手に動く。九年経っても消えない、命令されたら跪けという、体に刻まれた癖。


 視界がぐらりと揺れて、床がやけに近く見えた。


 ――その体を、力強い腕が抱きとめた。


「姉様。従う必要はありません」


 耳元で、静かな声がした。


 顔を上げると、ルシアンが私を背後から支えていた。片腕で私の腰を抱き、もう片方の手で、震える私の手をしっかりと握りしめている。


「ルシ、アン」


「大丈夫。僕がいます」


 その声を聞いた瞬間、強張っていた体から、ふっと力が抜けた。


 ルシアンは私を椅子に座らせると、ゆっくりと殿下に向き直った。


「殿下。ご無礼を承知で申し上げます」


 穏やかな口調だった。けれど、食堂の空気が一段冷えたような気がした。


「昨日の放課後、姉は僕と一緒に図書館におりました。閉館時間まで、ずっと。司書のハーヴェイ先生と、その場にいた生徒五名が証言してくださるでしょう」


「……ほう」


「ミア嬢の教科書が破られていたとされる日は、姉は風邪で学園を休んでおりました。ロッカーに泥が詰められていた日は、王太后陛下のお茶会に招かれておりました。すべて、記録が残っております」


 食堂が、再びざわめき始めた。今度は、さっきとは違う種類のざわめきだ。


 ミアの顔が、一瞬だけ引きつった。


「そ、そんなの、弟だから庇ってるだけじゃないですか!」


「ええ、僕は姉様の弟ですから。ですが、司書の先生や王太后陛下まで、姉様を庇う理由がおありでしょうか?」


 ミアが、ぐっと言葉に詰まる。


 殿下はしばらくルシアンを眺めていたが、やがて肩をすくめた。


「なるほど。今日のところは、私の分が悪いらしい」


 悔しがる様子もない。ただ、面倒な手続きが一つ増えた、とでも言いたげな顔だった。


「まあいい。証拠など、いくらでも揃う。卒業の夜会で、改めて婚約破棄を申し渡すとしよう」


 殿下はそれだけ言うと、ミアを連れて食堂を出ていった。


 去り際、ミアが振り返る。若草色の瞳が、ルシアンをじっと見つめていた。


 悔しそうな顔ではなかった。


 もっと――欲しいものを見つけたような、熱を帯びた目だった。


 


「……姉様、大丈夫ですか」


 騒ぎが収まった食堂で、ルシアンが私の前にしゃがみ込んだ。


「ごめんなさい。私、また……何もできなくて」


「謝らないでください。姉様が悪いことは、何一つありません」


「でも、あなたがいなかったら、私、あのまま……」


 殿下に捨てられることは、怖くなかった。最初から、愛されていないことは知っていたから。


 怖かったのは、命令されて、体が勝手に動いたことだ。


 九年経っても、私はまだ、あの部屋の床に額をつけたままなのだ。


「姉様」


 ルシアンが、私の手の甲に額を押し当てた。


「もう二度と、誰にも姉様を跪かせたりしません。王太子だろうと、誰だろうと」


 低く、絞り出すような声だった。


「……ルシアン?」


「なんでもありません。さあ、帰りましょう」


 顔を上げたルシアンは、いつもの優しい笑顔だった。


 けれど、握られた手から伝わる熱が、いつもより少しだけ熱く感じた。

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