第75話 第二の鼓動
海は、ひとつしかない。
そう思っていた。
けれど――
もし海の底に、
もうひとつの世界が眠っているとしたら。
そこから届く鼓動は、
いったい誰のものなのだろう。
「SUBJECT 02……」
悠真は、その文字を見つめていた。
画面はすでに暗くなっている。
それでも。
あの文字だけが、頭から離れなかった。
「第二の被験者……なのか?」
澪が呟く。
神崎は答えない。
端末を操作しながら、何度も同じ画面を呼び出している。
だが、何度試しても結果は同じだった。
アクセス拒否。
情報なし。
記録なし。
まるで――
最初から存在しなかったかのように。
「神崎。」
悠真が呼ぶ。
「知ってるんだろ?」
「……何をだ?」
「SUBJECT 02。」
神崎の手が止まる。
「知らない。」
「嘘だ。」
「なぜそう思う?」
「あなたは、文字を見た瞬間に顔色が変わった。」
神崎は黙った。
澪も何も言わない。
数秒後。
神崎は椅子へ腰を下ろした。
「……一つだけ聞いていいか。」
「何?」
「お前は、本当に何も覚えていないのか?」
悠真は答えられなかった。
あの海。
あの少年。
白い服の女性。
そして――
自分を見ていた、何か。
「分からない。」
正直に答える。
「でも、最近……知らないはずのものを知ってる気がする。」
神崎は目を伏せる。
「そうか。」
「何か知ってるなら言ってくれ。」
「……まだ言えない。」
「またそれか。」
悠真の声が強くなる。
「いつまで隠すつもりだ?」
神崎は悠真を見る。
「全部知ったら、お前は戻れなくなる。」
「もう戻れないだろ。」
悠真は静かに言った。
「俺はもう、普通の人間じゃない。」
その言葉に、澪がわずかに目を伏せた。
神崎は何も言わなかった。
その時。
――ドクン。
始原の雫が揺れた。
三人が同時に振り返る。
透明な光。
その内部に、細い亀裂が走っていた。
「……壊れる?」
澪が近づく。
「触るな。」
神崎が止める。
だが。
亀裂は広がらない。
むしろ。
透明な光の中から、何かがこちらへ向かって伸びている。
糸。
細い。
光の糸だった。
それが、ゆっくりと悠真へ近づいてくる。
「悠真……。」
澪が息を呑む。
悠真は動かなかった。
逃げる理由がなかった。
なぜなら。
その光を見た瞬間。
懐かしいと思ったからだ。
光が指先へ触れる。
――ドクン。
視界が白く染まった。
今度は海ではない。
暗い部屋。
小さなベッド。
誰かが泣いている。
赤ん坊。
その横に、一人の女性が座っている。
女性は赤ん坊を抱き上げた。
顔は見えない。
だが声だけは聞こえた。
『この子には、海を見せないで。』
別の声が答える。
『なぜ?』
『見れば、呼ばれる。』
『誰に?』
女性は答えない。
ただ。
赤ん坊の手を握る。
そして。
『この子は、ひとりじゃないから。』
映像が途切れる。
悠真は目を開けた。
「……っ。」
息が荒い。
澪が肩を支える。
「何を見たの?」
悠真は答える。
「赤ん坊。」
「赤ん坊?」
「俺……だった。」
神崎が立ち上がる。
「またか。」
「神崎?」
「いや……。」
神崎は首を振った。
「続きは?」
「分からない。」
その時。
遠くで警報が鳴った。
一つ。
二つ。
施設の通信システムが赤く点滅する。
【外部観測システム】
【異常反応】
【海域:不明】
神崎が画面を見る。
「外部からデータが入ってきている。」
「どこから?」
「……分からない。」
画面に、波形が表示される。
一定の間隔。
規則的な波。
――ドクン。
――ドクン。
――ドクン。
澪が呟く。
「これ……心拍数?」
神崎は答えなかった。
悠真だけが気づいていた。
その波形。
どこかで見たことがある。
「……NOAHだ。」
神崎が振り返る。
「何?」
「この波形。」
悠真は画面を指差す。
「俺の中にあるNOAH LINKと同じだ。」
神崎の顔から血の気が引く。
その瞬間。
通信が入った。
ノイズ。
そして。
遠くから誰かの声が聞こえる。
『……聞こえますか。』
神崎が通信装置へ近づく。
「こちら研究施設。所属を名乗れ。」
返事はない。
数秒。
『……人間ですか?』
神崎の表情が変わる。
「何?」
『あなたたちは……まだ、人間ですか?』
通信が途切れた。
沈黙。
悠真は画面を見つめる。
波形は止まっていない。
そして。
その波形とは別に。
もう一つ。
同じ波形が重なった。
「……二つ。」
澪が呟く。
「何が?」
悠真が答える。
「鼓動。」
一つは、自分たちのいる場所。
もう一つは――
海の向こう。
さらに深い場所。
そして画面の隅に。
新しい表示が浮かび上がった。
【SUBJECT 01】
【ACTIVE】
その下。
【SUBJECT 02】
【ACTIVE】
二つの表示が、同時に点滅している。
神崎は言葉を失った。
悠真も動けない。
ただ。
どこか遠くで。
二つの鼓動が重なった。
――ドクン。
――ドクン。
まるで。
互いの存在を確かめるように。
そしてその瞬間。
始原の雫の透明な光が。
初めて――
悠真ではなく。
海の方向を向いた。
第75話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は「SUBJECT 02」の存在を、少しだけ具体的にしました。
ただし、まだ正体は明かしません。
悠真が見た赤ん坊の記憶。
「この子は、ひとりじゃない」という言葉。
そして同時に動き始めた、
【SUBJECT 01】
【SUBJECT 02】
二つの鼓動。
何故、始原の雫は悠真ではなく海の方向を向いたのか。
ここから「世界胎動」は、悠真個人の物語から、世界そのものを巻き込む段階へ入っていきます。
まだ答えは出しません。
伏線を一本ずつ繋ぎながら、少しずつ核心へ近づいていきます。
次回もよろしくお願いいたします。




