第15話 乗り越えて
「お待ちください、ダミアン殿」
ルシアンの声が、大広間に響いた。
出口へ向かっていたダミアンの背中が、ぎくりと固まる。周りの貴族たちが、何事かと振り返った。
「ど、どこへ行こうと俺の勝手だろう」
「ええ、もちろん。ただ、その前に一つだけ」
ルシアンは、私の手を引いたままゆっくりと歩み寄った。
「先ほどの三名に渡された金貨ですが。王太子殿下の側近に、その資金を流したのはあなたですね」
ダミアンの顔から、さあっと血の気が引いた。
「な、何を根拠に」
「側近殿の帳簿に、あなたの名前が残っていました。それから、王都の賭博場の借用書も。あなたの借金は、金貨にして八百枚。とても、あなたの小遣いで払える額ではありません」
ルシアンは、ちらりとダミアンの隣に視線を移した。
「その借金を、エーデル家の金で肩代わりしていた方がいらっしゃいますね。――コーデリア夫人」
お義母様の扇が、ぱしりと閉じられた。
「……何のことかしら。根も葉もない言いがかりはおやめなさい」
「根も葉もあるさ」
低い声が、人垣の向こうから響いた。
貴族たちが道を開ける。現れたのは、お父様だった。
「旦那様……!」
「この十二年間、お前が家の財産から持ち出した金の明細は、すべて確認した。ダミアンの借金の肩代わりだけではない。宝石、ドレス、実家への仕送り。よくもまあ、ここまで」
お父様の灰色の瞳が、氷のように冷たくお義母様を見据えた。
「そして、ダミアン。お前は姉を傷物にし陥れることで、自分がエーデル家を継ぐつもりでいたそうだな」
「ち、違います、義父上! 俺はただ、母上に言われて……」
「ダミアン!?」
お義母様が、悲鳴のような声を上げた。
ダミアンは、母親の顔も見ずに続けた。
「母上が、ロザリンドさえいなくなれば家は俺のものになるって! 俺は、言われた通りにしただけで……!」
あれほど威張り散らしていたダミアンが、真っ青な顔で言い訳を並べている。
周りの貴族たちから、冷ややかな視線が二人に注がれた。
お父様は、深く息をついた。
「コーデリア。本日をもって、お前とは離縁する。持参金は返さん。横領した金と相殺だ。実家の領地へ戻り、二度とエーデル家の敷居をまたぐな」
「そんな……!」
「ダミアン。お前もエーデル家とは縁を切る。借金は自分で返せ。北の国境警備隊に、見習いとして口をきいておいた。給金はすべて返済に回るよう手配済みだ」
「こ、国境警備隊……!? あんな寒くて何もないところ……!」
ダミアンは、その場にへたり込んだ。
牢に入れられるわけでも、命を取られるわけでもない。ただ、これまで当たり前のように手にしていたものを、すべて失うだけ。
(……あの物置の夜より、ずっと優しい罰だわ)
そう思ったけれど、口には出さなかった。
お義母様が、ふらりと顔を上げた。
その目が、私を捉える。
「……ロザリンド」
びくり、と肩が跳ねた。
九年間、何度も聞いた声。部屋に呼ばれる前の、あの冷たい声。
「ロザリンド、あなたのせいで……」
お義母様は、私に向かって一歩踏み出した。
「母親を亡くしたあなたを、ここまで躾けてあげたのは誰? わたくしでしょう? その恩を忘れたの? 今すぐ跪きなさい!」
――跪きなさい。
喉が、ひくりと鳴った。
膝が震える。指先が冷たくなる。体の奥に刻まれた何かが、また私を床へ引きずり下ろそうとする。
「姉様」
ルシアンが、私の前に出ようとした。
その腕を、私はそっと押さえた。
「……大丈夫。ルシアン」
ルシアンが、驚いたように私を見る。
私は、彼の手を握ったまま、一歩前へ出た。
お義母様と、真正面から向き合う。
怖い。今でも、怖い。
でも、今の私の手は、もう一人で震えているわけじゃない。
「嫌です」
声は、思っていたよりもずっとはっきりと出た。
「お義母様。私は、もう二度と、あなたには従いません」
お義母様の顔が、引きつった。
「な……口答えを、するつもり?」
「はい」
頷く。
「あなたが私にしたことは、躾ではありませんでした。私はもう、あの部屋には行きません。あなたに、許しを乞う理由もありません」
大広間が、しんと静まり返っていた。
お義母様の唇が、わなわなと震える。何か言い返そうとして、けれど、言葉が出てこないらしかった。
やがて、その手から扇が滑り落ちた。
からん、と乾いた音が床に響く。
お義母様は、糸が切れたようにその場に座り込んだ。
かつて私を見下ろしていたその人が、今は床に膝をついている。
私は、それを見下ろしても、何の喜びも感じなかった。ただ、胸の奥にずっと刺さっていた棘が、ようやく抜けたような気がした。
「……ロザリンド」
お父様が、私の前に立った。
その顔は、ひどく苦しげに歪んでいた。
「すまなかった。私は、何も見ていなかった。お前があの頃、どれほど……」
「お父様」
私は、小さく首を横に振った。
「今、見てくださったなら、それでいいです」
お父様は、何かをこらえるように目を閉じた。そして、ぎこちない手つきで、私の頭にそっと手を置いた。
お母様が亡くなってから、初めてのことだった。
近衛騎士たちが、お義母様とダミアンを連れて大広間を出ていく。
ようやく終わった。そう思って、ほっと息をついた、そのときだった。
「失礼。少々、よろしいか」
人垣の中から、一人の男性が進み出た。
黒と金の軍服に、胸元には双頭の鷲の紋章。この大陸で最も広大な版図を誇る、帝国の紋章だ。
「ヴァルトシュタイン帝国大使、オスカー・フォン・ベルクと申します」
会場が、どよめいた。
帝国の大使が、なぜ今。誰もがそう思ったに違いない。
大使は、まっすぐにこちらへ歩いてきた。
そして――ルシアンの前で、片膝をついた。
「お探し申し上げておりました。ノルディア王国最後の王女、アリシア殿下の御子。ルシアン殿下」
時が、止まったような気がした。
「……え?」
自分の声が、ひどく間抜けに聞こえた。
大使は懐から一通の書状を取り出し、恭しく掲げた。
「我が帝国の皇后陛下は、アリシア殿下の姉君にあらせられます。皇后陛下は二十年もの間、行方知れずとなった妹君と、その御子を探し続けておられました」
大広間が、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「ノルディア……!? 二十年前に滅んだ、あの!」
「帝国皇后の甥ですって!?」
「では、エーデル公爵の愛人の子というのは……」
国王陛下が、深くため息をついた。
「やはりか。その紫の瞳、ノルディア王家の血筋に違いないと思っていた」
お父様は、黙って目を伏せていた。驚いた様子は、少しもない。
(お父様は、知っていたの……?)
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
ルシアンが、王族。帝国皇后の甥。
じゃあ。じゃあ、ルシアンは。
「……ルシアン」
震える声で、隣を見上げた。
ルシアンは、ひどく静かな目で私を見下ろしていた。
驚きも、戸惑いもない。まるで、この瞬間が来ることを、ずっと前から知っていたかのように。
「ルシアンは、エーデル家の……お父様の子じゃ、ないの?」
「はい」
ルシアンは、私の手を握る指に、そっと力を込めた。
「僕と姉様は、血が繋がっていません」
その言葉が、やけにゆっくりと、胸の奥に落ちていった。




