第4話 あんたは、変な人だ(ルシアン視点)
物心ついたときから、僕のそばにいたのは母さんだけだった。
王都の外れの、古い小さな家。母さんはいつも何かに怯えていて、知らない人が家の前を通るたびに、僕を戸棚の中に隠した。
『いい、ルシアン。誰にも、あなたの名前を教えてはだめよ』
理由は教えてもらえなかった。聞く前に、母さんは冬の流行り病で死んでしまったから。
そのあと、僕は母さんの知り合いだという男の家に預けられた。そこでの暮らしは、思い出したくもない。
殴られないように、黙っていること。欲しがらないこと。期待しないこと。
それが、僕が覚えた生き方だった。
だから、公爵とかいう男が迎えに来たときも、何も期待していなかった。
『今日からお前は、エーデル公爵家の息子だ』
息子。どうせ、言葉だけだ。
実際、連れてこられた屋敷は前の家と大して変わらなかった。派手な服を着た女が、僕を虫でも見るような目で見る。その息子のダミアンとかいうやつが、にやにや笑いながら近づいてくる。
ああ、またか。そう思っただけだった。
突き飛ばされても、痛くなかった。痛いと思うのは、とっくにやめていたから。
――なのに。
『や……やめて、ください』
僕の前に、女の子が立った。
金色の髪の、きれいなドレスを着た子。この屋敷の、本物のお嬢様だ。
その子は、震えていた。
広げた両手も、声も、膝も。かわいそうになるくらい、がたがたと。
(なんだ、こいつ)
怖いなら、黙っていればいいのに。僕なんか放っておけばいいのに。
あの女に睨まれて真っ青になって、それでも僕に手を差し出してきた。
『はじめまして、ルシアン。私はロザリンド。あなたの……お姉様よ』
お姉様。
その言葉が、ひどく嘘くさく聞こえた。
だって、今日会ったばかりの子だ。僕のことなんて、何も知らない。
それでも、震えるその手を、僕はなぜか振り払えなかった。
その夜、あいつは屋根裏にやってきた。
パンとスープと、毛布を持って。
何か企んでいるんだと思った。あの女の娘だ。食べ物に何か入れて、僕が苦しむのを見て笑うつもりなんだと。
だから「いらない」と言った。
なのにあいつは、怒りもせず、パンをちぎって自分で食べてみせた。それから、それ以上は近づかずに帰っていった。
『おやすみなさい、ルシアン。また来るわ』
また、なんて言葉を、僕は信じない。
……そう思っていたのに。
あいつは、本当に次の夜も来た。その次の夜も。ひと月経っても、一晩も欠かさずに。
あいつは、変な人だった。
僕が何も話さなくても、勝手に一人でしゃべっている。今日は庭に鳥が来たとか、料理長のスープが美味しかったとか、どうでもいいことばかり。
本を置いていくくせに、「読んで」とは言わない。わからない字を聞いたら、すごく嬉しそうな顔をした。字くらいで、なんであんなに笑うんだろう。
それに、あいつはいつも少しだけ顔色が悪かった。
階段を上ってくる足音が、ときどきふらつく。座るときに、どこかが痛むみたいに眉を寄せる。僕が見ていると気づくと、すぐに笑ってごまかす。
(……ダミアンか?)
あいつなら、やりかねない。
そう考えたら、なんだか胸の奥がむかむかした。自分が突き飛ばされても何も感じないのに、変な話だ。
あの日の昼間、廊下で、あいつが柱の陰にいるのが見えた。
ダミアンに本を取り上げられたときだ。あいつは真っ青な顔で、こっちを見ていた。
出てこなかった。
それでいい、と思った。
あの女まで来たのに、あいつが出てきたらどうなるかくらい、僕にもわかる。あんなに震える子が、わざわざ痛い目に遭いにくる必要なんてない。
……でも、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、出てきてくれないかと思ってしまった自分がいた。
それが、一番嫌だった。
期待なんて、とっくにやめたはずなのに。
その夜、ダミアンに物置へ閉じ込められた。
扉が閉まる音を聞いたとき、正直、ほっとした。今夜はあいつが屋根裏に来ても、僕はいない。待たなくて済む。
寒さで指の感覚がなくなっていく。眠くなってくる。このまま眠ったら、たぶん母さんのところに行ける。
それでもいいか、と目を閉じかけたときだった。
『ルシアン! ルシアン、そこにいるの!?』
聞き慣れた声がした。
ありえない、と思った。ここは庭の外れだ。こんな雪の夜に、わざわざ探しに来るやつなんて――
「……うぅっ」
声を出そうとしたら、唇がかじかんでうめき声しか出なかった。
扉が開いて、ランプの光が差し込んできた。
髪を乱して、息を切らして、あいつがそこに立っていた。
『来るに決まってるでしょう!? こんなところに一晩いたら、死んじゃうのよ!?』
初めて、あいつが怒るのを見た。
あの女の前ではあんなに震えていたくせに。僕のためには、こんな大きな声が出せるのか。
肩にかけられた外套は、あいつの体温でまだ温かかった。
屋根裏に戻って、あいつが帰ろうとしたとき。
気づいたら、袖をつまんでいた。
自分でも、なんでそんなことをしたのかわからない。慌てて手を離して、適当な理由をつけた。
『……外套。明日、返す。……だから、明日も来て』
あいつは、ぱっと花が咲くみたいに笑った。
その顔を見て、また胸の奥がむかむかした。でも今度は、嫌な感じじゃなかった。
あいつが帰ったあと、僕は借りた外套にくるまって横になった。
まだ、信じたわけじゃない。
お姉様なんて、呼んでやらない。どうせいつか、あいつも僕に飽きる。来なくなる。みんなそうだった。
だから、これは保険だ。
あいつが来なくなっても、この外套があれば、少しは温かい。
……そう思うのに、目を閉じると、明日の夜のことばかり考えてしまう。
あいつは、また来るだろうか。
来なかったら、どうしよう。
もし、あいつが僕以外の誰かにも、あんなふうに笑うんだとしたら。
(……それは、なんか嫌だ)
理由はわからない。
ただ、あの笑顔を向けられるのは、僕だけならいいのに、と思った。
外套の端を、ぎゅっと握りしめる。
ダミアンの名前と、あいつの顔色の悪さを、頭の中で並べた。
僕はまだ小さくて、弱い。今は、何もできない。
でも、いつか。
いつか大きくなったら、あいつを困らせるものは、全部――
そこまで考えて、僕は眠りに落ちた。




