第20話 甘い鳥籠(ルシアン視点)
最終話になります。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
隣で眠る人の、規則正しい寝息が聞こえる。
僕は肘をついて体を起こし、その寝顔を見下ろした。枕に広がる金色の髪。少しだけ開いた唇。左手の薬指で、紫の宝石が朝日を受けて小さく光っている。
――ロザリンド・エーデル。
いや、今日からは、ロザリンド・ノルディア=エーデルだ。
昨日、僕たちは王都の大聖堂で結婚式を挙げた。
屋根裏部屋での求婚から、ちょうど一年後のことだった。
この一年は、それなりに忙しかった。
まず、帝国から皇后陛下――伯母上が、わざわざお忍びで訪ねてきた。
『アリシアにそっくりね』
僕の顔を見るなり、伯母上は泣き崩れた。帝国で皇族として迎えたいと何度も説得されたが、僕は首を縦に振らなかった。
『姉様……いえ、妻となる人が、この国にいますので』
そう答えると、伯母上は呆れたように笑って、それから僕にノルディア大公の称号をくださった。帝国との国境にある、かつてのノルディア領の一部とともに。
身分を得た僕を、父上は正式にエーデル家の婿養子として迎えた。血は繋がっていなくても、これで僕は名実ともにエーデル家の後継者だ。
『結局、お前に家ごと持っていかれるのだな』
父上は、苦笑しながら書類に署名してくれた。
姉様を傷つけた者たちのことも、時折、耳に入ってくる。
元王太子のエドワードは、今も離宮で暮らしている。半年ほど前、姉様宛てに一通の手紙が届いた。謝罪の言葉が、ただ淡々と綴られていた。姉様はそれを読んで、少しだけ寂しそうに笑い、返事は書かなかった。
ミア・ローレルは、北の修道院で病人の看護をしているらしい。最初の三か月は毎日泣き叫んでいたそうだが、最近では、聖女の力で子どもの熱を下げてやることもあるという。
あの女がこの先どうなるかは、僕の知ったことではない。ただ、姉様の前に二度と現れなければ、それでいい。
元公爵夫人のコーデリアは、実家の小さな領地で、肩身の狭い暮らしを送っている。弟夫婦に疎まれ、かつての取り巻きにも見向きもされず、毎日窓辺でぼんやりと過ごしているそうだ。
ダミアンは、北の国境警備隊で見習いとして働いている。手紙のたびに「寒い」「腹が減る」と泣き言ばかり書いてくるらしいが、どうやら逃げ出さずに続けているらしい。
どちらも、命まで取ったわけではない。姉様が、それを望まなかったから。
『あの人たちにも、ちゃんと明日が来ればいいのよ。ただ、私たちのいない場所でね』
そう言って笑った姉様は、もう過去に縛られていない。
「……ん」
腕の中で、姉様が小さく身じろいだ。
ゆっくりと瞼が開いて、まだ眠たげな瞳が僕を見上げる。
「おはよう、ルシアン」
「おはようございます、ロザリンド」
名前を呼ぶと、姉様の頬がふわりと赤く染まった。
一年経っても、まだ慣れないらしい。屋根裏で初めて名前を呼んだときから、毎回こうだ。その反応が見たくて、僕はわざと何度も呼んでしまう。
「起こしに来るのは、これからも僕の仕事だと言ったでしょう?」
「起こしに来たっていうより、最初から隣にいたじゃない」
「ええ。もう、扉の前で待つ必要もありませんから」
姉様が、くすくすと笑った。
かつては笑っても、どこか怯えたような、相手の顔色をうかがう笑い方しかしなかった。
今は違う。
姉様は、楽しいときに声を上げて笑う。嫌なことは嫌だと言う。夜会で誰かに無礼なことを言われれば、背筋を伸ばして、まっすぐに言い返す。
身支度を整えて廊下に出ると、窓の外に春の庭園が広がっていた。
屋敷の門には、ノルディア大公家の紋章を掲げた護衛が立っている。姉様付きの侍女には、マリーのほかに、剣の心得のある女性を二人つけた。姉様宛ての手紙は、すべて僕が先に目を通す。夜会に出るときは、必ず僕がエスコートする。
姉様に近づく男は、今もときどき現れる。大公妃となった姉様の美しさは、以前よりもいっそう評判になったから。
そういう男たちは、なぜかしばらくすると、遠い領地へ赴任することになったり、急に縁談がまとまったりして、姉様の前から姿を消していく。
姉様は、それに気づいているのかいないのか。ときどき、困ったように僕を見て笑うだけだ。
「ねえ、ルシアン」
廊下を並んで歩きながら、姉様がふいに言った。
「あなた、私のこと、鳥籠に閉じ込めてるつもりでしょう」
僕は、足を止めた。
姉様は、いたずらっぽく僕を見上げていた。
「マリーが言ってたわ。ルシアン様は、お嬢様を金の鳥籠に入れて、一生大事に飼うおつもりなんですよって」
「……マリーには、あとで話をしておきます」
「ふふ。怒らないであげて。私、別に嫌じゃないのよ」
姉様は、僕の左手を取って、自分の指を絡めた。
薬指同士の指輪が、かちりと小さく触れ合う。
「だって、この鳥籠、扉に鍵がかかってないもの」
「え?」
「あなた、口では逃がさないって言うけど、本当に私が嫌がることは、一度もしなかったでしょう。夜会のあとも、待つって言って、ちゃんと待ってくれた。ギルバート様に会うときだって、屋根裏に隠れて我慢してた」
姉様は、繋いだ手をそっと持ち上げて、僕の手の甲に唇を寄せた。
「扉は、いつでも開いてる。それでも、私はここにいるの。自分で選んで、ここに戻ってくるの」
紫の宝石が、窓からの光を受けてきらめいた。
「だから、これは鳥籠じゃなくて、私の家よ。あなたがいる場所が、私の帰る場所なの」
息が、止まりそうだった。
九歳のあの夜、屋根裏で膝を抱えていた僕に、この人は言った。
『大丈夫よ、ルシアン。これからは、私があなたを守るから』
自分だって、誰にも守られたことなんてなかったくせに。
それから十年。僕は、ずっとこの人を守ってきたつもりだった。閉じ込めて、囲い込んで、誰にも触れさせないように。
でも、本当は。
(……救われていたのは、ずっと僕のほうだった)
「ルシアン?」
黙り込んだ僕を、姉様が心配そうに覗き込む。
僕は、繋いだ手を引いて、姉様を腕の中に閉じ込めた。
「……扉、閉めてもいいですか」
「え?」
「鍵はかけません。でも、閉めておきたいんです。あなたが外に出るとき、必ず僕に声をかけてもらえるように」
姉様は一瞬きょとんとして、それから、腕の中で吹き出した。
「もう。結局、重いのね」
「ええ。一生、重いですよ」
「知ってるわ」
姉様は、僕の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめ返してくれた。
「いいわよ。その代わり、あなたも私から離れないでね」
「離れるわけがありません」
姉様の髪に、そっと口づけを落とす。
春の陽だまりの中で、姉様は幸せそうに目を細めた。
――窓の外では、庭園の薔薇が咲き始めていた。
九年前のあの日、凍えた屋根裏で始まった物語は、こうして甘い鳥籠の中で、静かに続いていく。
扉に鍵は、かかっていない。
それでも、僕の大切な人は、今日も僕の腕の中にいる。
(完)
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