第6話 初めて呼ばれた名前
その夜、お義母様の部屋に呼ばれた。
予想はしていた。昼間、ダミアンが顔を真っ赤にして去っていったときから、ずっと。
「旦那様に、余計なことを吹き込んだそうね」
扉が閉まるなり、冷たい声が飛んでくる。
「わたくしが、あの子を虐げていると? まるで、わたくしが悪者みたいじゃない」
「……申し訳、ありません」
「何をしているの?早く跪きなさい」
言われるより先に、膝が床についていた。
昼間はダミアンの前に立てたのに、この部屋に入るとだめだ。体が勝手に小さく縮こまってしまう。
「あの汚らわしい子に、随分と懐かれているようね。お似合いだわ。母親に見捨てられた子ども同士、傷を舐め合っていればいいのよ」
絨毯に額を押しつけたまま、私は黙っていた。
「でも、覚えておきなさい。旦那様は、いつもこの屋敷にいるわけではないの。あなたたちを守ってくれる人なんて、どこにもいないのよ」
ひゅ、と鞭が空気を裂いた。
(大丈夫。大丈夫。我慢できる)
私が打たれているうちは、お義母様の矛先はあの子に向かない。
そう思えば、不思議と耐えられた。
自室へ戻る廊下は、いつもより長く感じた。
背中が燃えるように熱い。壁に手をつきながら、一歩ずつ進む。
隣のルシアンの部屋の前を通るとき、思わず足音を殺した。
(今夜は、会いに行けないな)
昼間、彼は「明日も中庭で本を読もう」と言ってくれた。初めて、彼のほうから誘ってくれたのだ。
明日までに、ちゃんと笑えるようにしておかなくちゃ。
「お嬢様、今夜は特にひどい……」
部屋に戻ると、マリーが青ざめた顔で私の背中に軟膏を塗り始めた。
「大丈夫よ、マリー。それより、包帯をきつめに巻いてくれる? 明日、ルシアンと中庭に行く約束をしてるの」
「お嬢様……」
マリーが涙声で包帯を巻いていく。私は寝間着の前を胸に抱えて、ぎゅっと目を閉じた。
そのときだった。
かたん、と扉のほうで小さな音がした。
振り返る。少しだけ開いた扉の隙間に、銀色の髪が見えた。
「……ルシ、アン?」
血の気が引いた。
慌てて寝間着を引き上げる。でも、遅かった。紫の瞳は、私の背中に巻かれた包帯を、まっすぐに見つめていた。
「なんで、ここに」
「……今日、来なかったから」
かすれた声だった。
「昼間、あんなことがあったから。ダミアンに何かされたんじゃないかって、思って」
ルシアンは扉を押し開けて、一歩、部屋に入ってきた。
「それ、何」
「なんでもないの。ちょっと、転んで」
「嘘だ」
ぴしゃりと遮られる。
「転んで、背中にそんな包帯巻くわけない。……ダミアンか?」
「違うわ、本当に」
「じゃあ、誰」
答えられなかった。
ルシアンの視線が、私から、涙目になっているマリーへと移る。マリーは唇を噛んでうつむいた。
その沈黙が、答えになってしまった。
「……あの女か」
ルシアンの声が、低く震えた。
「いつから」
もう、隠せなかった。
「……お母様が亡くなって、お義母様が来てから、しばらくしてから、ずっと……」
ルシアンが、息を呑む音が聞こえた。
「じゃあ、あんたがいつも顔色悪かったのって」
「……」
「屋根裏に来るとき、ふらついてたのも。座るとき、痛そうにしてたのも」
一つ一つ、確かめるように言葉が落ちてくる。
「――最初の夜も? 僕を庇った、あの日も?」
私は、何も言えなかった。
ルシアンの顔が、くしゃりと歪んだ。
「なんで……っ」
小さな拳が、ぎゅっと握りしめられる。
「なんで言わなかったんだよ! 僕を庇うたびに、あの女にやられてたんだろ!? 僕のせいで!」
「違う!」
思わず、大きな声が出た。背中に痛みが走ったけれど、構っていられなかった。
「あなたのせいじゃない。あなたが来る前から、ずっとそうだったの。だから、あなたは何も悪くない」
「でも!」
「それにね」
寝間着の前を押さえたまま、私はルシアンに向き直った。
「あなたを庇ってから、少しだけ平気になったのよ」
「……は?」
「前は、何のために我慢してるのかわからなかった。でも今は違う。私が我慢してるあいだは、お義母様はあなたに手を出さない。そう思ったら、怖いのも痛いのも、ちょっとだけ耐えられるようになったの」
ルシアンが、目を見開いた。
「……ばか、じゃないの」
その声が、震えていた。
「ばかじゃないの。そんなの、おかしいだろ。自分が痛いのに、僕のために、とか」
ぽたり、と。
紫の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
初めて見る、ルシアンの涙だった。
殴られても、物置に閉じ込められても、一度だって泣かなかった子が。
「僕、ずっと……あんたのこと、信じきれなかった。いつか飽きて、来なくなるって。昼間助けてくれないのも、結局その程度なんだって」
しゃくりあげながら、ルシアンは言葉を絞り出す。
「なのに、あんたは、ずっと……っ」
私はそっと手を伸ばして、彼の頭を撫でた。
「いいのよ。信じられなくて、当たり前だもの」
「よく、ない……!」
ルシアンが、私の寝間着の袖を掴んだ。物置の夜と同じように。でも今度は、すぐには離さなかった。
ぎゅっと、指が白くなるほど強く握りしめる。
そして、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「――姉様」
時間が、止まった気がした。
「姉様。……もう、一人で我慢しないで」
初めて呼ばれた。
あんた、じゃなくて。姉様、と。
胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。気づいたら、私の目からも涙があふれていた。
「……うん。うん、ありがとう、ルシアン」
背中の痛みも忘れて、小さな体を抱きしめる。ルシアンは一瞬びくりと固まって、それからおずおずと私の背に手を回した。
包帯の上を避けるように、そっと。
その夜、ルシアンは私が眠るまでベッドの横に座っていた。
「姉様が寝るまで、ここにいる」
何度部屋に戻るよう言っても、首を横に振るばかりだった。
うとうとと瞼が重くなっていく中で、彼の小さな声が聞こえた。
「もう、姉様に痛いことはさせない」
それは、まだ九歳の子どもの、精一杯の誓いだった。
――翌朝、目を覚ますと、ルシアンはベッドの端に突っ伏して眠っていた。
私の手を、しっかりと握ったまま。




