第5話 昼間も、あなたの味方でいたい
物置の夜から三日が経った。
ルシアンは約束どおり、次の夜に外套を返してくれた。きちんとたたまれて、雪の染みまで拭き取られていた。
それから、屋根裏での会話が少しだけ増えた。今日読んだ本の話。窓から見えた鳥の話。相変わらず「あんた」としか呼んでくれないけれど、私が話す間、彼はもう距離を取らずにすぐ隣に座っている。
でも、昼間は何も変わっていなかった。
(このままじゃだめだ)
夜にしか会いに行けない姉なんて、本当の味方とは言えない。
ルシアンは「来なくていい」と言ってくれた。でも、それはあの子が優しいからだ。期待しないことに慣れているからだ。
私は、あの子にそんな慣れ方をさせたくなかった。
お父様の執務室の前に立つのは、生まれて初めてだった。
お母様が亡くなってから、お父様とまともに話した記憶がない。食事の席で顔を合わせても、交わすのは挨拶くらい。お義母様のことも、私の背中の傷のことも、きっと何も知らない。
(……怖い。でも、お義母様よりはまし)
深呼吸を一つして、扉を叩いた。
「入れ」
低い声に、肩が跳ねる。
中に入ると、お父様は山積みの書類から顔を上げ、少しだけ眉を上げた。
「ロザリンドか。珍しいな」
「お、お忙しいところ、申し訳ありません。お願いがあって、参りました」
ドレスの裾を握りしめる。手のひらが汗でじっとりと湿っていた。
「ルシアンのことです。あの子は今、屋根裏で寝起きしていて、家庭教師もついていません。お父様が家族として迎えた子なのに」
お父様の表情が、わずかに動いた。
「……屋根裏だと?」
「はい。それに、昼間は薪運びや掃除をさせられています」
ダミアンの名前も、お義母様の名前も出さなかった。出したら、あとでどうなるかわからない。
それでも、お父様にはそれだけで伝わったらしい。ペンを置いて、深く息をついた。
「コーデリアに任せていたのだがな」
(任せていたら、こうなるんです)
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「お願いです。あの子に、ちゃんとしたお部屋をください。それから、私と一緒にお勉強をさせてあげたいんです」
お父様は、しばらく黙って私を見ていた。
何を考えているのか、まったく読めない灰色の瞳。やがて、ふっと視線が外された。
「わかった。手配しよう」
「……え?」
「部屋はお前の隣でいい。家庭教師にも伝えておく」
あまりにあっさりとした答えに、私はぽかんと立ち尽くした。
「……あ、ありがとうございます!」
「ロザリンド」
慌てて頭を下げた私を、お父様が呼び止める。
「あの子のことを、頼む」
その声は、なぜかひどく重く聞こえた。
その日の午後、ルシアンの荷物が屋根裏から運び出された。
荷物といっても、私が渡した本と毛布くらいしかなかったけれど。
新しい部屋の真ん中で、ルシアンは呆然と立ち尽くしていた。ふかふかのベッド、大きな窓、暖炉。それを一つ一つ、信じられないものを見るような目で眺めている。
「……これ、どうしたの」
「今日からここが、あなたのお部屋よ」
「なんで、急に」
「お父様にお願いしたの」
ルシアンが、ばっとこちらを振り向いた。
「あんたが?」
「うん」
「……怖くなかったの」
怖かった。足が震えて、声もちゃんと出ていたかわからない。
でも、今は胸を張って言えた。
「怖かったわ。でも、あなたが屋根裏で凍えてるほうが、もっと嫌だったの」
ルシアンは何か言いかけて、口をつぐんだ。そして、ぷいと顔をそむける。
銀色の髪の隙間から覗く耳が、また少しだけ赤くなっていた。
けれど、もちろん、それで終わるはずがなかった。
「おい、ロザリンド。お前、父上に告げ口したんだってな」
翌日の昼下がり。中庭で、ダミアンが私たちの前に立ちはだかった。
隣にいたルシアンが、さっと私の前に出ようとする。私はその腕を、そっと押さえた。
(だめ。ここで逃げたら、今までと同じだ)
ダミアンは私より頭一つ背が高い。睨まれただけで、膝ががくがくと震え出す。
それでも、私はルシアンの前に立った。
「告げ口じゃないわ。お父様に、本当のことをお話ししただけよ」
「生意気な! 母上に言いつけてやるからな!」
「どうぞ。お父様がお決めになったことに、お義母様が逆らえるならね」
言ってから、自分でも驚いた。こんな言葉が、私の口から出るなんて。
ダミアンは顔を真っ赤にして拳を振り上げ――その手は、私の頬に届く前に止まった。
中庭に面した回廊を、お父様付きの執事が通りかかったからだ。
ダミアンは舌打ちをすると、足音荒く去っていった。
ダミアンの背中が見えなくなった途端、全身から力が抜けた。
その場にへたり込みそうになった私の腕を、細い手がぐっと掴む。
「……っ、ばかじゃないの」
ルシアンだった。怒ったような、泣きそうな、ぐちゃぐちゃな顔をしている。
「あいつ、本気で殴ろうとしてた。なんで前に出るんだよ。僕がやられたほうが、まだ」
「だめよ」
震える手で、彼の手を握り返す。
「言ったでしょう? 私があなたを守るって。夜だけじゃなくて、昼間も」
ルシアンの紫の瞳が、大きく揺れた。
何かを言おうとして、唇がわずかに動く。けれど、言葉にはならなかった。
ただ、私の手を掴んだ指に、ぎゅっと力がこもった。
――そのとき、私は気づいていなかった。
二階の窓から、扇を握りしめたお義母様が、じっとこちらを見下ろしていたことに。




