第72話 透明な鼓動
生まれたものには、名前が必要なのだろうか。
それとも――
名前を与えた瞬間、
それは別の何かになってしまうのだろうか。
――ドクン。
地下深く。
誰もいないはずの空間で、二度目の鼓動が響いた。
悠真は、ゆっくりと顔を上げる。
「……今の、聞こえたか?」
澪も黙って周囲を見回した。
「うん。」
神崎は何も言わなかった。
ただ、始原の雫を見つめている。
透明な光。
それは雫の内部で、ゆっくりと浮かんでいた。
蒼い光とは違う。
黒海の黒とも違う。
光っているはずなのに、そこだけ空間が抜け落ちているように見える。
「……あれは何だ。」
神崎が呟く。
始原の雫は答えなかった。
ただ、透明な光の周囲だけが、わずかに歪んでいる。
悠真は一歩近づいた。
「始原の雫。」
返事はない。
「これは何なんだ?」
数秒。
沈黙。
そして――
『まだ、名前を持たない。』
悠真の眉が動く。
「名前を……持たない?」
『そう。』
『だから、まだ何者でもない。』
澪が不安そうに透明な光を見る。
「じゃあ……生き物なの?」
『分からない。』
始原の雫がそう答えた。
その瞬間。
神崎が顔を上げる。
「分からない?」
『私にも、分からない。』
初めてだった。
始原の雫が、自分自身のことを「分からない」と言った。
悠真は黙って透明な光を見る。
すると。
その光が、ほんの少しだけ揺れた。
――ドクン。
三度目の鼓動。
悠真の胸の奥でも、同時に何かが反応する。
【NOAH LINK】
【6.2%】
数字は変わらない。
だが、警告表示が一つだけ追加されていた。
【UNKNOWN SIGNAL】
「未知の信号……?」
澪が画面を覗き込む。
神崎も近づいた。
「NOAHが認識しているのか?」
「分からない。」
悠真は自分の胸へ手を当てる。
心臓は普通に動いている。
なのに。
その鼓動とは別に、もう一つの鼓動が聞こえる。
自分の中ではない。
施設の中でもない。
もっと遠い。
もっと深い。
世界のどこかから。
――ドクン。
悠真は目を閉じた。
一瞬。
見えた。
海。
黒い海。
その海の底に、巨大な何かが横たわっている。
形は分からない。
顔もない。
ただ、その周囲に無数の光が浮かんでいる。
一つ。
二つ。
三つ。
数え切れない。
そして、そのすべてが同じ間隔で明滅していた。
――ドクン。
――ドクン。
――ドクン。
「……悠真?」
澪の声で目を開ける。
そこは地下研究施設だった。
「今……何か見た?」
悠真はすぐには答えなかった。
「海を見た。」
神崎の表情が変わる。
「黒海か?」
「分からない。」
「何がいた?」
悠真は首を横に振る。
「見えなかった。」
「でも……」
言葉が止まる。
澪が静かに尋ねる。
「でも?」
悠真は透明な光を見る。
「たくさんいた。」
その言葉に、始原の雫が初めて大きく揺れた。
『……そう。』
「知ってるのか?」
『知っている。』
「何がいる?」
始原の雫は答えなかった。
代わりに。
施設全体の照明が、一斉に点灯する。
警報は鳴っていない。
機械も停止していない。
それなのに。
すべてのモニターへ、同じ映像が映し出された。
海。
どこまでも続く黒い海。
そして。
その中央に浮かぶ、一つの透明な光。
澪が息を呑む。
「これ……今の光?」
神崎が端末を操作する。
「外部カメラじゃない。」
「映像データも存在しない。」
「じゃあ、何が映してるの?」
誰も答えられなかった。
映像の中で、透明な光がゆっくり沈んでいく。
黒い海の底へ。
その直後。
画面に一つの文字が現れた。
【WORLD INITIALIZATION】
神崎の顔から血の気が引く。
「……そんなはずはない。」
悠真が振り返る。
「何を知ってる?」
神崎は答えない。
「神崎。」
「……蒼一が、一度だけ言っていた。」
「何を?」
神崎は画面を見つめたまま、低く呟いた。
「世界が生まれ変わる時には……」
「最初に、海が目を覚ます。」
その瞬間。
世界中の海で。
同時に。
小さな波が生まれた。
風はない。
月もない。
嵐もない。
それでも海は動いた。
一度。
そして――
二度。
まるで。
巨大な何かが、眠りから目を覚ますように。
――ドクン。
世界胎動が、始まった。
第72話をお読みいただき、ありがとうございました。
「透明な光」は、まだ何者なのか分かりません。
そして今回、悠真が見た黒い海と無数の光。
神崎が知っている蒼一の言葉。
「世界が生まれ変わる時には、最初に海が目を覚ます。」
第4章「世界胎動」は、ここから少しずつ世界そのものへ変化を広げていきます。
透明な光は何なのか。
黒い海の底にいるものは何なのか。
そして、世界は何を始めようとしているのか。
まだ答えは出ません。
次回も、静かに物語を進めていきます。




