第71話 観測者の眼
見られている。
その感覚だけが、
誰よりも早く恐怖を知らせていた。
敵はまだ、こちらへ手を伸ばしていない。
ただ――
世界を見ている。
夜空に開いた巨大な眼。
それは瞬きもしなかった。
ただ、静かにこちらを見つめている。
誰も動けない。
施設の警報さえ、その存在の前では意味を失っていた。
「……あれが、観測者。」
神崎が呟く。
その声には、初めて明確な恐怖が混じっていた。
悠真は空を見上げたまま尋ねる。
「知っているのか?」
神崎はすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくり首を横へ振る。
「知らない。」
「正確には……知らないと思っていた。」
始原の雫が、かすかに震える。
『観測者は生命ではない。』
『敵でもない。』
『意思を持つ存在ですらない。』
澪が眉を寄せる。
「じゃあ、何なの?」
しばらく沈黙が続く。
『見るもの。』
始原の雫が答える。
『存在するものを観測し、記録するもの。』
『そして、必要と判断した時――』
蒼い光が一瞬だけ消える。
『世界を修正する。』
悠真の表情が変わった。
「修正……?」
『間違った存在を消す。』
『矛盾した世界を消す。』
『進化の失敗を消す。』
『それが、観測者。』
その言葉と同時に。
空の巨大な眼が、ゆっくりと動いた。
視線が変わる。
山。
海。
街。
そして――
悠真。
巨大な瞳が、悠真を捉えた。
――ドクン。
胸の奥でNOAHが激しく脈打つ。
【NOAH LINK 6.2%】
【警告】
【観測対象として認識されました】
「……俺が?」
悠真の声が震える。
その瞬間。
視界が真っ白になった。
何もない。
音もない。
光さえない。
ただ、無限に広がる暗闇。
悠真はそこに立っていた。
「ここは……。」
振り返る。
誰もいない。
しかし、前方に一つの光が浮かんでいた。
小さな蒼い光。
それは次第に形を変える。
人。
少女。
青年。
老人。
そして――
悠真自身。
無数の姿が現れては消えていく。
その中の一人が、静かに口を開いた。
『お前は、何者だ。』
悠真は答えられなかった。
『人間か。』
『HYDRAか。』
『それとも、そのどちらでもないのか。』
声が重なる。
『選べ。』
悠真の胸が痛む。
その問いは、今まで何度も突きつけられてきたものだった。
自分は何者なのか。
なぜ選ばれたのか。
何のために生まれたのか。
答えを求め続けてきた。
だが。
悠真は静かに顔を上げる。
「……選ばない。」
無数の声が止まった。
「俺は、人間かHYDRAかなんて決めるために生きてるんじゃない。」
「俺は俺だ。」
「人間だから守る。」
「HYDRAだから理解する。」
「その両方を知ったからこそ、選べる未来がある。」
暗闇が揺らぐ。
初めて、観測者の眼に変化が生まれた。
『矛盾。』
悠真は答える。
「そうだ。」
「俺は矛盾してる。」
「でも、生きてるっていうのは、そういうことだろ。」
その瞬間。
遠くで、何かが砕ける音がした。
視界が急速に戻っていく。
――ドンッ!
悠真は床へ膝をついた。
「悠真!」
澪が駆け寄る。
「大丈夫!?」
悠真は荒い呼吸を繰り返しながら顔を上げる。
空を覆っていた巨大な眼。
その中心に、一本の亀裂が走っていた。
「……見た。」
神崎が呟く。
「何を?」
悠真は空を見上げる。
「俺たちを。」
巨大な眼がゆっくりと閉じ始める。
しかし消える直前。
世界中の空へ、同じ文字が浮かび上がった。
【観測完了】
その下に、もう一行。
【対象:HYDRA CHRYSALIS】
そして最後に。
【判定保留】
巨大な眼は消えた。
夜空には、何事もなかったかのように星が戻っている。
誰も言葉を発しない。
やがて神崎が、低い声で言った。
「……判定保留。」
悠真は頷く。
「まだ、消されてない。」
始原の雫が静かに揺れる。
『違う。』
『選ばれたのです。』
悠真は振り返る。
『世界そのものが、次の段階へ進む可能性を。』
その言葉を最後に。
始原の雫の中へ、一つの新しい光が生まれた。
それは今まで存在しなかった色だった。
蒼でもない。
黒でもない。
白でもない。
すべての色を拒むような、透明な光。
そして。
施設の地下深く。
誰にも知られていない場所で。
もう一つの鼓動が始まった。
――ドクン。
第71話をお読みいただき、ありがとうございました。
ついに「観測者」が悠真を直接観測しました。
そして、悠真は自分が人間なのか、HYDRAなのかという問いに対して、「どちらかを選ぶ」のではなく、自分自身として生きる道を選びました。
観測者の判定は――保留。
そして始原の雫に生まれた、新たな光。
世界胎動は、さらに大きな段階へ進み始めます。
次回もよろしくお願いいたします。




