第7話 弟が過保護すぎて困っています
あの夜から、九年が過ぎた。
私は十九歳になり、ルシアンは十八歳になった。
「姉様、起きてください。朝ですよ」
柔らかな声と一緒に、カーテンが開けられる音がした。
まぶしさに目を細めると、窓辺に背の高い青年が立っている。朝日に透ける銀色の髪。すっと通った鼻筋に、甘く細められた紫の瞳。
かつて屋根裏で膝を抱えていた小さな男の子は、いつの間にか立派な美青年になっていた。
(……毎朝見ても、慣れないなあ)
「おはよう、ルシアン。でも、起こしに来るのはマリーの仕事よ?」
「マリーには頼んで譲ってもらいました。姉様の寝顔を最初に見るのは、僕がいいので」
「もう、またそういうことを言って」
ルシアンはくすりと笑って、ベッドの脇に膝をついた。そして、ごく自然に私の手を取り、指先に唇を寄せる。
「よく眠れましたか? 背中は痛みませんか?」
「痛むわけないでしょう。何年前の話よ」
あの夜以来、お義母様の部屋に呼ばれたことは一度もない。
ルシアンが、片時も私のそばを離れなくなったからだ。
朝は起こしに来て、昼は一緒に勉強をして、夜は私が部屋に戻るまで廊下で見送る。お義母様が私を呼びつけようとすれば、いつの間にかルシアンが隣に立っていて、にこにこと笑いながらついてくる。
お父様の目もあり、正式な息子に手を上げることは、さすがのお義母様にもできなかった。
あれから、お義母様とダミアンは私たちを遠巻きに睨むだけになった。今でも廊下ですれ違うと、体が勝手にこわばってしまうけれど。
「今日は、ヘンドリック伯爵家のお茶会でしたね。ドレスはこちらでいかがですか?」
ルシアンが、すでに用意されていた淡い水色のドレスを示す。
「あら、私は赤いのにしようと思ってたのに」
「赤は駄目です」
即答だった。
「姉様の赤いドレスは、目立ちすぎます。余計な虫が寄ってくる」
「虫って」
「それに、首元がもう少し詰まったものにしましょう。今日は少し肌寒いですから」
(……寒くないけど)
窓の外は、雲一つない春の陽気だ。
でも、ルシアンがあまりにも真剣な顔をしているので、私は苦笑して頷いた。
ヘンドリック伯爵家の庭園は、春の花で埋め尽くされていた。
「エーデル公爵令嬢、お久しぶりです。今日もお美しい」
声をかけてきたのは、ヘンドリック伯爵家の次男、アラン様だった。人当たりのいい笑顔で、私に手を差し出す。
「よろしければ、庭園をご案内しても?」
「まあ、ありがとうございます。ぜひ――」
「姉様」
背後から、すっと腰に手が回された。
振り返ると、ルシアンがにこやかに微笑んでいた。
「申し訳ありません、アラン殿。姉は少し体が弱いもので。日差しの強い場所は避けるよう、医師から言われているのです」
(えっ、言われてないけど!?)
「そ、そうでしたか。それは失礼を」
「いえ。ああ、そういえば」
ルシアンは、笑顔のままアラン様に一歩近づいた。
「先月、アラン殿が王都の賭博場で作られた借金の件。伯爵閣下は、もうご存じなのでしょうか?」
アラン様の顔から、さあっと血の気が引いた。
「な、なぜそれを」
「さあ、なぜでしょう」
ルシアンは小首をかしげる。
「姉様のお相手には、誠実な方がふさわしいと思いませんか?」
アラン様は真っ青な顔で一礼すると、逃げるように去っていった。
私には、二人の会話がよく聞こえなかった。ルシアンが私の耳をさりげなく手で覆っていたからだ。
「ルシアン、今アラン様と何を話していたの?」
「大したことではありませんよ。姉様の体調を気遣っていただいたので、お礼を」
「そう? なんだか、ものすごく顔色が悪かったけど……」
「春は体調を崩しやすいですからね」
ルシアンはにっこりと笑った。
その後も、似たようなことが三回あった。
話しかけてきた子爵家の令息は、なぜか急用を思い出して帰っていった。ダンスに誘ってくれた騎士様は、ルシアンと何か話したあと、真っ白な顔で「やはり遠慮します」と頭を下げた。
(……私って、そんなに魅力がないのかしら)
帰りの馬車の中で、私はため息をついた。
「どうしました、姉様?」
「ううん。ただ、私って男性に好かれないんだなあって」
向かいに座っていたルシアンが、一瞬だけ動きを止めた。
「十九歳にもなって、浮いた話の一つもないなんて。王太子殿下との婚約がなければ、きっと行き遅れね」
そう。私には、婚約者がいる。
この国の王太子、エドワード殿下。十五歳のときに結ばれた政略結婚で、殿下は私に興味がないらしく、手紙の一通もくれたことがない。
(そして来月から、ゲームの本編が始まる)
王立学園に、平民出身の聖女ヒロインが編入してくる。殿下はヒロインに恋をして、最後には私を断罪する。
ゲームの知識を思い出すたび、胃のあたりが重くなった。
「姉様は」
ルシアンの声に、顔を上げる。
向かいの席から、彼が身を乗り出していた。紫の瞳が、いつもより少しだけ暗い色をしている気がした。
「姉様は、好かれたいんですか? 僕以外の男に」
「え?」
「……いえ。なんでもありません」
ルシアンはすぐにいつもの笑顔に戻って、私の手をそっと握った。
「姉様は、世界で一番魅力的な人ですよ。僕が保証します」
「ふふ、ありがとう。ルシアンは本当に優しいわね」
私は笑って、彼の手を握り返した。
(こんなに姉思いの弟に育ってくれて、本当によかった)
あの夜、泣きながら「姉様」と呼んでくれた小さな男の子。今ではすっかり立派になって、こうして私を気遣ってくれる。
少し過保護すぎるのが、玉に瑕だけれど。
「ルシアンも、そろそろ好きな人を見つけないとね。あなたほど素敵なら、どんな令嬢だって喜ぶわ」
握った手に、ぎゅっと力がこもった。
「――好きな人なら、もういますよ」
「えっ、本当!? 誰、誰なの?」
思わず身を乗り出した私に、ルシアンはただ微笑んだ。
どこか切なげで、それでいて、決して逃がさないとでも言うような目で。
「秘密です。……今は、まだ」
馬車が屋敷に着くまで、ルシアンは私の手を一度も離さなかった。




