第73話 海が目を覚ます
世界は、何も変わっていないように見えた。
空もある。
街もある。
人も生きている。
ただ――
海だけが、
何かを知っていた。
――ドクン。
その鼓動が消えたあとも。
地下研究施設には、妙な静けさが残っていた。
誰も動かない。
誰も話さない。
モニターに映っていた黒い海も、いつの間にか消えている。
残っているのは、通常のシステム画面だけだった。
「……戻った?」
澪が小さく呟く。
神崎は答えなかった。
彼は一台の端末を見つめている。
「神崎。」
悠真が呼ぶ。
「蒼一は……何を知っていた?」
神崎の指が止まる。
「さっき言っただろ。」
「世界が生まれ変わる時には、最初に海が目を覚ますって。」
「それだけじゃないはずだ。」
悠真は神崎から目を逸らさない。
「あなたは、何か知ってる。」
沈黙。
神崎はゆっくり息を吐いた。
「……一つだけ。」
「何?」
「蒼一は、最後の研究を私にも見せなかった。」
意外な答えだった。
「親友だったんじゃないのか?」
「だからこそだ。」
神崎は苦笑する。
「親友だから何でも話してくれると思うか?」
悠真は黙る。
神崎は端末を操作した。
古いデータが一つだけ表示される。
【PROJECT:CHRYSALIS】
澪が画面を見る。
「クリサリス……。」
神崎は頷いた。
「これが、HYDRA計画の最終段階だ。」
悠真の表情が変わる。
「最終段階?」
「正確には……最終段階になるはずだった計画。」
ファイルを開く。
しかし。
中身はほとんど消えていた。
残っているのは、たった三行。
【生命は進化する。】
【世界もまた進化する。】
そして最後の一行。
【ならば、世界そのものを繭にする。】
澪が息を呑む。
「……世界を、繭に?」
神崎は首を横に振る。
「私にも意味は分からない。」
「でも蒼一は、この研究を最後まで続けていた。」
悠真は画面を見つめる。
「どうして止めなかった?」
神崎はしばらく黙っていた。
「止めた。」
「……え?」
「私が止めたんだ。」
神崎の声が低くなる。
「蒼一は危険な領域へ踏み込もうとしていた。」
「だから私は、研究施設を封鎖した。」
「データも処分した。」
悠真は眉を寄せる。
「でも、残ってる。」
「そうだ。」
神崎が苦笑する。
「蒼一は、私よりずっと用意周到だった。」
その時。
端末の画面が突然暗くなる。
「何?」
澪が身構える。
画面中央に、一つの点が現れた。
透明な光。
第72話で始原の雫に生まれたものと同じだった。
神崎の表情が凍る。
「……あり得ない。」
「どうした?」
神崎は答えない。
代わりに、端末の古いログを開く。
そこには日付が表示されていた。
――二十八年前。
その日の記録。
【PROJECT CHRYSALIS】
【第一段階:完了】
【第二段階:完了】
【第三段階:保留】
そして最後。
【第四段階:世界胎動】
悠真の目が見開かれる。
「……第4章?」
澪が驚く。
神崎が首を振る。
「違う。」
「これは、私たちが章を付けるずっと前の記録だ。」
その言葉に、空気が凍る。
二十八年前。
すでに。
「世界胎動」という言葉が使われていた。
悠真は画面へ近づく。
すると、最後に一つだけ残っていた音声データが自動的に再生された。
雑音。
そして。
懐かしい声。
『もし、この記録を誰かが聞いているなら――』
悠真の呼吸が止まる。
榊蒼一だった。
『世界は、もう一度だけ生まれ直す。』
『その時、人間が生き残れる保証はない。』
『だから……』
少しだけ、声が震えた。
『悠真を、海から遠ざけてくれ。』
「……俺を?」
悠真の顔から血の気が引く。
『あの子は知らなくていい。』
『あの子自身が、何なのかを。』
そこで音声は途切れた。
誰も喋らない。
神崎でさえ、初めて動揺していた。
「……蒼一。」
悠真は拳を握る。
「俺は……海と何の関係がある?」
答えはない。
その代わり。
地下施設の奥から。
――ドクン。
また、鼓動が聞こえた。
始原の雫ではない。
透明な光でもない。
もっと遠い場所。
もっと深い場所。
そして同時刻。
世界中の海で。
海面が、ほんの少しだけ持ち上がった。
まるで――
海そのものが、息を吸ったように。
次の瞬間。
すべての海が、同じ方向を向いた。
そこにあるのは。
何もない空だった。
それでも海は。
何かを見ていた。
第73話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、これまでの「HYDRA」「NOAH」「始原の雫」とは少し違うところへ踏み込みました。
二十八年前。
すでに「世界胎動」という言葉が存在していた。
そして蒼一が残した、
「悠真を、海から遠ざけてくれ」
という言葉。
なぜ蒼一は、悠真を海から遠ざけようとしたのか。
悠真自身と海には、どんな関係があるのか。
まだ、答えは出しません。
ここから少しずつ、過去と現在が繋がっていきます。
そして――
世界中の海は、何を見ているのか。
次回もよろしくお願いいたします。




