第17話 弟じゃない人
一睡もできないまま、夜が明けた。
泣き腫らした目をこすりながら、私はそっと部屋の扉を開けた。マリーに冷たい水をもらおうと思ったのだ。
そして、息を呑んだ。
扉のすぐ横の壁にもたれて、ルシアンが眠っていた。
夜会の礼服のまま、床に片膝を立てて座り込んでいる。銀色の髪が額に落ちて、長い睫毛が頬に影を落としていた。
(……一晩中、ここにいたの?)
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
九歳のあの夜、ルシアンは私が眠るまでベッドの横にいてくれた。翌朝、私の手を握ったまま突っ伏して眠っていた。
あの頃と、何も変わっていない。
――ううん。変わったのは、私のほうだ。
私は部屋に戻って、ショールを手に取った。ルシアンの肩にそっとかけると、ふわりと彼の匂いがした。
夜会の香水の残り香と、その奥にある、いつものルシアンの匂い。
心臓が、どくんと大きく鳴った。
(弟じゃ、ないんだ)
昨日まで、何も考えずに触れていた。手を握ったり、腕を組んだり、頭を撫でたり。
でも、血の繋がらない男の人だと思った途端、指先ひとつ触れるのにも、ひどく勇気が要った。
「……ん」
ルシアンの睫毛が震えて、紫の瞳がゆっくりと開いた。
目が合う。
「――姉様」
寝起きの掠れた声で呼ばれて、顔が一気に熱くなった。
「お、おはよう。風邪、ひくわよ。こんなところで寝たら」
「ショール、姉様のですね」
ルシアンは肩にかけられたショールを指でつまむと、ふっと目を細めた。
「物置の夜と、逆ですね」
「……覚えてたの」
「忘れるはずがありません」
ルシアンはショールに頬を寄せて、ひどく幸せそうに笑った。
その笑顔を見ていられなくて、私は慌てて目をそらした。
朝食の席には、お父様だけが座っていた。
お義母様とダミアンの席は、もう片づけられている。広い食卓が、やけにがらんとして見えた。
「ロザリンド。食事のあとで、少し話がある」
お父様に呼ばれて執務室へ行くと、机の上に分厚い手紙の束が積まれていた。
「これは……?」
「お前宛ての縁談だ。昨夜から今朝にかけて、これだけ届いた」
私は目を丸くした。
ざっと見ても、二十通は超えている。侯爵家、伯爵家、中には隣国の公爵家の紋章まであった。
「王太子との婚約が解消され、お前は自由の身になった。それに昨夜の件で、エーデル家の令嬢は聡明で気高いと評判になっているらしい」
「そんな、私は何も」
「一つ、言っておかねばならんことがある」
お父様は、手紙の束から一通を取り上げた。
「これは、ルシアンからだ」
「……え?」
「今朝早く、あいつがこれを私に渡してきた。正式な書面でな」
差し出された封筒には、見慣れたルシアンの字で、こう書かれていた。
――ロザリンド・エーデル嬢への、求婚の申し入れ。
頭が、真っ白になった。
「ル、ルシアンが……私に、求婚……?」
「あいつは、十八の誕生日の夜にも、同じことを私に言った。出自を聞いたその場でな」
お父様は、苦笑のような、ため息のようなものを漏らした。
「血が繋がっていないなら、姉様を妻にもらいたい、と。私は、ロザリンドの婚約が片づくまで待て、と答えた。あいつは、律儀にそれを守ったわけだ」
(十八歳の誕生日……)
あの夜、扉の前に立っていたルシアンの、青ざめた顔を思い出す。
あのときにはもう、ルシアンは。
「私は、お前に何かを強いるつもりはない。お前は、九年間も一人で耐えてきた。これからは、お前自身が選べばいい」
お父様は、手紙の束を私の前に押しやった。
「ルシアンの申し入れを受けるもよし。他の縁談を選ぶも。誰とも結婚せず、この家にいるのも。ただ」
お父様は、そこで言葉を切った。
「ルシアンは、お前の答え次第で、自分のすべてを決めると言っていた。帝国へ行くかどうかもな」
部屋に戻っても、心臓がうるさく鳴り続けていた。
「お嬢様、お顔が赤いですよ」
お茶を淹れてくれたマリーが、にこやかに笑う。
「マ、マリーは知っていたの? ルシアンが、その」
「お嬢様に求婚なさったことですか? 屋敷中の者が知っておりますよ。というより、ずっと前から皆、わかっておりました」
「ずっと前から!?」
「お嬢様を見るルシアン様の目は、弟君のものではございませんでしたから」
マリーは、懐かしむように目を細めた。
「お嬢様だけですよ、気づいていらっしゃらなかったのは」
私は、両手で顔を覆った。
(嘘でしょう……)
朝起こしに来てくれたのも。赤いドレスを着せてくれなかったのも。私に近づく男性たちが、次々と青ざめて去っていったのも。
――好きな人なら、もういますよ。
馬車の中で、そう言ったときの、切なげな笑顔も。
全部、全部。
「お嬢様は、どうなさりたいのですか」
マリーの静かな声に、私は顔を上げた。
「ルシアン様のことを、どう思っていらっしゃるのです?」
――どう、思っているんだろう。
ルシアンがミアと手を重ねているのを見たとき、胸が張り裂けそうになった。
ブレスレットを嵌めてもらったとき、手首が燃えるように熱かった。
帝国に行っていいと言ったとき、本当は、行かないでと叫びたかった。
今朝、ショール越しに彼の匂いがしたとき、心臓が止まりそうになった。
(そんなの、もう……)
答えは、とっくに出ている気がした。
でも、それを認めるのが怖かった。
九年間、姉として接してきた。姉として、彼を守ると誓った。その私が、今さら――
「お嬢様」
扉の外から、執事の声がした。
「明日、ハーシェル侯爵家のご嫡男、ギルバート様がご挨拶にいらっしゃるとのことです。縁談の件で、ぜひ一度お目にかかりたいと」
その夜、夕食の席で、ルシアンは一度も私を見なかった。
いつものように穏やかに微笑んで、お父様と言葉を交わして、きちんと食事を終える。
ただ、私がハーシェル侯爵家の名前を口にした瞬間。
ルシアンの手の中で、銀のフォークが、ぐにゃりと曲がった。




