第19話 屋根裏部屋で
扉を開けると、埃っぽい空気が鼻をくすぐった。
九年前と、何も変わっていなかった。低い天井。古い梁。小さな窓から差し込む、午後の光。
その光が届かない部屋の隅に、ルシアンが座っていた。
壁に背中を預けて、片膝を抱えて。九歳のあの夜と、まったく同じ場所で。
その腕の中には、色褪せた古い毛布が抱えられていた。
(あれは……)
私が、最初の夜に置いていった毛布だ。
「……もう、終わったんですか。」
ルシアンは顔を上げずに言った。
ひどく掠れた声だった。
「ルシアン、その毛布」
「捨てられなかったんです。部屋が変わっても、ずっと」
ルシアンは、毛布の端を指先でなぞった。
「ここに来ないと、駄目だったんです。窓から、姉様とあの男が庭を歩いているのが見えて。あの男が姉様の手を取ったとき、本当に、何をするかわからなくなりそうで」
ルシアンは、自嘲するように小さく笑った。
「待つと約束したのに。口を出す資格はないと、自分で言ったのに。……情けないですね」
「ルシアン」
「だから、ここに来ました。ここに来れば、思い出せるから」
紫の瞳が、ようやく私を見上げた。
泣いてはいなかった。でも、今にも泣き出しそうな、九歳のあの夜と同じ目をしていた。
「姉様が、初めて僕に手を差し伸べてくれた場所です。ここにいれば、僕がどれだけ姉様に救われたか、思い出せる。だから、姉様がどんな答えを出しても、ちゃんと受け入れられるんじゃないかって」
ルシアンは、毛布を握る手に力を込めた。
「……あの男を、選んだんですか」
私は、何も言わずに部屋の中へ歩いていった。
ぎしり、と床板が鳴る。
ルシアンの前で足を止めて、ゆっくりとしゃがみ込んだ。九年前、パンとスープを置いたときと同じように。
「ギルバート様には、お断りしたわ」
ルシアンの肩が、びくりと震えた。
「……え」
「腕輪を、褒めてくださったの。誰からの贈り物かって聞かれて」
私は、左手首のブレスレットを、そっとルシアンに見せた。
「この世界で一番大切な人から、って答えたわ」
ルシアンの瞳が、大きく見開かれた。
「姉、様」
「ずっと、気づかないふりをしてたの」
声が震える。それでも、言わなきゃいけないと思った。
ルシアンはこの九年間、ずっと私に言葉をくれた。今度は、私の番だ。
「あなたがミアさんと手を重ねてるのを見たとき、胸が張り裂けそうだった。ブレスレットを嵌めてもらったとき、手首が燃えるみたいに熱かった。帝国に行っていいって言ったとき、本当は、行かないでって叫びたかった」
目の奥が、じんと熱くなる。
「姉だから、こんな気持ちはおかしいって思ってた。弟を、こんなふうに見ちゃいけないって。でも」
手を伸ばして、ルシアンの頬に触れた。
ずっと触れてきたはずの頬なのに、指先が震えて止まらなかった。
「あなたは、弟じゃなかった。だから、もう我慢しなくていいのよね」
「……っ」
「好きよ、ルシアン」
屋根裏の空気が、しんと静まり返った。
「弟としてじゃなくて。一人の男の人として、あなたが好き」
ルシアンは、しばらく動かなかった。
ただ、私の顔をじっと見つめていた。まるで、目の前の光景が信じられないとでもいうように。
九年前、初めて手を差し出したときと、同じ目で。
「……もう一度」
かすれた声が、ようやく零れた。
「もう一度、言ってください」
「好きよ」
「もう一度」
「好き。ルシアンが、好き」
次の瞬間、強く腕を引かれた。
気づいたときには、私はルシアンの腕の中にいた。古い毛布ごと、息が詰まるほどきつく抱きしめられる。
「姉様……っ、姉様」
耳元で、何度も呼ばれた。
あの夜、泣きじゃくりながら初めて「姉様」と呼んでくれたときのように。
「九年です。九年、ずっと」
ルシアンの声が、震えていた。
「あの夜から、ずっと姉様だけを見てきました。弟だから、言っちゃいけないと思っていた。血が繋がっていないと知ってからも、姉様に拒まれるのが怖くて、言えなかった」
「……うん」
「気が狂いそうでした。あの男が姉様の手を取るのを見て、本当に、この屋敷ごと全部壊してしまおうかと思った」
「ふふ、それは困るわ」
ルシアンの背中に、そっと手を回す。
広くて、温かい背中。いつの間にか、こんなに大きくなっていた。
しばらくして、ルシアンはゆっくりと私から体を離した。
それから、屋根裏の埃っぽい床に、片膝をついた。
「ルシアン?」
「姉様」
ルシアンは、私の左手を取って、まっすぐに見上げた。
「僕のすべてを、あなたに差し出させてください」
ルシアンが上着の内側から取り出したのは、小さな銀の指輪だった。
中央に、紫の宝石が一粒。その台座に、見覚えのある紋章が刻まれている。
「それ、ノルディアの……」
「母さんの形見のペンダントを、作り直してもらいました。ノルディア王家の紋章です。僕が持っている中で、一番大切なものだから」
ルシアンは、指輪をそっと私の薬指にあてがった。
「ロザリンド・エーデル。僕と、結婚してください」
心臓が、止まりそうになった。
「……ただし」
ルシアンは、紫の瞳を細めて、少しだけ意地悪く笑った。
「先にお伝えしておきます。この指輪を受け取ったら、もう二度と離しません」
「え?」
「帝国にも、どこにも行かせません。他の男に笑いかけるのも、できれば控えてほしい。夜会のドレスは今後も僕が選びますし、朝はこれからも僕が起こします。姉様に近づく男がいたら、たぶん、今まで以上に排除します」
「は、排除って」
「僕は、そういう男です。九年間、ずっと隠していましたが」
ルシアンは、指輪を持つ手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「それでも、受け取ってくださいますか」
――逃がす気なんて、最初からないくせに。
そう思ったら、なぜか笑いがこみ上げてきた。
怖くなかった。
だって、この人の重さは、九年間、ずっと私を守ってくれていたものだから。
「知ってたわ」
「え?」
「あなたが過保護で、独占欲が強くて、ちょっとだけ怖いこと。……たぶん、ずっと前から」
私は、左手をルシアンのほうへ差し出した。
「離さないで、ルシアン。私も、もうあなたを手放そうとしたりしないから」
ルシアンの瞳が、大きく揺れた。
震える指で、指輪が私の薬指に嵌められる。
手首のブレスレットと、薬指の指輪。二つの紫の宝石が、窓から差し込む光を受けて、きらきらと輝いた。
ルシアンが、ゆっくりと立ち上がった。
私の頬を両手で包み込み、額をこつんと合わせる。
「――ロザリンド」
初めて、名前を呼ばれた。
あんた、でも、姉様でもなく。
ただ、私の名前を。
「愛しています。初めてあなたが手を差し伸べてくれた、あの日から、ずっと」
ルシアンの唇が、そっと私の唇に重なった。
九年前、凍えた男の子が膝を抱えていた屋根裏部屋で。
柔らかな午後の光に包まれながら、私はそっと目を閉じた。
――唇が離れたあと、ルシアンは私を抱きしめたまま、耳元で甘く囁いた。
「もう、逃がしませんよ」
その声があまりにも幸せそうだったので、私はただ、彼の胸に顔をうずめて笑った。




