第18話 縁談の相手
ハーシェル侯爵家のギルバート様は、約束の時間ぴったりに屋敷を訪れた。
栗色の髪に、穏やかな琥珀色の瞳。背が高く、物腰の柔らかい青年だった。
「突然の申し出にもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます、ロザリンド嬢」
「いえ、こちらこそ。わざわざお越しいただいて」
応接間で向かい合って礼をとりながら、私はつい、扉のほうへ目を向けてしまった。
ルシアンは、いない。
今朝、朝食の席で「僕は同席しません」と言ったきり、姿を見せていなかった。
『約束しましたから。姉様の答えを待つと。姉様が誰とお会いになるかに、口を出す資格は僕にはありません』
そう言って微笑んだルシアンの顔は、いつもどおり穏やかだった。
けれど、テーブルの下で握りしめられた拳が、白くなっていたのを私は見てしまった。
「ロザリンド嬢?」
「あ、ごめんなさい。少しぼんやりしてしまって」
慌てて向き直ると、ギルバート様は小さく笑った。
「弟君……いえ、ルシアン殿を探していらっしゃいましたか」
「え?」
「実は、門のところでお会いしたのです。丁寧にご挨拶をいただきました」
ギルバート様は、少しだけ困ったように眉を下げた。
「『姉様を、よろしくお願いします』と。それから、『姉様が涙を流すようなことがあれば、ハーシェル家がこの国から消えることになるかもしれませんので、お気をつけて』と」
「……!」
思わず、両手で口を覆った。
(ルシアン、なんてことを……!)
「も、申し訳ありません! あの子、ときどき冗談がきつくて」
「冗談には、聞こえませんでしたが」
ギルバート様は、肩をすくめて笑った。怒っている様子はなかった。
「ですが、それだけあなたを大切に思っているということでしょう」
応接間を出て、春の庭園を二人で歩いた。
ギルバート様は、話し上手な方だった。領地の話、好きな本の話、最近王都で流行っている演劇の話。私が答えに詰まると、さりげなく話題を変えてくれる。
一緒にいて、とても楽だった。
こういう方と結婚すれば、きっと穏やかで幸せな毎日が送れるのだろう。そう思うのに、私の目は、何度も屋敷の窓を探してしまう。
二階の、東の端の窓。ルシアンの部屋だ。
カーテンは閉まっていた。
(……見てない、のかな)
ほっとしたような、寂しいような、よくわからない気持ちになる。
「あなたが夜会で、聖女……いえ、ローレル嬢の前で言った言葉が、忘れられないのです」
薔薇のアーチの下で、ギルバート様が足を止めた。
「誰かに決められた役なんてない。私は、ただのロザリンドだ、と」
琥珀色の瞳が、まっすぐに私を見つめた。
「それから、継母君の前で、従わないおっしゃったときも、最後まで勇ましく顔を上げていらした。あの姿を見て、私はあなたに惹かれました」
「ギルバート様……」
「どうか、私との婚約を考えていただけませんか。あなたを、生涯大切にします」
ギルバート様が、そっと私の左手を取った。
「あなたを誰にも傷つけさせない。約束します」
ギルバート様の言葉は、とても誠実で、優しくて。なのに、私の胸には、少しも響いてこなかった。
「……素敵な腕輪ですね」
ギルバート様の指が、私の手首のブレスレットに触れた。
「紫の宝石。どなたからの贈り物ですか?」
答えようとして、言葉が詰まった。
弟から。そう言えばいいだけなのに。
――これを、ずっとつけていてください。姉様が誰のものか、皆にわかるように。
手首の内側に押し当てられた唇の熱を、今でも覚えている。
あの夜、私の胸の奥で暴れ始めた、厄介な何か。
夜会のあと、何でもないじゃない、と泣いた私に、この世界でたった一人の人だと言ってくれた声。
今朝、ショールに頬を寄せて、幸せそうに笑った顔。
(……ああ、そうか)
ずっと、答えは出ていたのだ。
認めるのが怖くて、気づかないふりをしていただけで。
「大切な人から、いただきました」
自分の声が、驚くほど静かに聞こえた。
「この世界で、一番大切な人からです」
ギルバート様は、しばらく黙って私を見つめていた。
それから、ゆっくりと私の手を離した。
「……やはり、そうでしたか」
「ギルバート様、私」
「いいのです」
ギルバート様は、穏やかに首を横に振った。
「実は、来る前から半分はわかっていました。夜会で、ルシアン殿があなたを見つめる目を見ていれば、誰だって気づきます。そして、あなたが彼の手を握り返すときの顔も」
かあっと、顔が熱くなった。
「それでも、一度だけ、お会いしてみたかった。……答えを聞けて、すっきりしましたよ」
ギルバート様は、胸に手を当てて一礼した。
「どうか、お幸せに。ロザリンド嬢」
「……ありがとうございます、ギルバート様。本当に、ごめんなさい」
「謝らないでください。ハーシェル家が消えては困りますから」
ギルバート様が冗談めかして笑ったので、私もつられて、少しだけ笑ってしまった。
ギルバート様の馬車を見送ったあと、私はドレスの裾を持ち上げて、屋敷の中へ駆け込んだ。
二階へ続く階段を上り、東の端の部屋の扉を叩く。
「ルシアン! ルシアン、いる?」
返事はない。
扉を開けると、部屋は空っぽだった。閉め切られたカーテン。きちんと整えられたベッド。机の上には、手つかずの紅茶が冷めきっていた。
(どこに……)
廊下に飛び出して、通りかかったマリーの腕を掴む。
「マリー、ルシアンを見なかった!?」
「ルシアン様でしたら、お嬢様が庭園へ出られてすぐに、どこかへ……」
マリーは少し考えて、それから、ふっと優しい顔をした。
「そういえば、屋根裏への階段を上っていかれるのを、見た者がおりました」
屋根裏。
九年前、凍えるような夜に、小さな男の子が膝を抱えていた場所。
私が、初めてあの子にパンを届けた場所。
気づいたら、私は階段を駆け上がっていた。
あの頃と同じように、古い階段がぎしぎしと音を立てる。でも、今は背中も痛まない。足もふらつかない。
ただ、心臓だけが、壊れそうなくらいうるさかった。
――最後の一段を上りきって、私は屋根裏の扉に手をかけた。




