第8話 姉様は、僕の姉様じゃなかった(ルシアン視点)
冬の終わり、十八歳の誕生日の夜、僕は父上の執務室に呼ばれた。
「座りなさい、ルシアン」
重厚な机の向こうで、父上は珍しく書類を脇に避けていた。暖炉の火が、彼の横顔に深い影を落としている。
「成人した今、お前に話しておかなければならないことがある」
そう言って差し出されたのは、古びた銀のペンダントだった。
蓋を開けると、中には小さな肖像画が収められていた。銀の髪に、紫の瞳の女性。――母さんだ。
その隣に、見たこともない紋章が刻まれていた。
「これは、二十年前に滅んだノルディア王国の王家の紋章だ」
父上の声は、静かだった。
「お前の母は、ノルディアの最後の王女だった。そしてお前の父は、私の親友だったノルディアの騎士だ。国が滅びたとき、彼は命と引き換えに、身重の王女を逃がした」
頭の中が、真っ白になった。
「王女は、追手から逃れるために名を捨て、王都の片隅に隠れ住んだ。私は彼女を探し続けたが、見つけたときにはもう……」
父上は言葉を切った。
「お前を引き取るには、理由が必要だった。だから、愛人の子と偽った。ノルディアの血を引く者がいると知れれば、今もお前の命を狙う者がいるからだ」
――誰にも、あなたの名前を教えてはだめよ。
母さんの声が、耳の奥でよみがえった。
ずっと、わからなかった。母さんが何に怯えていたのか。なぜ僕を戸棚に隠したのか。
「すまなかった、ルシアン。お前に、卑しい血と呼ばれる屈辱を味わわせた」
父上が、深く頭を下げた。
この人が誰かに頭を下げるのを、僕は初めて見た。
「……一つ、聞いてもいいですか」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「では、僕と姉様は」
「血の繋がりはない。お前はエーデルの人間ではないのだ」
執務室を出て、どうやって部屋まで戻ったのか覚えていない。
気づくと、僕は姉様の部屋の前に立っていた。
扉の隙間から、柔らかな明かりが漏れている。まだ起きているのだろう。いつものように扉を叩けば、きっと「どうしたの、ルシアン」と笑って迎えてくれる。
でも、手が動かなかった。
(血の繋がりはない)
父上の言葉が、頭の中で何度も響く。
九歳のあの夜から、僕にとって姉様は世界のすべてだった。
凍えた物置から助け出してくれた人。僕のために、震えながら床に跪いた人。泣きじゃくる僕を抱きしめて、「ありがとう」と言ってくれた人。
僕は、姉様を守ると誓った。
そのために勉強した。剣を習った。父上の仕事を手伝い、貴族たちの弱みを調べ上げ、屋敷の使用人たちを一人ずつ味方につけた。あの女が二度と姉様に手を出せないように。姉様の周りから、危ないものをすべて遠ざけられるように。
それは全部、弟として当然のことだと思っていた。
姉様に近づく男を見ると、胸の奥が焼けつくように痛むのも。
姉様が他の誰かに笑いかけるたびに、その相手を消してしまいたくなるのも。
ダンスの練習で姉様の腰に手を回したとき、心臓がうるさくて眠れなかったのも。
全部、弟だから。家族だから。大切な姉様だから。
――そう、自分に言い聞かせてきた。
(違う)
扉に額を押しつける。
(違ったんだ)
本当は、もうずっと前から気づいていた。気づかないふりをしていただけだ。
この気持ちが、弟が姉に向けるものとは違うことに。
でも、許されないと思っていた。僕たちは姉弟だから。この想いは、一生胸の奥に沈めておくしかないのだと。
それが今夜、すべてひっくり返った。
僕は、姉様の弟じゃない。
姉様は、僕の姉様じゃない。
だったら――手に入れても、いいんじゃないか?
「……ルシアン?」
扉が内側から開いて、姉様が顔を覗かせた。
寝間着の上にショールを羽織って、ほどいた金色の髪が肩に流れている。
「やっぱり。足音がしたのに、ノックがないから。どうしたの? お父様のお話、何だったの?」
心配そうに見上げてくる、柔らかな瞳。
――ああ、駄目だ。
この人を、誰にも渡したくない。
「……なんでもありません。誕生日のお祝いを、いただいただけです」
「本当? なんだか、顔色が悪いわ」
姉様が背伸びをして、僕の額に手を当てる。ひんやりとした指先が触れた瞬間、体中の血が沸き立つようだった。
「熱はないみたいね。今日は早く寝なさい。誕生日なんだから」
「……はい。姉様」
姉様、と呼ぶ自分の声が、今までと違って聞こえた。
その夜、僕は一睡もできなかった。
窓の外の月を見上げながら、一つずつ、考えを整理していく。
姉様には、婚約者がいる。
この国の王太子、エドワード。四年前に結ばれた政略結婚だ。あの男は、姉様に手紙の一通も寄越さない。夜会で顔を合わせても、ろくに目も合わせない。姉様の価値をまるでわかっていない、愚かな男。
(あれは、いらない)
そして、この屋敷には、まだあの女とダミアンがいる。
姉様は今でも、廊下であの女とすれ違うたびに肩をこわばらせる。九年経っても、あの夜の痛みは消えていない。
(あれも、いらない)
姉様を傷つけるもの。姉様を縛るもの。姉様と僕の間に立つもの。
すべて、片づけてしまえばいい。
時間はある。準備も、これまで九年かけて少しずつしてきた。
ただ、焦ってはいけない。姉様に気づかれてはいけない。
あの人は優しいから、僕が誰かを傷つけたと知ったら、きっと悲しむ。
だから姉様には、何も知らないまま、笑っていてほしい。
汚い仕事は、全部僕がやる。
ペンダントを握りしめる。
母さん。あなたは、僕に名前を隠せと言った。生き延びるために、目立たず、欲しがらず、期待せずに生きろと。
でも、ごめんなさい。
僕は、欲しいものを見つけてしまった。
月明かりの下で、僕は静かに笑った。
「姉様。あなたが僕を見つけてくれたように、今度は僕が、あなたを手に入れる番です」




