第11話 胸が痛いのは、どうして
食堂の一件から、学園の空気は少しだけ変わった。
私を遠巻きにする令嬢は減り、代わりに「ミア様の話、本当だったのかしら」という声が聞こえるようになった。ルシアンが示した証拠は、思った以上に効いたらしい。
けれど、別の変化もあった。
「ルシアン様!」
ミアが、ルシアンにつきまとうようになったのだ。
「ルシアン様、この問題がわからなくて。教えていただけませんか?」
「ルシアン様、今日のお昼、ご一緒しても?」
「ルシアン様、ほら、見てください。中庭の薔薇が咲いたんですよ」
廊下で、図書館で、中庭で。
ルシアンが一人になる隙を狙っては、ミアは桃色の髪を揺らして駆け寄ってくる。殿下の婚約者候補になろうとしている聖女が、別の男性に近づくなんて。周りの生徒たちも眉をひそめていたけれど、ミアは気にする様子もなかった。
ゲームの知識がある彼女には、きっとわかっているのだ。
隠しキャラのルシアンを攻略する方法が。
(……大丈夫。ルシアンは、そんな簡単に心を許す子じゃない)
そう思っていた。
――あの日、図書館の奥で、二人の会話を聞くまでは。
返却する本を抱えて書架の間を歩いていると、聞き覚えのある声がした。
「ルシアン様って、本当はつらいんじゃないですか?」
足が止まる。
書架の隙間から覗くと、窓際の閲覧席に、ルシアンとミアが向かい合って座っていた。
「ロザリンド様に、ずっと縛られて。九歳のときから、ずっとロザリンド様のために生きてきたんでしょう?」
ミアは、ルシアンの手にそっと自分の手を重ねた。
「私、わかるんです。ルシアン様の本当の気持ち。ロザリンド様に恩があるから離れられないだけで、本当は自由になりたいって」
(……何を、言ってるの)
胸の奥が、すうっと冷えていく。
ルシアンは、ミアの手を振り払わなかった。
窓の外を見つめたまま、しばらく黙っていた。そして、静かに口を開く。
「……そうかもしれませんね」
抱えていた本が、腕の中でずしりと重くなった。
「やっぱり! 大丈夫ですよ、ルシアン様。私が、ちゃんとそばにいますから」
ミアが嬉しそうに笑う。ルシアンはそれに答えず、ただ曖昧に微笑んだ。
私は、音を立てないように後ずさった。
どうやって図書館を出たのか、覚えていない。
(そうかもしれない、って)
自室のベッドに座り込んで、私はぼんやりと膝を抱えた。
ミアの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
――ロザリンド様に、ずっと縛られて。
――恩があるから離れられないだけで。
(……そうだよね)
ルシアンは、九歳のあの夜から、ずっと私のそばにいてくれた。朝起こしに来て、昼は一緒に過ごして、夜は部屋の前まで送ってくれる。
私はそれを、当たり前のように受け取っていた。
でも、それは本当に、ルシアンが望んだことだったのだろうか。
助けてもらった恩を返すために、自分の時間も、自由も、全部私に差し出していただけなのでは。
(私、ルシアンを縛りつけてたのかな)
胸が、ずきりと痛んだ。
ミアの手が、ルシアンの手に重なっていた光景が、瞼の裏に焼きついて離れない。
ルシアンが他の誰かと幸せになるなら、姉として喜ぶべきだ。そう、わかっているのに。
(嫌だ)
どうしようもなく、そう思ってしまった。
ミアに触れられているルシアンを見るのが、嫌だった。あの子の隣にいるのが、私じゃないのが嫌だった。
(……これって)
ぎゅっと、胸元を握りしめる。
弟に対して、こんな気持ちになるのはおかしい。おかしいのに、痛みは少しも引いてくれなかった。
それから三日間、私はルシアンを避けた。
朝は彼が来る前に起きて、先に学園へ向かった。昼休みは友人の教室に逃げ込んだ。夜は「疲れたから」と、早々に部屋に鍵をかけた。
(少し、距離を置かなきゃ。ルシアンを、自由にしてあげなきゃ)
そう自分に言い聞かせて。
四日目の夜。
部屋で一人、本を開いても文字が頭に入ってこなくて、私はため息をついた。
そのとき、鍵をかけたはずの扉が、かちりと音を立てて開いた。
「――姉様」
振り返ると、ルシアンが立っていた。
手には、小さな銀の鍵。屋敷の合鍵だ。
「ル、ルシアン!? どうやって」
「執事長に借りました。姉様が具合を悪くして倒れているかもしれない、と言ったら、すぐに」
ルシアンは後ろ手に扉を閉めると、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
いつもの、穏やかな笑顔。けれど、紫の瞳だけが笑っていなかった。
「どうして、僕を避けるんですか」
「避けて、なんて」
「三日です。三日間、姉様は僕と目を合わせてくれなかった」
ルシアンが、私の座る椅子の肘掛けに両手をついた。逃げ道を塞ぐように、上から覗き込んでくる。
いつの間にこんなに大きくなったのだろう。見上げなければ、顔も見えない。
「僕が何か、姉様の気に障ることをしましたか」
「……違うの」
喉が詰まる。それでも、言わなければと思った。
「図書館で、聞いちゃったの。ミアさんとの話」
ルシアンの表情が、わずかに動いた。
「ルシアン、ずっと私のために無理してたんでしょう? だから、もういいの。私のことは気にしないで、あなたの好きな人と――」
「好きな人」
ルシアンが、低く繰り返した。
「姉様は、僕があの女を好きだと思ったんですか」
「だって……そうかもしれないって、言ってたから」
ふっと、ルシアンが笑った。
でもそれは、いつもの優しい笑みとは違う。どこか苦しげで、ひどく甘い笑い方だった。
「あれは、あの女の口を軽くさせるための嘘です。姉様を陥れようとしている人間の手の内を探るには、油断させるのが一番ですから」
「……え?」
「聞いていたなら、最後まで聞いてくだされば良かったのに。あの女、自分で教科書を破ったことまで、得意げに話していましたよ」
ルシアンは片手を伸ばして、私の頬にそっと触れた。
「姉様。僕は、縛られてなんかいません」
親指が、目の下をなぞる。泣いていたことに、そこで初めて気づいた。
「僕が姉様のそばにいるのは、恩返しなんかじゃない。僕がそうしたいからです。姉様の隣以外に、僕の居場所なんてありません」
「ルシアン……」
「だから、二度と僕から離れようとしないでください」
頬に触れていた手が、するりと首筋へ滑り落ちる。
ぞくりと、背筋が震えた。
「姉様が僕を避けた三日間、僕がどんな気持ちだったかわかりますか。気が狂いそうでした。姉様が誰かに何かを吹き込まれたんじゃないか。僕以外の誰かを頼ったんじゃないか。……いっそ、この部屋に閉じ込めてしまおうかと思ったくらいです」
「と、閉じ込め……!?」
「冗談ですよ」
ルシアンは、にっこりと笑った。
(……本当に?)
聞き返せなかった。紫の瞳が、まったく冗談に見えなかったから。
ルシアンは上着の内側から、小さな箱を取り出した。
中に収められていたのは、銀の細いブレスレットだった。小さな紫の宝石が、一粒だけ嵌め込まれている。
「宝石、って読むんですよね」
「え……」
「九歳のとき、姉様が教えてくれた最初の言葉です」
ルシアンは私の左手を取ると、手首にそっとブレスレットを嵌めた。かちり、と留め金が閉まる。
「これを、ずっとつけていてください。姉様が誰のものか、皆にわかるように」
「誰の、もの……?」
「姉様は、僕の姉様ですから」
そう言って、ルシアンは私の手首の内側に、そっと唇を押し当てた。
宝石のすぐ下。脈を打つ、柔らかな場所に。
「王太子にも、あの女にも、誰にも渡しません。姉様は、僕だけのものです」
ルシアンが部屋を出ていったあとも、私はしばらく動けなかった。
手首が、燃えるように熱い。心臓が、耳元で鳴っているみたいにうるさい。
(弟、なのに)
胸の痛みは、いつの間にか消えていた。
代わりに、もっと厄介な何かが、胸の奥で静かに暴れ始めていた。




