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【完結】屋根裏の義弟に手を差し伸べたら、九年越しに求婚されました  作者: フトダマノミコト


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第2話 弟を守ると決めました

 お義母様の部屋の扉は、いつも重い。


 ノックをする手が、自分のものじゃないみたいに冷たかった。


「お入りなさい」


 部屋の中には甘い香水の匂いが満ちていて、私はそれだけで吐きそうになる。暖炉の前の椅子で、お義母様は細い鞭を指先でもてあそんでいた。


 私は扉の前で立ち止まり、深く頭を下げる。


「お呼びでしょうか、お義母様」


「お呼びでしょうか、ですって?」


 くすり、と笑う声。顔を上げなくても、どんな表情をしているかわかる。


「あなた、自分が何をしたかわかっていて? 使用人たちの前で、わたくしに口答えをしたのよ。あんな、どこの馬の骨とも知れない女の子どもを庇って」


「……申し訳、ありません」


「謝り方も知らないのね」


 お義母様は立ち上がり、ゆっくりと私の前まで歩いてきた。絹の靴が、絨毯の上で止まる。


「跪きなさい」


 喉がひくりと鳴った。


 逆らえば、もっとひどくなる。それを知っている体は、命令されるより先に膝を折っていた。


「もっと低く。額を床につけなさい。わたくしの靴に向かって、許しを乞うのよ」


 絨毯に額を押しつける。埃と香水が混ざった匂いが、鼻の奥に刺さった。


「……お許し、ください。お義母様」


「まあ。まるで犬ね」


 頭上から、楽しそうな声が降ってくる。


「公爵家の長女ともあろう者が、床に這いつくばって。亡くなったあなたのお母様が見たら、さぞ嘆くでしょうね」


 ぎゅっと、絨毯を握りしめた。


「いいえ、嘆かないかしら。あの女も、旦那様の愛を繋ぎ止められなかった哀れな女だもの。娘のあなたもそっくり。誰にも愛されない、可愛げのない子」


(違う。お母様は、そんな人じゃない)


 言い返したい言葉が、喉の奥で絡まって出てこない。


「わたくしがいなければ、あなたなんて誰にも躾けてもらえないのよ。感謝なさい」


 ひゅ、と空気を裂く音がした。


 私はぎゅっと目を閉じる。


(大丈夫。いつものこと。声を出さなければ、早く終わる)


 ――前世の私が、心の中でつぶやいた。


(こんなの、躾なんかじゃない。ただの虐待だ)


 知っている。わかっている。


 でも、十歳の体はもう、震えることしか覚えていなかった。


 


「明日から、あの子に近づくことは許しません。わかったわね」


「……はい、お義母様」


 嘘をつくのは、生まれて初めてかもしれない。


 


 部屋に戻れたのは、日付が変わる少し前だった。


「お嬢様……!」


 待っていたマリーが、泣きそうな顔で薬箱を開ける。背中に冷たい軟膏が塗られるたび、私は枕に顔を埋めて息を止めた。


「どうして、あんなことをなさったのですか。奥様に逆らえばどうなるか、お嬢様が一番ご存じでしょう」


「……うん。ごめんね、マリー」


 でも、後悔はしていなかった。


 あの子を放っておいたら、きっとゲームと同じ未来が来る。それに何より、あの空っぽの目を、見なかったことにはできなかった。


「マリー。お願いがあるの。厨房に、パンとスープが残っていないかしら。それと、毛布を一枚」


 マリーは目を丸くした。


「お嬢様、たった今、奥様に近づくなと……」


「見つからなければいいのよ」


 マリーはロザリンデを案じて迷うそぶりを見せて、それから小さくうなずいてくれた。


 


 屋根裏へ続く階段は、ぎしぎしと嫌な音を立てた。


 一段上るたびに背中が引きつる。けれど、顔には出さない。痛みを隠すのは、この三年間で一番上手になったことだ。


 埃っぽい部屋の隅に、小さな影が丸まっていた。


 薄いシーツ一枚を体に巻きつけて、ルシアンは膝を抱えている。私に気づいた瞬間、彼は弾かれたように壁際まで後ずさった。


「ご、ごめんね。驚かせるつもりはなかったの」


 返事はない。紫の瞳が、ランプの明かりを鋭く跳ね返す。


 まるで、追い詰められた野良猫だ。


「お腹、すいてないかと思って。パンとスープを持ってきたの」


 籠の中身を床に並べる。ルシアンはちらりとそれを見て、すぐに私へ視線を戻した。


「……いらない」


「でも、夕食は」


「いらない」


 ぴしゃりと突き放す声。その直後、ぐう、と小さなお腹の音が鳴った。


 ルシアンの頬がかっと赤くなる。それでも、彼は手を伸ばそうとしなかった。


(そうだよね。昼間会ったばかりの相手から、いきなり食べ物なんて受け取れないよね)


 この屋敷で、彼に優しい顔をした大人はいなかった。きっと、ここへ来る前もそうだったのだろう。


「毒なんて入ってないわよ。ほら」


 パンの端をちぎって、自分の口に入れてみせる。ルシアンは黙ったまま、じっとそれを見ていた。


「……なんで、こんなことするの。あんたも、あの人たちの仲間だろ」


 あの人たち。お義母様とダミアンのことだ。


 昼間、私は確かに彼を庇った。でも、震えながらだった。最後にはお義母様に頭を下げて、言いなりになっていた。


 この子の目には、そう見えたのだ。


(……当たり前か。私、全然かっこよくなかったもんね)


 胸の奥が、少しだけちくりとした。


「仲間じゃないわ。でも、信じてもらえないのもわかる」


 私は籠をそっと床に置いて、ゆっくり立ち上がった。背中の痛みで足がふらつきそうになるのを、壁に手をついてごまかす。


「毛布も置いていくわね。ここ、夜は冷えるから」


 ルシアンは答えない。壁に背中をつけたまま、私が何かするのを待ち構えている。


 だから私は、それ以上近づかなかった。


「おやすみなさい、ルシアン。また来るわ」


 返事はなかった。


 階段を下りながら、ふうっと息を吐く。


(すぐに仲良くなれるなんて、思ってない)


 焦ったら、きっと逆効果だ。ゆっくりでいい。


 


 翌朝。


 まだ屋敷が静まり返っている時間に、私はそっと屋根裏の階段を上った。


 扉の前に、昨夜の籠が置かれていた。


 中のお皿は、空っぽだった。パンくず一つ残っていない。スープの器まで、きれいに。


 そして、毛布だけが返されていなかった。


(……食べて、くれたんだ)


 扉の向こうからは、物音一つしない。きっと、私が来たことには気づいている。それでも、出てくる気はないらしい。


 それでいい。今は、これで十分だ。


 空っぽの籠を抱えて、私は小さく笑った。


「また来るね」


 閉ざされた扉に向かって、そう声をかける。


 返事はやっぱりなかったけれど、昨日よりほんの少しだけ、扉の向こうが近くなった気がした。

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