第3話 冬の物置
それから、ひと月が過ぎた。
私は毎晩、お義母様の目を盗んで屋根裏へ通った。マリーが厨房からこっそり分けてもらう食事と、ときどき古い本や、着なくなった私の上着を持って。
ルシアンは、まだ私に近づこうとはしなかった。
部屋に入れば、少し距離を取って座る。話しかけても、返事は「うん」か「別に」くらい。それでも、最初の夜のように壁際まで逃げることはなくなった。
(それに、最近は少し違う)
食事を置くと、私がいるうちに手をつけるようになった。
置いていった本を、私が来るまで読んでいることもある。この前は、読めない単語をぼそりと聞いてきた。
「……これ、なんて読むの」
「『ほうせき』よ。宝石」
「ふうん」
それだけの会話だったけれど、私はその夜、嬉しくてなかなか眠れなかった。
問題は、昼間だった。
「おい、愛人の子。誰が廊下を歩いていいって言った?」
ダミアンの声に、思わず足が止まる。
廊下の角の向こうで、ダミアンがルシアンの前に立ちはだかっていた。ルシアンが抱えていた本を取り上げ、頭の上でひらひらと振っている。
「字も読めないくせに、生意気に本なんか持ちやがって」
「……返して」
「なんだよ、その目は」
ダミアンが本を床に叩きつけた。
――止めなきゃ。
一歩踏み出した、そのときだった。
「ダミアン、何を騒いでいるの?」
廊下の向こうから、お義母様が歩いてくる。
足が、床に縫いつけられたように動かなくなった。
(だめ。今出ていったら、またあの部屋に呼ばれる。それに、私が庇えば、お義母様の矛先がルシアンにまで向くかもしれない)
「母上、こいつが盗みを働いてたんです」
「まあ。卑しい血は争えないわね」
お義母様は床の本を一瞥すると、つまらなそうに去っていった。ダミアンも、ルシアンの肩を小突いてから後を追う。
柱の陰で、私はただ唇を噛んでいた。
一人残されたルシアンが、黙って本を拾い上げる。表紙の埃を、袖で丁寧に払っている。
あれは、私が昨日渡した本だった。
その夜、屋根裏の部屋は空っぽだった。
「……ルシアン?」
ランプを掲げて部屋中を照らす。毛布はいつもの場所にたたまれていて、本も枕元に置いたまま。けれど、肝心の彼がいない。
嫌な予感が、背筋を這い上がった。
――冬の物置。
ゲームの回想シーンで、ルシアンが語っていた。
『凍えるような夜、僕は物置に閉じ込められた。助けを呼んでも、誰も来なかった』
(ゲームのロザリンドはいなくても、ダミアンがいる)
気づいたら、私は階段を駆け下りていた。
庭の外れにある古い物置は、雪をかぶって白く凍りついていた。
扉には、木の棒がつっかえていて、中からは開かないようになっている。
「ルシアン! ルシアン、そこにいるの!?」
「……うっ」
中から、うめく声が聞こえた。
かじかんだ手で棒をどかして、全身の体重をかけて扉を引いた。
がこん、と鈍い音がして、ようやく扉が開いた。
真っ暗な物置の奥に、小さな体がうずくまっていた。
「ルシアン……!」
駆け寄って、ランプで照らす。唇が紫色になっていた。薄いシャツ一枚で、肩が細かく震えている。
私は迷わず自分の外套を脱いで、彼の体に巻きつけた。
「なんで……来たの。こんな、夜に」
「来るに決まってるでしょう!?」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「こんなところに一晩いたら、死んじゃうのよ!?」
ルシアンは、ぽかんと私を見上げていた。
私も、自分の声に驚いていた。こんなふうに誰かに怒鳴ったのは、生まれて初めてだった。
(不思議。お義母様の前では、あんなに震えるのに)
「……ほら、立てる? 屋敷に戻りましょう」
手を差し出す。
ルシアンは、その手をしばらく見つめていた。そして、迷うように、おそるおそる指先だけを重ねてきた。
氷みたいに冷たい指だった。
屋根裏まで送り届けて、温石を毛布に包んで渡した。マリーに頼んで、温かいミルクも用意してもらった。
ルシアンはミルクのカップを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
「……昼間」
ぽつりと、彼が言った。
「廊下に、いただろ」
心臓が跳ねた。見られていたのだ。
「……うん。ごめんね。助けられなくて」
ルシアンは首を横に振った。
「いい。来なくて、よかった」
「え?」
「あいつ、あんたにも何かするかもしれないから」
カップを見つめたまま、ぼそぼそと続ける。
「あんた、いつも来るとき、ちょっと顔色悪いし。……あいつに何かされてるんじゃないかって」
息が止まりそうになった。
(気づいてる? ううん、お義母様のことまではわかってない。でも)
この子は、私のことを心配してくれていたのだ。
「大丈夫よ。私は、何もされてないわ」
笑ってみせる。ルシアンはじっと私の顔を見て、それから小さく息をついた。
「……ふうん」
信じたのか、信じていないのか、わからない返事だった。
「じゃあ、私はそろそろ戻るわね。今夜はもう、ここから出ちゃだめよ」
立ち上がって、扉へ向かう。
そのとき、くい、と何かに引っ張られた。
振り返ると、ルシアンが私の袖の端をつまんでいた。自分でも驚いたような顔をして、すぐにぱっと手を離す。
「……外套」
「え?」
「明日、返す。……だから、明日も来て」
そっぽを向いた耳が、少しだけ赤かった。
私は思わず笑ってしまった。
「うん。明日も来るわ」
自分の部屋に戻って、ベッドに倒れ込む。
外套なしで雪の中を走ったせいで、体の芯まで冷えきっていた。
それでも、胸の奥は温かかった。
(明日も来て、か)
まだ、全部を信じてもらえたわけじゃない。あの子は今も、私との間に見えない線を引いている。
でも、その線の向こうから、ほんの少しだけ手を伸ばしてくれた。
(……強くならなきゃ)
お義母様が怖くても。また床に跪かされても。
いつか、昼間でもあの子の前に立てるように。
毛布にくるまって、私は小さく拳を握った。




