第12話 準備は、すべて整った(ルシアン視点)
姉様に避けられた三日間は、地獄だった。
朝、部屋を訪ねると、もう姉様はいなかった。昼休みに教室へ行けば、友人の陰に隠れるようにして目をそらされた。夜、扉の前で名前を呼んでも、返ってくるのは「疲れたから」という小さな声だけ。
鍵のかかった扉の前で、僕は何度も拳を握りしめた。
(誰だ)
姉様に何を吹き込んだ。僕から姉様を遠ざけようとしているのは、誰だ。
王太子か。あの女か。それとも、屋敷の継母か。
答えがわかったのは、三日目の夕方だった。
「エーデル様。先日、お姉様が書架の奥にいらっしゃいましたよ。閲覧席のほうをご覧になって、本を抱えたまま、急いでお帰りになって」
図書館の司書の言葉に、全身の血が冷えた。
――あれを、聞かれていた。
あの女――ミア・ローレルに近づいたのは、情報を引き出すためだった。
初めて会ったときから、あの女はおかしかった。誰にも名乗っていない僕の名前を知っていた。僕の過去を、まるで見てきたように語った。
『ルシアン様、九歳の冬に物置に閉じ込められたんですよね。つらかったでしょう』
それを知っているのは、姉様と、ダミアンと、マリーだけのはずだ。
あの女は、他にも妙なことを口走った。シナリオ。隠しキャラ。悪役令嬢。攻略。意味のわからない言葉ばかりだったが、一つだけはっきりしていた。
あの女は、姉様を陥れるつもりだ。
だから、油断させた。姉様に縛られて苦しんでいる弟を演じて、手を握らせて、望む言葉をくれてやった。
案の定、あの女はべらべらとしゃべった。
『教科書? あれ、自分で破ったんですよ。だって、ロザリンド様が全然いじめてくれないんだもの』
『階段の件は、殿下が目撃者を用意してくれるって。ほら、殿下も婚約破棄の理由が欲しいから』
僕の上着の内ポケットには、小さな録音の魔石が入っていた。
あの女の言葉は、一言一句、すべてその中に残っている。
問題は、それを姉様に聞かれたことだった。
――そうかもしれませんね。
あんな、心にもない言葉を。
姉様は、どんな顔でそれを聞いたのだろう。考えるだけで、胸を掻きむしりたくなった。
四日目の夜、執事長から合鍵を借りた。
扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、一人で椅子に座る姉様の姿だった。泣いた跡のある目元。僕を見て、怯えたように揺れる瞳。
――ルシアン、ずっと私のために無理してたんでしょう?
――あなたの好きな人と。
(何を、言っているんだ)
好きな人? あの女を?
この九年、僕の目には姉様しか映っていなかったのに。
姉様が僕から離れようとしていると知ったとき、頭の奥で何かが切れる音がした。本当に、閉じ込めてしまおうかと思った。この部屋の扉に鍵をかけて、窓を塞いで、僕以外の誰の目にも触れさせないように。
でも、姉様の手首に触れたとき、その脈が驚くほど速く打っていて。
僕を見上げる瞳が、怯えではなく、戸惑いと、それから何か別の熱で揺れているのがわかって。
――ああ、まだだ、と思った。
まだ、全部は言えない。血が繋がっていないことも、僕が本当は何者なのかも。
すべてを片づけて、姉様を縛るものが何一つなくなってから。そのときに、全部伝えればいい。
だから今は、宝石の嵌まったブレスレットで我慢した。
姉様の手首に光る、僕の瞳と同じ色。
それを見るだけで、少しだけ息ができる気がした。
その夜、僕は父上の執務室を訪ねた。
「揃いました」
机の上に、書類の束と魔石を並べていく。
「ミア・ローレルの自作自演を認める証言。王太子殿下が、婚約破棄の口実を作るために生徒を買収した記録。買収された三名の生徒の、署名入りの告白書」
父上は黙って、一枚ずつ目を通していく。
「それから、こちらを」
僕は、別の束を差し出した。
「コーデリア夫人が、この十二年間でエーデル家の財産から横領した金額の明細です。ダミアンの賭博の借金を、夫人が家の金で肩代わりしていました」
父上の眉が、ぴくりと動いた。
「さらに、ダミアンは王太子殿下の側近に近づいています。姉様が断罪されれば、エーデル家の後継は自分になると考えたのでしょう。王太子殿下に買収用の資金を流していたのは、ダミアンです」
すべてが、一本の糸で繋がっていた。
姉様を悪役に仕立てたい女。姉様を捨てる口実が欲しい男。姉様を蹴落として家を手に入れたい母子。
互いに利用し合って、姉様一人を踏みつけようとしている。
「……そして、これが最後です」
僕は、古びた手紙を一通、机に置いた。
「父上がずっと、ご覧にならなかったもの。姉様付きの侍女マリーが、ずっと書き留めていた記録です。コーデリア夫人が、姉様に何をしてきたか」
父上の手が、止まった。
長い沈黙のあと、父上は手紙を開いた。一行読むごとに、その顔から血の気が失せていく。
「……私は」
かすれた声だった。
「私は、何も見ていなかったのだな」
「ええ」
僕は、否定しなかった。
「だからこそ、今度は見ていてください。姉様が、もう二度と誰にも跪かずに済むように」
父上は目を閉じ、深く息を吐いた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「好きにしろ、ルシアン。エーデル家の名にかけて、お前を支持する」
執務室を出ると、廊下の窓から月が見えた。
十八歳の誕生日の夜と、同じ月だ。
卒業の夜会まで、あと一か月。
王太子は、あの夜会で姉様に婚約破棄を突きつけるつもりでいる。大勢の貴族の前で、聖女を虐げた悪女として。
――いいだろう。
舞台は、向こうが用意してくれた。
僕は、ポケットの中のペンダントを握りしめる。ノルディア王家の紋章が、指の腹にひやりと冷たい。
その夜会には、隣国の大使も招かれている。滅びたノルディアの旧領を併合し、今は大陸一の版図を持つ帝国の使者が。
そして、その帝国の皇后が、ノルディア最後の王女の姉――僕の伯母であることを、この国の誰もまだ知らない。
(姉様)
姉様の部屋の方角を見上げる。
今頃、あの人は眠れているだろうか。手首のブレスレットを、外さずにいてくれているだろうか。
「もうすぐです、姉様」
月明かりの下で、僕は小さく笑った。
「あなたを傷つけたものは、全部、僕が終わらせてあげます。だから、もう少しだけ待っていてください」




