第13話 卒業の夜会
卒業の夜会の日は、朝から雨が降っていた。
「姉様、こちらへ」
支度部屋の鏡の前で、ルシアンが私の肩にそっと手を置いた。
今夜のドレスは、彼が選んでくれたものだ。夜明け前の空のような、深い紫。裾に向かって銀糸の刺繍が細かく散りばめられていて、動くたびに星屑のようにきらめく。
「紫は、王族の色だから避けるべきだって、マリーが言ってたけど……」
「問題ありません。今夜は、この色でなければ駄目なんです」
ルシアンは、私の首元に銀の首飾りをかけた。手首のブレスレットと揃いの、紫の宝石が一粒だけ嵌められている。
「……ルシアンの瞳と、同じ色ね」
「ええ。わざとです」
鏡越しに目が合って、ルシアンが微笑んだ。
あの夜から、私はブレスレットを一度も外していない。外そうと思ったこともなかった。手首に触れる冷たい感触が、なぜだか安心するのだ。
(今夜、殿下は婚約破棄を宣言する)
ゲームと同じように。大勢の貴族の前で、聖女を虐げた悪女として。
ルシアンは「大丈夫です」としか言わなかった。何を準備しているのか、何度聞いても教えてくれなかった。
「姉様」
ルシアンが、鏡の前で私の手を取った。
「今夜、何が起きても、僕の手を離さないでください。姉様は、ただ胸を張って立っていればいい」
「……うん」
頷くと、ルシアンは私の指先に口づけを落とした。
王宮の大広間は、まばゆいシャンデリアの光に満ちていた。
卒業生とその家族、招待された貴族たち。数百人が集まる会場に、私がルシアンの腕を取って足を踏み入れた瞬間、ざわめきが波のように広がった。
「まあ、エーデル嬢よ」
「あのドレス、紫……?」
「今夜、殿下が何か発表なさるって噂、本当かしら」
ひそひそ声が、四方から突き刺さる。けれど、腕に添えたルシアンの体温が、私の背筋をまっすぐに保ってくれた。
会場の隅に、見慣れた姿があった。
お義母様とダミアンだ。
お義母様は扇で口元を隠しながら、私を見てうっすらと笑っていた。ダミアンは、何かを確信したようなにやにやとした顔をしている。
(どうして、あの二人がここに)
背中に冷たい汗がにじむ。九年経っても、お義母様と目が合うと体がこわばってしまう。
「姉様。僕を見て」
耳元で、ルシアンが囁いた。
「あの人たちは、もう姉様に何もできません。僕がいますから」
見上げると、紫の瞳が穏やかに私を見下ろしていた。
不思議と、震えが少しだけおさまった。
夜会が始まって一時間ほど経った頃。
楽団の演奏が、ふいに止んだ。
「皆、少し時間をもらいたい」
大広間の正面、一段高くなった壇上に、エドワード殿下が立っていた。その隣には、純白のドレスに身を包んだミアが寄り添っている。
まるで、花嫁のように。
「ロザリンド・エーデル。前へ」
会場中の視線が、一斉に私へ向けられた。
(来た)
喉がからからに乾いていく。足が床に縫いつけられたように動かない。
ルシアンが、私の手をそっと握りしめた。
「行きましょう、姉様。僕も一緒です」
彼に導かれるようにして、私は人垣の間を進んだ。左右に割れていく貴族たちの視線が、針のように痛い。
壇上の殿下は、相変わらず退屈そうな顔で私を見下ろしていた。
「ロザリンド。この場をもって、お前との婚約を破棄する」
会場が、どよめいた。
殿下は気にする様子もなく、淡々と続ける。
「理由は、聖女ミア・ローレルへの度重なる嫌がらせだ。教科書の破損、私物の汚損、そして階段からの突き落とし未遂。未来の王妃として、あるまじき振る舞いだ」
「殿下、それは」
「証人もいる」
殿下が軽く手を上げると、壇の脇から三人の生徒が進み出た。
見覚えのない顔ばかりだった。
「わ、私は見ました。エーデル様が、ミア様を階段で突き飛ばすところを」
「僕も、エーデル様がミア様のロッカーに何かを入れているのを見ました」
「エーデル様が、ミア様を『平民の分際で』と罵っているのを、何度も……」
三人とも、決して私と目を合わせようとしなかった。
(嘘だ。全部、嘘)
でも、それを証明する術が、私にはない。
「ひどいです、ロザリンド様」
ミアが、殿下の腕にすがって目を潤ませた。
「私、ずっと我慢してきたんです。でも、もう怖くて……」
ミアの泣き顔を見て、貴族たちがざわめく。
「なんてこと」
「やはり、あの噂は本当だったのね」
「公爵令嬢ともあろう方が」
会場の隅から、くすくすと笑う声が聞こえた気がした。お義母様だ。見なくても、わかる。
視界が、ぐらりと揺れた。
あの部屋の匂いがする。甘い香水と、暖炉の火。
――あなたを守ってくれる人なんて、どこにもいないのよ。
「さて、ロザリンド」
殿下の声が、遠くから聞こえた。
「この場でミアに跪いて謝罪するなら、修道院送りで済ませてやろう。どうする?」
反射といってもいい、「跪け」その言葉に膝が、かくりと折れかける。
――そのとき。
握られた手に、ぎゅっと力がこもった。
「姉様」
ルシアンの声だった。
はっとして顔を上げる。ルシアンは私の手を握ったまま、まっすぐに壇上を見据えていた。
「僕の手を、離さないで」
――今夜、何が起きても、僕の手を離さないでください。
支度部屋での言葉が、耳の奥でよみがえる。
私は、震える指で、ルシアンの手を握り返した。
折れかけた膝に、ぐっと力を込める。
背筋を伸ばす。顎を上げる。
そして、壇上の殿下を、初めて真正面から見つめ返した。
「――お断りいたします」
大広間が、水を打ったように静まり返った。
「私は、ミアさんに何もしておりません。身に覚えのない罪で、謝罪はできません」
声は、少しだけ震えていた。
それでも、最後まで言い切った。
殿下が、わずかに眉を上げる。ミアの顔から、すっと涙が引いていく。
隣で、ルシアンがかすかに笑う気配がした。
「よく言えましたね、姉様」
囁くような声だった。
「あとは、僕に任せてください」
ルシアンは私の手を握ったまま、一歩前へ出た。
シャンデリアの光を受けて、銀色の髪がきらめく。
「王太子殿下。発言をお許しいただけますか」
その声は、ひどく穏やかで。
だからこそ、背筋が凍るほど冷たく、大広間に響き渡った。




