第2話 弟を守ると決めました
お義母様の部屋の扉は、いつも重い。
ノックをする手が、自分のものじゃないみたいに冷たかった。
「お入りなさい」
部屋の中には甘い香水の匂いが満ちていて、私はそれだけで吐きそうになる。暖炉の前の椅子で、お義母様は細い鞭を指先でもてあそんでいた。
私は扉の前で立ち止まり、深く頭を下げる。
「お呼びでしょうか、お義母様」
「お呼びでしょうか、ですって?」
くすり、と笑う声。顔を上げなくても、どんな表情をしているかわかる。
「あなた、自分が何をしたかわかっていて? 使用人たちの前で、わたくしに口答えをしたのよ。あんな、どこの馬の骨とも知れない女の子どもを庇って」
「……申し訳、ありません」
「謝り方も知らないのね」
お義母様は立ち上がり、ゆっくりと私の前まで歩いてきた。絹の靴が、絨毯の上で止まる。
「跪きなさい」
喉がひくりと鳴った。
逆らえば、もっとひどくなる。それを知っている体は、命令されるより先に膝を折っていた。
「もっと低く。額を床につけなさい。わたくしの靴に向かって、許しを乞うのよ」
絨毯に額を押しつける。埃と香水が混ざった匂いが、鼻の奥に刺さった。
「……お許し、ください。お義母様」
「まあ。まるで犬ね」
頭上から、楽しそうな声が降ってくる。
「公爵家の長女ともあろう者が、床に這いつくばって。亡くなったあなたのお母様が見たら、さぞ嘆くでしょうね」
ぎゅっと、絨毯を握りしめた。
「いいえ、嘆かないかしら。あの女も、旦那様の愛を繋ぎ止められなかった哀れな女だもの。娘のあなたもそっくり。誰にも愛されない、可愛げのない子」
(違う。お母様は、そんな人じゃない)
言い返したい言葉が、喉の奥で絡まって出てこない。
「わたくしがいなければ、あなたなんて誰にも躾けてもらえないのよ。感謝なさい」
ひゅ、と空気を裂く音がした。
私はぎゅっと目を閉じる。
(大丈夫。いつものこと。声を出さなければ、早く終わる)
――前世の私が、心の中でつぶやいた。
(こんなの、躾なんかじゃない。ただの虐待だ)
知っている。わかっている。
でも、十歳の体はもう、震えることしか覚えていなかった。
「明日から、あの子に近づくことは許しません。わかったわね」
「……はい、お義母様」
嘘をつくのは、生まれて初めてかもしれない。
部屋に戻れたのは、日付が変わる少し前だった。
「お嬢様……!」
待っていたマリーが、泣きそうな顔で薬箱を開ける。背中に冷たい軟膏が塗られるたび、私は枕に顔を埋めて息を止めた。
「どうして、あんなことをなさったのですか。奥様に逆らえばどうなるか、お嬢様が一番ご存じでしょう」
「……うん。ごめんね、マリー」
でも、後悔はしていなかった。
あの子を放っておいたら、きっとゲームと同じ未来が来る。それに何より、あの空っぽの目を、見なかったことにはできなかった。
「マリー。お願いがあるの。厨房に、パンとスープが残っていないかしら。それと、毛布を一枚」
マリーは目を丸くした。
「お嬢様、たった今、奥様に近づくなと……」
「見つからなければいいのよ」
マリーはロザリンデを案じて迷うそぶりを見せて、それから小さくうなずいてくれた。
屋根裏へ続く階段は、ぎしぎしと嫌な音を立てた。
一段上るたびに背中が引きつる。けれど、顔には出さない。痛みを隠すのは、この三年間で一番上手になったことだ。
埃っぽい部屋の隅に、小さな影が丸まっていた。
薄いシーツ一枚を体に巻きつけて、ルシアンは膝を抱えている。私に気づいた瞬間、彼は弾かれたように壁際まで後ずさった。
「ご、ごめんね。驚かせるつもりはなかったの」
返事はない。紫の瞳が、ランプの明かりを鋭く跳ね返す。
まるで、追い詰められた野良猫だ。
「お腹、すいてないかと思って。パンとスープを持ってきたの」
籠の中身を床に並べる。ルシアンはちらりとそれを見て、すぐに私へ視線を戻した。
「……いらない」
「でも、夕食は」
「いらない」
ぴしゃりと突き放す声。その直後、ぐう、と小さなお腹の音が鳴った。
ルシアンの頬がかっと赤くなる。それでも、彼は手を伸ばそうとしなかった。
(そうだよね。昼間会ったばかりの相手から、いきなり食べ物なんて受け取れないよね)
この屋敷で、彼に優しい顔をした大人はいなかった。きっと、ここへ来る前もそうだったのだろう。
「毒なんて入ってないわよ。ほら」
パンの端をちぎって、自分の口に入れてみせる。ルシアンは黙ったまま、じっとそれを見ていた。
「……なんで、こんなことするの。あんたも、あの人たちの仲間だろ」
あの人たち。お義母様とダミアンのことだ。
昼間、私は確かに彼を庇った。でも、震えながらだった。最後にはお義母様に頭を下げて、言いなりになっていた。
この子の目には、そう見えたのだ。
(……当たり前か。私、全然かっこよくなかったもんね)
胸の奥が、少しだけちくりとした。
「仲間じゃないわ。でも、信じてもらえないのもわかる」
私は籠をそっと床に置いて、ゆっくり立ち上がった。背中の痛みで足がふらつきそうになるのを、壁に手をついてごまかす。
「毛布も置いていくわね。ここ、夜は冷えるから」
ルシアンは答えない。壁に背中をつけたまま、私が何かするのを待ち構えている。
だから私は、それ以上近づかなかった。
「おやすみなさい、ルシアン。また来るわ」
返事はなかった。
階段を下りながら、ふうっと息を吐く。
(すぐに仲良くなれるなんて、思ってない)
焦ったら、きっと逆効果だ。ゆっくりでいい。
翌朝。
まだ屋敷が静まり返っている時間に、私はそっと屋根裏の階段を上った。
扉の前に、昨夜の籠が置かれていた。
中のお皿は、空っぽだった。パンくず一つ残っていない。スープの器まで、きれいに。
そして、毛布だけが返されていなかった。
(……食べて、くれたんだ)
扉の向こうからは、物音一つしない。きっと、私が来たことには気づいている。それでも、出てくる気はないらしい。
それでいい。今は、これで十分だ。
空っぽの籠を抱えて、私は小さく笑った。
「また来るね」
閉ざされた扉に向かって、そう声をかける。
返事はやっぱりなかったけれど、昨日よりほんの少しだけ、扉の向こうが近くなった気がした。




