第16話 もう、弟ではいられない(ルシアン視点)
帰りの馬車の中で、姉様は一言も話さなかった。
向かいの席に座ったまま、膝の上で両手を組み、窓の外の雨を見つめている。僕と目を合わせようとはしなかった。
いつもなら、僕の隣に座るのに。
いつもなら、僕が手を伸ばす前に、姉様のほうから袖をつまんでくるのに。
(……当然か)
九年間、ずっと隣にいた弟が、実は赤の他人だった。
それを、あんな大勢の前で知らされたのだ。混乱しないはずがない。
わかっている。わかっているのに、膝の上で組まれた姉様の手に、触れたくてたまらなかった。
手首のブレスレットが、窓から差し込む街灯の光を受けて、小さく紫に光った。
――外して、いない。
それだけで、少しだけ息ができた。
屋敷に着くと、使用人たちが慌ただしく出迎えた。夜会での騒ぎは、もう屋敷にまで届いているらしい。
お義母様とダミアンの部屋は、すでに空っぽだった。父上が手を回して、今夜のうちに荷物を運び出させたのだ。
あの二人の気配が消えた屋敷は、驚くほど静かだった。
「……ルシアン」
階段の踊り場で、姉様が足を止めた。
振り返ったロザリンドの表情は読めなかった。
「少しだけ、話せる?」
姉様の部屋に入るのは、合鍵を使ったあの夜以来だった。
姉様は窓辺に立ち、僕は扉の近くで足を止めた。いつもならすぐに隣へ行くのに、今夜はなぜか、その数歩が踏み出せなかった。
「いつから、知ってたの」
背中を向けたまま、姉様が言った。
「十八歳の誕生日の夜です。父上から、すべて聞きました」
「……あの夜、顔色が悪かったのは、そのせいだったのね」
「はい」
姉様の肩が、小さく震えた。
「どうして、言ってくれなかったの」
責めるような声ではなかった。ただ、ひどく寂しそうな声だった。
「すべてが片づいてから、お伝えするつもりでした。王太子も、あの女も、継母も。姉様を傷つけるものが何もなくなってから」
「私が、傷つかないように?」
「……はい」
姉様は、ゆっくりと振り返った。
泣いてはいなかった。けれど、目の縁が赤く滲んでいた。
「大使様が言ってたわ。皇后陛下が、あなたを帝国へお迎えしたいって」
「ええ」
「帝国に行けば、あなたは皇后陛下の甥として、ちゃんとした身分を得られる。もう誰にも、愛人の子なんて言われない。ノルディアの王子として、堂々と生きていける」
姉様は、無理に笑おうとしていた。
唇の端が、震えていた。
「だから、行っていいのよ、ルシアン」
――ああ。
また、だ。
「あなたはもう、私の弟でいる必要はないんだから。エーデル家に縛られる必要も、私のそばにいる必要もない。九年間、ずっと私のために頑張ってくれて、本当にありがとう。だから、これからは」
「姉様」
気づいたら、数歩の距離を詰めていた。
窓辺に立つ姉様の両側に手をついて、逃げ道を塞ぐ。姉様が、驚いたように僕を見上げた。
「また、僕を手放そうとするんですか」
「手放すなんて、そんな……」
「図書館のときも、そうでした。僕が無理をしているんじゃないか。僕を縛っているんじゃないか。そう思い込んで、勝手に僕から離れようとした」
声が、低くなるのを止められなかった。
「姉様は、いつもそうだ。自分が痛いのは平気なくせに、僕のことになると、すぐに一人で背負い込んで、一人で答えを出して、一人で離れていこうとする」
「だって」
姉様の瞳が、大きく揺れた。
「だって、私にはもう、あなたを引き止める理由がないじゃない……!」
ぽろり、と。
堪えていた涙が、姉様の頬を伝い落ちた。
「家族だから、一緒にいられたのに。弟だから、そばにいてくれたのに。血が繋がってないなら、私たち、もう何でもないじゃない……!」
――何でもない。
その言葉が、胸の奥に深く突き刺さった。
同時に、気づいてしまった。
姉様が泣いている理由に。
僕が他人だったことに怒っているんじゃない。騙されていたことを悲しんでいるんでもない。
僕が、離れていってしまうことを怖がっているのだ。
(……姉様)
思わず、笑みがこぼれそうになった。
この人は、本当にわかっていない。僕がどれだけ、この人に囚われているのか。
「何でもない、なんてことはありません」
姉様の頬を伝う涙を、親指でそっと拭う。
「血が繋がっていなくても、僕にとって姉様は、この世界でたった一人の人です。九歳のあの日から、ずっと」
「ルシ、アン」
「帝国にも、行きません。身分も、王子の地位も、どうでもいい。姉様のいない場所に、僕の居場所なんてないと言ったでしょう」
姉様の瞳が、涙で濡れたまま僕を見上げる。
その唇が、何かを言おうとして震えた。
――今なら、言える。
九年間、胸の奥に沈め続けてきた言葉。弟だから、決して口にしてはいけないと思っていた言葉。
でも。
「……ごめんなさい、ルシアン」
姉様が、そっと僕の胸を押した。
「少しだけ、時間をちょうだい。頭の中が、ぐちゃぐちゃで……あなたのこと、どう思えばいいのか、わからないの」
押し返す手は、驚くほど弱かった。
振り払おうと思えば、簡単にできた。このまま腕の中に閉じ込めて、答えなんて待たずに、僕のものにしてしまうことも。
――いっそ、この部屋に閉じ込めてしまおうかと。
あの夜、冗談だと笑ってごまかした言葉が、頭をよぎる。
でも、僕はゆっくりと手を下ろした。
「わかりました」
姉様が、ほっとしたように息をつく。
「待ちます。姉様が答えを出してくれるまで」
僕は一歩下がって、姉様の左手を取った。
手首のブレスレットに、そっと唇を寄せる。
「ただし、これだけは外さないでください。それが、僕を待たせる条件です」
「……うん」
姉様は、小さく頷いた。
姉様の部屋を出て、扉が閉まる音を背中で聞いた。
廊下の壁に背を預けて、ずるずると座り込む。
(待ちます、か)
自分で言っておきながら、笑ってしまう。
九年待った。あと少し待つくらい、どうということはない。
ただし、僕が待つのは、姉様の答えだけだ。
姉様がどんな答えを出そうと、手放すつもりは最初からない。
もし姉様が、僕を弟としてしか見られないと言ったら。それでもいい。弟として、一生そばにいる。姉様が他の男のもとへ嫁ぐことだけは、決して許さないけれど。
もし姉様が、僕から離れたいと言ったら。
――そのときは、そのときだ。
扉一枚隔てた向こうから、かすかに、姉様のすすり泣く声が聞こえた。
今すぐ扉を開けて抱きしめたい衝動を、拳を握りしめてこらえる。
代わりに、扉にそっと額を押し当てた。
「姉様」
聞こえないように、小さくつぶやく。
「次にあなたの前に立つときは、もう弟としてではありません」
その夜、僕は一度も自分の部屋に戻らなかった。
夜が明けるまで、ずっと、姉様の扉の前に座っていた。




